Terry Bennett, ウィキペディア

Yoshiwara_Girls吉原遊廓は江戸幕府によって公認された遊廓。
駿府城下にできた最初の遊廓7か町の内の5か町分が江戸日本橋近くへ移り、吉原となった。
明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。
左の写真のように娼妓が店の往来に面した所に居並んで客を待つ「アムステルダムの飾り窓」のようなシステムを「張見世」といった。この「張見世」は、1903年に始まった写真で指名する「写真見世」に押されるようにして、1916年にその姿を消した。

3 thoughts on “Terry Bennett, ウィキペディア

  1. shinichi Post author

    吉原遊廓

    http://ja.wikipedia.org/wiki/吉原遊廓

    吉原遊廓(よしわらゆうかく)は江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。

    駿府城下には町が96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来ともいわれる。

    吉原 (東京都)

    http://ja.wikipedia.org/wiki/吉原_(東京都)

    江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五か丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯すもの、浪人悪党の逮捕を考慮した。

    明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」の異名もある。

    二丁町遊郭

    http://ja.wikipedia.org/wiki/二丁町遊郭

    二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)は、駿府にあった遊郭。静岡市葵区駒形通五丁目付近で、現在は静岡県地震防災センターがある。

    大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊郭になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失した。

    天正13年(1585年)、徳川家康が終焉の地を求めたとき、今川家の人質として幼少から青年期にかけての多感な時代の大半を過ごした地であること、東西の要衝であること、家康がこよなく愛したと言われる富士山が目前であることから、駿府築城を開始した。築城時に全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まっていた。その者達の労をねぎらうために遊女や女歌舞伎も多く集まっていた。しかし、彼女等を巡っての争い事が絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じた。そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに1万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである。

    後に、町の一部を江戸の吉原遊郭に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になったのである。駿府城下には町が96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する。

    空襲で焼失し、今ではその名残すら見えないが、存在を確かめることができる稲荷神社が僅かながらにひっそり佇んでいる。

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    現在の静岡駅の南西、安倍川近くに、鷹匠組頭、伊部勘右衛門が1万坪の土地を自費で購入し、遊郭街を建設した。1585年に、そこに遊郭ができると思った者はひとりもいなかった。この幕府公認の遊郭第一号は大いに賑わった。7か町あった遊廓は5か町が江戸の移ったため2か町だけしか残らず、それでも二丁町と呼ばれ、歓楽街として栄えた。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失し、今ではその名残すら見えない。蓬莱楼は静岡県地震防災センターとなり、駿河伏見稲荷神社だけが名残りを残しひっそりと佇んでいる。

    現在の人形町のあたりに庄司甚内が建設したのが、吉原の遊郭街。1615年に、葦の生い茂る湿地帯に遊郭ができると思った者はひとりもいなかった。駿府城城下から大量に移ってきた公娼たちがそこで働き始め、吉原は隆盛を極めた。もっとも、出来てから40年後に起きた明暦の大火(1657年)ですべてが焼かれ、周囲の市街化が進んでいたこともあって、浅草田圃に移転を命じられた。人形町の地価は上がり今も大いに賑わっているが、そこに吉原遊廓があったことを知る人は意外に少ない。

    江戸に幕府ができた時に、浅草田圃と呼ばれていた場所に一大遊郭街が建設されると思った人はひとりもいなかった。そこに今私たちが言うところの吉原ができ、何度も大火に見舞われながら、歓楽街で有り続けた。戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、吉原は赤線街となったが、1958年の売春防止法の施行により、その赤線も廃止。今でもそこは日本一のソープ街だが、江戸時代の華やかさはなく、文化の発信地という役割も担ってはいない。

    今、吉原大門の前の日本堤の土手の伊勢屋で天ぷらを食べても、吉原遊廓を感じることはない。「吉原炎上」を画面で見ても、それは吉原遊廓ではない。

    そべてが儚い。

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