芥川龍之介

 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかしデウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「デウスは全能の御主だから、デウスに、――」
 オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀な口調を使い出した。
「デウスに勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、デウスばかりではありません。孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。。。」
「仏陀の運命も同様です。。。」
「ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

One thought on “芥川龍之介

  1. shinichi Post author

    神神の微笑

    by 芥川龍之介

    http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

    日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになるということを書いている。

     オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
    「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
     老人は静かに話し出した。
    「それも悪い事ではないかも知れません。しかしデウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
    「デウスは全能の御主だから、デウスに、――」
     オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀な口調を使い出した。
    「デウスに勝つものはない筈です。」
    「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、デウスばかりではありません。孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿本人麻呂と云う詩人があります。その男の作った七夕の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽くまでも彦星と棚機津女とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟と云う文字がはいった後も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ褚遂良でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹きは潮風のように、老儒の道さえも和げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子の著書は、我々の怒に触れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆えると信じています。科戸の神はまだ一度も、そんな悪戯はしていません。が、そう云う信仰の中にも、この国に住んでいる我々の力は、朧げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
     オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎い彼には、折角の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。

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