清瀬六朗

内山節さんは、『時間についての十二章――哲学における時間の問題』のなかで、「農村の時間」と「都市・商品の時間」について書いている。農山村で農業や林業で生活を立てている人たちは農業や林業に合わせた時間感覚を持ってきたのに対して、都市で商品を扱ってきた人たちは商業の都合に合わせた時間感覚を持ってきたという。農村では、毎年、同じ農作業が繰り返されるので、その農作業に合わせた時間感覚が定着している。それは何重にもサイクルを描いて繰り返す時間感覚である。それに対して、商品を扱う人たちは、いちど時間が過ぎ去ったらもう戻らないという直線の時間感覚を持っている。
その差は、人びとの生活と自然との距離にある。日本列島で自然に近いところで生活している農山村の人たちは、日本の自然のサイクルに合わせて、サイクルを描いてめぐってくる時間のほうを基本的な時間感覚として身につけた。それに対して、自然から遠いところで生活してきた商人たちは、直線的に機械的に進む時間の感覚を身につけたというわけだ。なお、私は「農村の時間感覚」とか「都市の時間感覚」とか言っているが、内山さんはそれを「農村ではこのような時間が存在している」、「都市ではこのような時間が存在している」というように「時間の存在」ということばを使っている。
この本で内山さんが書いているのは、内山さんが、自分で農村で暮らしたり、日本全国各地でそこに暮らしているひとにインタビューしたりして作り上げた考えだ。手作りのものが持つ独特の温かさが内山さんの概念からは伝わってくるように感じる。

One thought on “清瀬六朗

  1. shinichi Post author

    時間の現在

    by 清瀬六朗

    時論のページ「シュレディンガーの猫」

    http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/cat/cat026.htm

     「ホームページの更新をすることに決めている日」としての火曜日は、毎週、めぐってくるわけだが、そのときには新しいファイルをアップロードしていなければならない。火曜日が来たからといって前と同じファイルをアップロードしているとしたら、それはそもそも「更新する日」にならない。
     昔は違った。
     同じ時間がめぐってきたら、なるべく前とまったく同じことをするのがあたりまえなのであって、前と違ったことをしてはむしろいけなかったのである。同じように神を祭り、同じように祖先を祀る。むろん、人間は年をとっていくから、祭りに集まる人たちは少しずつ年老いていくし、また子どもが大人になって新しいメンバーが祭りに参加してきたりもする。祭りや儀式のやり方が完璧に受け継がれていたとしても、メンバーが年老いていく以上、けっして前とまったく同じにはならない。けれども、そういう生命の流れも何かのサイクルに乗っているのだという感覚があった。前と違って見えるけれども、それはもっと大きなサイクルのなかでのできごとであって、けっして何か新しい変化が起こっているわけではない。そういう感覚があったわけである。

     哲学者の内山節さんは、著書『時間についての十二章――哲学における時間の問題』(岩波書店)のなかで、「農村の時間」と「都市・商品の時間」という区別を立て、いま書いた問題について考察している。それぞれの時間が特別な意味と表情とを持ち、そういう時間が何重にもサイクルを描いてめぐってくるという時間感覚が「農村の時間」として描かれ、いちど過ぎたら戻らない正確で一様に流れる時間が「都市と商品の時間」として描かれている。
     この内山さんの考察は、時間感覚を人間の生活や生産活動との関係からだけ捉えているところに特徴がある。農山村で農業や林業で生活を立てている人たちは農業や林業に合わせた時間感覚を持ってきたのに対して、都市で商品を扱ってきた人たちは商業の都合に合わせた時間感覚を持ってきたというのである。農村では、毎年、同じ農作業が繰り返されるので、その農作業に合わせた時間感覚が定着している。それは何重にもサイクルを描いて繰り返す時間感覚である。それに対して、商品を扱う人たちは、いちど時間が過ぎ去ったらもう戻らないという直線の時間感覚を持っている。
     その差は、人びとの生活と自然との距離にある。日本列島で自然に近いところで生活している農山村の人たちは、日本の自然のサイクルに合わせて、サイクルを描いてめぐってくる時間のほうを基本的な時間感覚として身につけた。それに対して、自然から遠いところで生活してきた商人たちは、直線的に機械的に進む時間の感覚を身につけたというわけだ。なお、私は「農村の時間感覚」とか「都市の時間感覚」とか言っているが、内山さんはそれを「農村ではこのような時間が存在している」、「都市ではこのような時間が存在している」というように「時間の存在」ということばを使っている。
     この本で内山さんが書いているのは、内山さんが、自分で農村で暮らしたり、日本全国各地でそこに暮らしているひとにインタビューしたりして作り上げた考えだ。手作りのものが持つ独特の温かさが内山さんの概念からは伝わってくるように感じる。私は、学術上の「概念」というものからもそういう温かさや冷たさの感覚が伝わるものだとこの本を読んであらためて思った。

     ところで、この内山さんの議論にはいちおう異論がある。
     人間の時間感覚はどんな暦を使っているかによってある程度は影響される。そして、「暦の現在」でも書いたように、暦は政治権力や宗教勢力の都合で制定されるものだ。もちろん人間の生活の都合とあまりにかけ離れた暦はその社会に受け入れられないけれども、逆に、社会に受け入れられた暦からは政治権力や宗教勢力の考えかたとかものの見かたとか政治的・宗教的立場とかが人間の生活のなかに入ってしまう。内山氏は、農村の祭りを生活のサイクルの一部として議論を組み立てているけれども、宗教的な祭りがいつも生活のサイクルに従うとは限らない。たとえば、イスラム教を信じる地域では、農村であっても、季節のめぐりからは必ずズレていくイスラム暦が使われているし、農作業がどんなに忙しくてもモスクからの祈りの呼びかけで作業は中断される。私は詳しくないけれど、日本でも、浄土宗系の仏教を信じる人たちの時間感覚と、日蓮宗を信じる人たちの時間感覚では、やっぱり違いがあったのではないかと思う。内山さんの議論は、政治や宗教の都合が日本列島の人たちの時間感覚を決めた可能性を飛ばして、生活感覚と時間感覚をじかに結びつけている。
     また、内山さんは、昔の日本列島の人びとの標準的な生きかたを「農民」として議論を進めている。これにも異論がある。日本史家の網野善彦さんらが明らかにしてきたように、日本列島には昔から農業以外の生活を営む人たちがいて、その「非農業民」が重要な役割を果たしてきた。日本で生きる人たちが基本的に「農民」であると定めたのは、やはり政治権力の都合である。王朝や荘園領主が税金を集めるための都合だったのである。非定住民や芸能民、鍛冶や鋳物師、金貸しといった人たちには、それぞれの自然とのかかわりがあり、それぞれの時間感覚があったはずである。農民に近い時間感覚を持ったひともいれば、商人に近い時間感覚を持ったひともいたはずだ。内山さんは昔の「日本」の時間感覚をあまりに素朴に「農民」のものに決めつけすぎているように私は感じる。

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