三浦恵次

日本の非軍事化と民主化の実現を、連合国軍総司令部 (GHQ) は当初、直接軍政によって行なおうと考えていた。しかし、予想よりも早く日本が降伏したこと、、欧米とは違う価値観・文化・社会構造・言葉などを理解できるスタッフが集められなかったことなどから、占領担当官側のセクションは小さなものになり、GHQ は日本政府を通しての間接統治を採らざるを得なくなってしまった。だが、そのことが PR (Public Relations) を日本に植え付ける絶好のチャンスになった。
GHQ は非軍事化、民主化といった対日政策を遂行するために、行政の民主的運営のための PR をその中心に置いた。そして、PR の原則と活動を広める CIEO (Civil Information Education Office) と日本の政治や民意に影響を与える PRO (Public Relations Office) を設置し、PR を推進していこうとしたのだ。しかし困ったことに、日本人には PR ということがわからない。「弘報」「報道」「情報」「渉外」「秘書」という字が当時 PR に充てられた日本語であった。
GHQ は、1949年の夏、CIEO 主催による日本で初めての広報講習会(PR 技術研修会)を開催し、政府がその活動についての情報をいかに円滑に国民に伝えるかということを示そうとした。この講習会の記録「広報の原理と実際 (Principles and Techniques of Public Information in Japan)」には、インフォメーションとしての広報が強調されている。しかしそこでの原理は、アメリカという社会を基礎としているものであって、それまでの日本における「天皇の官吏」としての政府・政府機関、あるいは国民を前提にしてのものではなく、更にはそれらを問い直すことも示されなかった。特殊な状況下にあった日本政府・国民という考えが抜け落ちたまま、アメリカの社会を前提にして、話が進められたのだ。そしてまた、日本側は、日本の特殊性の中でしか物事をとらえることができない状況、つまり「官」と「公」を認識できない状況だったのである。

2 thoughts on “三浦恵次

  1. shinichi Post author

    Principles and Techniques of Public Information in Japan:
    Proceedings of the Civil Information and Education Section,
    Information Institute

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