野村英夫

白く透けた硝子戸にはフランスの新聞がはつてある。
埃りだらけの戸口にはどれも眞つ黑な
靴とマントと杖が置いてある。
その狭い司祭館の一部屋で
フランス人の老司祭は一人もの思ふのだ。
テーブルの上には古風な毀れた眼覺し時計が
いつも倒れたままで置いてある。
私はいつかそれを起して見たが
それは急に止つてしまつた。
司祭は笑ひながらそれを倒したが
するとそれはまた動き始めた。
こんな狭い一部屋で司祭は眠るのだらうか?
いつか司祭は寂しさうに笑ひながら
子供達にさへ小さ過ぎる
片隅の長椅子の上を指さして見せた。
テーブルの上に置かれた
靑い眞珠母色のマリアの像。
私はそのやうに清らかな
優しくてもの悲しい一部屋を知らなかつた。

4 thoughts on “野村英夫

  1. shinichi Post author

    忘恩

    by 野村英夫

    私はいつかフランス人の老司祭に
    フランシス・ジャムの詩を習つたが
    貧しい私はたつた六個のマルメロしか
    それに報いることが出来なかつた。
    そのことは長いこと私を苦しめたが
    あるとき司祭がフランス人の間でも
    稀な高徳者として知られてゐることを聞いたとき
    私はやつと安心した
    そのやうな高徳の司祭なら
    私の忘恩の罪をも許してくれるだらうと思つたのだ。
    さうしてあの暖い司祭館の戸口で
    私と椅子を並べてフランシス・ジャムを読んだ
    司祭の日に焼けた鳥打帽子
    青ざめてもの悲しさうな唇
    ボタンのとれた貧しい司祭服のうちに
    私はより大きな高徳をまた思つた。

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  2. shinichi Post author

    愛するものの…

    by 野村英夫

    お前が愛するものの死について
    信じてゐることは
    死者が白いレースに包まれて
    たくさんの花と一緒に
    墓地に運ばれてゆき
    もうお前の見知らない遠いい所にしか
    居ないと言ふことだけだらうか?
    いつかお前が森の中で
    一羽の死んだ小鳥を手にしたとき
    その魂の遠いい空の中に
    あることを信じたやうに
    お前の愛するものの死を
    そのやうに信じられるだらうか?
    さうしてお前が
    日暮れに窓辺に佇むのは
    死者がそこに佇んでゐるのを
    確かめようと言ふためではないだらうか?

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  3. shinichi Post author

    野村英夫 (1917-1948)

    http://www.urban.ne.jp/home/festa/nomuhide.htm

    __________________________________

    「日本詩人全集 第8巻」

    東京青山に生まれた。父は農林省官吏。祖父は吉田松蔭の門弟であった。早稲田大学仏法科に学んだ。受験勉強の無理から発病し早稲田高等学院の頃から毎年夏には追分、軽井沢などに転地療養した。その追分で堀辰雄、室生犀星津村信夫、立原道造、中村眞一郎などを知った。「野村少年」と愛称されたが特に文学に関心を持っていたわけではなかった。立原道造の死後(1939年)、『立原道造全集』の編集に参加し1943年頃から塚山勇三、鈴木享、小山正孝らと「四季」を編集し、この頃から熱心に詩作を始めた。1946年、小詩集『司祭館』を自分で筆写して数部つくり数編の小説や評論を書いた。またフランシス・ジャムを愛読し、影響を受け翻訳したり小伝を書いた。

    __________________________________

    「野村英夫氏の思ひ出」(遠藤周作)

    …不意に僕はあの詩人が大きな悲みを鳥の翼のやうに抱きながら、始めて主に祈つたと云ふ彼の詩の中の教会は此処ではなかつたのかと考へ始めてゐた。…僕には、その時の彼の悲みに充ちた眼差しまでがせつない程はつきり浮びあがつてきた。だが、彼の詩はその時から次第に深味ある感動的なものとなつていつた。それは彼が自分の悲みに耐へながらそこからもつと永遠的なものをとり出した為だつた。その晩年の詩には、あたかも彼が死んでしまつた後も彼が愛した此の冬の村の教会の十字架がやつぱり、黄昏の光に金色に赫き残つてゐる、そんな人生の永遠の切実さが滲み出てゐたのではないだらうか…

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