入江昭

もちろん主権国家は依然として存在している。しかし、国家という単位で世界を理解できると思うのは、現代と過去とを混同するものである。すでに述べたように、現代の世界では国家そのものの性格が変わり、国家以外の人間集団、そしてネットワークが影響力を増しているからである。
国内国外の市民社会の成長と相互のつながり、そして全人類的な問題への関心の高まりを見れば、従来のように「国益」のからみあいを軸として国際関係を考えるのは時代遅れであることがわかろう。
たとえば、日米関係は日本外交の基調だとされるが、現代の世界にあっては、二国関係というものはしだいに意味を失っていることを想起すべきである。日本にとって米国が重要なのはパワーの関係、すなわち日本が米国の「核の傘」の下にあるからだとか、強大国化する中国に対し両国がバランスを維持する必要があるからだといった、旧態依然とした方程式は過去の見方を現代にあてはめようとするものである。そのような見方にもとづく「積極的平和主義」なるものも、もとより時代遅れの発想に過ぎない。
。。。 そのように旧態依然とした考えにとりつかれている原因の一つは、やはり旧来の考えを変えないほうが、新しい考えを取り入れるより楽だ、という態度であろう。 。。。 知的怠慢とも名付けうるこうした現象が、まだ各国で見られるのは嘆かわしいかぎりである。

3 thoughts on “入江昭

  1. shinichi Post author

    現代史の中の戦史

    by 入江 昭

    http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201203/04.pdf

    しかし 1960 年代頃になると、少しずつではあるが状況が変化していく。もちろん主権国家は厳然として存在しており、かつてなかったほどの数の独立国家が誕生する。しかしその一方、国家中心的な見方に代わる考えや組織も勢いを増していくのである。そのなかでも特徴的だったのは人間の普遍的な権利こそ最も貴重なものだとする人権の思想だった。さらに女性、有色人種、障碍者など、それまで差別待遇を受けてきた人たちの権利を推進しようとする運動が世界各地で盛んになる。その根底にあったのは、自由、平等、正義といった概念は決して特定の国や地域の独占ではなく、すべての人を結びつけているのであり、人類はその意味では1つなのだ、という考えである。

    そのような見方は以前からあった。しかし 20 世紀の半ばまでは、実際に世界を変えるほどの力とはなっていなかった。ところが 1960 年代以降になると、従来のナショナリズムと並んで、あるいは時としてそれ以上に、強固な思想となっていく。その背景には、宇宙のなかで、とくに月から見た地球には国境はなく、海と山だけだという実感が一般的になったことや、進行する経済のグローバル化が、欧米以外のアジア、中近東などの諸国の影響力を高めたこと、そして同時に女性や少数民族が多くの国で教育界や企業に進出していったことがある。あるいはまた、環境汚染問題やエネルギー問題が、国の安全に代わって「人間の安全(ヒューマン・セキュリティ)」という概念を生み出したこともある。グローバル化も新しい段階に入り、経済や技術の面だけではなく、思想的にも文化的にも世界各地の人々を結び付けていくことになる。

    その根底にあるのが、国境を超えた人間、あるいは人間性という概念や意識である。特定の国家の市民であっても、あるいは別個の宗教や民族に属するものであっても、すべて等しく人間なのだという意識、個々の特殊で具体的なアイデンティティと並んで普遍的な「人間」も存在しているのだという考えは、決して目新しいものではなかったが、19世紀後半から100年間の悲惨な戦争その他の重なる悲劇を経たあとでは、この概念がかつてないほどの重要性を帯び、影響力を増していく。その場合、「人間」とは根本的に反逆的な存在なのだとする、フランスの思想家カミュの考えが世界各地で広まっていったのも不思議ではない。1960年に出版されたカミュの『反乱者』は、新しい時代の到来を告げる声明文でもあった。人間が人間性を持った存在となるためには、それを否定してきたあらゆる権力、社会組織、慣習などに対して抵抗しなければならない、とする。人間性、自由、権利、正義といった、1960年代以降世界各地で影響力を持つようになる考えのほとんどすべてが、既成体制に対する抵抗、反発だったのは当然である。

    そのような態度が現存の政治体制や社会組織に対する抵抗となり、暴力の行使とすらなりうることは、その後の歴史が示しているが、同時に、より平和的な手段で現状を変えていこうとする動きも盛んになったことも無視できない。その最も顕著な例が国際非政府組織の活動である。国際的つながりを持った NGO の数は 1960 年代以降、爆発的に増加していく。NGO はどの国の政府も代表乃至代弁するのではなく、同じ問題意識を持った人たちが国境を超えてつながりあったものである。「国境なき医師団」など、人道援助行動をとる NGO のほかに、環境保全や人権保護のために世界中で活躍する組織も誕生する。特定の国家のためではなく、世界全体、人類すべてのために活動しているのだといえる。

    そのような新しい動きは、従来の世界を完全に変えることはなかったが、少なくとも歴史を新しい時期へと迎えいれたことは確かである。現代史は1960年代以降、あるいは1970年代以降に始まったとする歴史家が少なくないのもそのためである。現代史はその100年前、すなわち 19 世紀中葉に始まったのだという見方をとる場合にも、この歴史には前期と後期とがあって、後期現代史は1960年代以降に始まったのだとすることが可能である。

    後期現代史、いわば最近史のなかでは、戦争の意味も当然変わってきた。国家間の対立や紛争は依然として存在するものの、国家そして世界全体の関心はテロリズム、地球温暖化、避難民の救済、政治の民主化などに移ってきた。これらは何れも国境を超えた、いわばトランスナショナルな事象であり、特定の国家というよりはすべての人類にとっての関心事である。換言すれば、現代世界においては国家間の戦争の持つ比重が過去と比べて低下している、ということである。そのうえ、国境を越えた紛争あるいは特定の地方での内戦などが発生すると、国連、ヨーロッパ連合(EU)などの国際組織や、各種の宗教団体 NGO などがすぐに反応を示し、場合によっては介入することもあるので、かつてのように国単位に限られた戦争とか内戦とかとは様子が異なってくる。

    19 世紀半ばから 100 年ほどの時期の歴史において、「国家」がキーワードだったとすると、20世紀末期から今日にかけては、国というよりは人類、ヒューマニティが中心的概念となってきたといえるのではないか。戦争も内戦も、国益というよりは人類益の枠組みでとらえられることが多い。「人類と文明に対する犯罪」という概念は 1900 年当時から存在しており、第2次大戦後の戦争裁判の思想的基盤をなすのであるが、今日では一層普遍的に使われる概念である。戦争や内戦に関しても、国家よりは人類益を枠組みとした観点から功罪が判断されることが多い。

    要するに1960年頃までの戦争が、圧倒的に国家単位のものであったのに対し、その後「戦争」の意味も変わってきたことに注目したい。伝統的な、近隣国同士の争いが今日でも消えることのないのは確かである。例えば 1970 年には、新たに統一されたベトナムとカンボジア、あるいは文化大革命後の中国とベトナムが短期間の戦争を行っている。しかし地域的にも時間的にも大規模なものとはならなかった。1979 年に成立したイラン革命政権は、その後 10 年にわたって隣国のイラクと戦闘状態を続けるが、これもまた他国を巻き込む大戦争とはならなかった。第 3 次世界大戦とも呼ばれることもあった冷戦も、1970 年代に入るとデタント、すなわち緊張緩和の時期に入り、1980年代後半に入ると米ソ間の軍事的な対立も解消の方向へ向かっていく。

    最近の歴史を冷戦の終結、すなわち 1990 年前後で区分する見方もあるが、それは米ソの対立のみが歴史を動かしていたかのようにとらえるものであり、実際にはすでにその20年ほど前から、国際関係が変貌しつつあったことを軽視している。国家、とくに強大国が世界を作りなす時代はすでに 1970 年代には終焉に近づいていたのであり、国家以外の存在、例えば多国籍企業とか各種の NGO とか、あるいは宗教・民族・人種など、そしてテロリスト、麻薬密輸や人身売買に従事する国際暴力団など、新たな存在が影響力を持っていく。したがって国際関係も従来と比べて極めて多岐にわたるものとなっていくのである。いわばトランスナショナル、すなわち国境を越えたつながりが、インターナショナル、つまり主権国家間の動きの重要性を相対的に低下させているわけで、国際紛争といっても、1960年代以降になると、従来のように地理的に定義された(テリトリアル)国と国のあいだの争いよりは、1 つの国の内側で、あるいは国境を超えた民族や宗教のあいだの争いが多くなっていく。ルワンダ、ソマリア、スーダン、チェチェンなどの民族抗争は前者の例であり、イスラムの2大宗派であるシーア派とスンニ派との争いは後者の例である。従来は強固な中央政府が民族、宗教など、非国家の存在を統括していたが、それがしだいに難しくなっていったことを示している。同じことは国際テロリズムについてもいえる。テロリスト集団は特定の国を代表するものではなく、国境を超えて世界各地で行動に移ろうとする。そのような動きに対し、すでに 1980 年代にはレーガン大統領が「テロリズムとの戦争」を宣言していたが、それも米国一国の戦争ではなく、国際社会全体が参加する反テロの運動だと認識されていた。国と国との間の戦争ではなく、非国家団体と国際社会との間の戦いだという位置づけである(国単位でテロリズムに対応するのは、19 世紀的手段で21世紀の問題を処理しようとするものである)。

    テロ行為にしても、民族や宗教間の対立にしても、19世紀以降常に存在していたのであるが、当時はまだ人間性とか人権とかいう概念が普遍化しておらず、国際社会といっても欧米中心のものだった。ところが最近数十年の世界では、普遍的な人間の概念があり、しかも西洋中心ではなく、はるかにグローバルな世界ができあがっている。それだけに、国際テロはグローバル化した世界、普遍的な人間性をすべての存在の出発点とする世界に対する挑戦である。したがってこの挑戦に対して国際社会全体が抵抗するのは当然である。同時に、もしもテロリズムを生む要因の1つが、各地に依然存在する人種差別や人権の抑圧であるならば、より平等で民主的な社会を作ってこそ、テロ行為もなくなるであろう、ということになる。宗教間民族間の対立にしても同様である。人間の尊厳が現代の基礎的概念である以上、人間性を否定するような信条や行為は許されない。人権侵害を裁く国際司法裁判所があるのもそれゆえである。人権の侵害に対しては、人類を代表する国際社会が判断を下さなければならない。

    要するに、国家の相対的存在性が低下している現代の世界は、国家中心だった100年前、数十年前までの世界と比べて、はるかに複雑であることがわかる。換言すれば、世界各地の間のつながりが深まり、宗教、人種などの多様性が認識され、同時に 1 つの世界、1 つの人類という概念が定着しつつある現代においては、戦争や抗争の存在意義も目的もなくなりつつあるということに他ならない。そのような状態にあって、依然として戦争の必然性や軍備の拡張、とりわけ核武装の必要性を説くものがあれば、それは全世界、そして全人類の名において、糾弾されなければならないであろう。

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