sundovani

『日高町史』は「高麗」のことを、「高麗は高句麗のことで、新羅滅亡(935年)後、朝鮮半島を統一して開城という土地に都を定めた(936年)高麗とは別の国である」、「高句麗は西暦紀元前、松花江の上流扶余の地に興り、着々と勢力を強め、ついに朝鮮半島の北半を領有して、平壤に都を築いた強大な国家である。高句麗はわが国とは古くから往来があり、高度な技術をもっていたと伝えられて、わが国の文化発展に貢献したところは大きい。この強大な高句麗も建国以来700余年、天智天皇の7年(668年)、唐と新羅の連合軍に破れ滅亡するに至った。高句麗滅亡のとき、北に逃れた高句麗人は後に渤海を建国(698年)したが、南に難を避けた多くの遺臣や王族などがわが国に渡来した。この中にかって貢進使の副使として来朝したことのある高麗若光の姿があった」と紹介している。
『続日本紀』には、文武天皇の大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光腸王姓」と記されている。霊亀2年(716年)、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7国中の高句麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を設置したとある。高麗氏の系図は高麗神社の宮司、高麗澄雄氏が現在も相伝しているというが、確証はない。

3 thoughts on “sundovani

  1. shinichi Post author

    続日本紀

    http://ja.wikipedia.org/wiki/続日本紀

    『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。

    菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。

    文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。

    全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。

    『日本根子高瑞浄足姫天皇(第四十四代)元正天皇』の、『卷第七(元正紀一; 霊亀元年九月より、養老元年十二月まで)』のなかに、「駿河など七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に移し、高麗郡を置く」とある。

    ___________________________

    (sk)
    716年といえば、奈良時代の初期。天皇の力はとても強かった。その頃に、山梨、静岡、神奈川、千葉、茨城、栃木といった地域に住む高句麗人を集め、高麗郡を設置したのは、隔離なのか保護なのか、優遇なのか差別なのか。続日本紀の記述が簡潔だったこともあって、今となってはなにもわからない。

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  2. shinichi Post author

    高麗神社

    http://ja.wikipedia.org/wiki/高麗神社

    高麗神社は埼玉県日高市に鎮座する神社。旧社格は県社。

    現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置された地である。中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった。668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている(新編『埼玉県史』)。

    高麗神社はこの高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある。

    入口付近の敷地には、将軍標(しょうぐんひょう・ジャングンピョ)がある。1992年に在日本大韓民国民団埼玉県地方本部によって木製のものが奉納されたが事故で破損し腐食したため、2005年になって現在の花崗岩で制作されたものが民団中央により寄贈された。将軍標は西武池袋線の高麗駅の広場にも建てられている。高麗駅の将軍標は何度か再建されており、初めて立てられたのは高麗駅の方が早い。

    また、大韓民国の駐日大使なども参拝している。

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