6世紀 | 蘇我稲目 | 私邸 | ||
厩戸皇子 | 四天王寺 | |||
蘇我馬子 | 法興寺 | |||
7-8世紀 | 南都六宗 | 法相宗* | 道昭 | 興福寺・薬師寺 |
倶舎宗 | 道昭 | 東大寺・興福寺 | ||
三論宗 | 慧灌 | 元興寺・大安寺 | ||
成実宗 | 道蔵 | |||
華厳宗* | 審祥 | 東大寺 | ||
律宗* | 鑑真 | 唐招提寺 | ||
聖武天皇 | 国分寺、国分尼寺 | |||
9世紀 | 平安二宗 | 天台宗* | 最澄 | 比叡山延暦寺 |
真言宗* | 空海 | 高野山金剛峯寺 | ||
12世紀 | 浄土系 | 浄土宗* | 法然 | 知恩院 |
融通念仏宗* | 良忍 | 大念仏寺 | ||
13世紀 | 浄土真宗* | 親鸞 | 本願寺 | |
法華系 | 日蓮宗* | 日蓮 | 身延山久遠寺 | |
禅宗系 | 臨済宗* | 栄西 | 建仁寺 | |
曹洞宗* | 道元 | 永平寺・總持寺 | ||
浄土系 | 時宗* | 一遍 | 清浄光寺 | |
17世紀 | 禅宗系 | 黄檗宗* | 隠元 | 黄檗山萬福寺 |
日本の仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の仏教
*: 13宗派
6世紀に仏教が伝来した際、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。