五木寛之

急坂を登り、重い荷物を背おって頂上をめざすとき、人は周囲を見回す余裕はない。必死で山頂をめざすことに没頭しているからだ。しかし、下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。足もとに咲く高山植物をカメラで撮ることもある。こんな高い場所にも、こんな花が咲くのかと驚く。岩の陰から顔を出す雷鳥に目をとめるときもある。一歩一歩、足を踏みしめ安全に下りていきつつ、自分の人生の来し方、行く末を思うこともあるのではないか。
下山するということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえないだろうか。私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。そのことをマイナスと受けとる必要はない。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ、新しい登山へのチャレンジもあるのだ。少子化は進むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。

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