千野香織

絵巻の鑑賞法の最も重要な点は、既に見た画面は右手の中に巻き込まれてしまい、これから見る画面はまだ左手の中にあって、どちらも、現在の時点では見ることができない、というところにあるからである。鑑賞の時間において、右手は過去であり、左手は未来である。そこでは、左を向いた直線的な鑑賞の時間が、あらかじめ設定されている。

建築史研究の進展に導かれながら障壁画を改めて見直した結果、私の目にはっきりと浮かび上がって見えてきたものは、日本の障壁画のなかのジェンダーの問題という、きわめて今日的なテーマであった。その建築と障壁画の様相を詳しく述べた後、ジェンダーの視点から日本の障壁画の問題を考えるという結論部へ進んでいくこととしたい。

作品を細部に至るまで詳しく見て、それを現実社会の文脈の中に置いて考え、そこに現代人としての希望を読み込むこと、そのような行為の遂行を続けていくことが、美術史家としての私の願いである。作品を「真に」見ることは、同時代の人々とともに、現代の問題を考えることである。それは新しい未来を作っていく、という可能性にも通じている。

6 thoughts on “千野香織

  1. shinichi Post author

    Chino1『千野香織著作集』

    千野香織著作集編集委員会編 

    (2010)

    表紙カバー

    神護寺蔵「山水屏風」の構成と絵画史的位置
    「西行物語絵巻」の復原
    新名所絵歌合
    名所絵の成立と展開
    鎌倉時代の山水表現
    絵巻の時間表現―瞬間と連続
    一二、一三世紀を中心とする日本絵画にみる風俗表現
    江戸城障壁画の下絵
    日本の絵を読む―単一固定視点をめぐって
    狩野派と粉本
    熱狂を創造する工房―徳川美術館蔵・豊国祭礼図屏風の虚実
    滋賀県立近代美術館蔵・近江名所図屏風の景観年代論について
    東京国立博物館の日々
    言葉とイメージ―物語絵画研究の現在
    鎌倉時代の美術における写実主義とは何か
    春日野の名所絵
    建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察
    絵画作品を解釈する三つの立場
    南北朝・室町時代の絵巻物―新しい光のなかで
    神護寺「山水屏風」にみる庭園―視覚化された幻影
    障屏画の意味と機能―南北朝・室町時代のやまと絵を中心に
    日本美術を考え直すために
    やまと絵の形成とその意味
    ジェンダー、国家、セクシュアリティ―大学院生とのセミナー報告
    日本美術のジェンダー
    シンポジウム「戦争と美術」―概要および討議報告
    戦争のイメージ
    日本美術史とフェミニズム
    絵や写真やテレビを見る時 あなたに思い出してほしいこと
    美術館・博物館にみるポリティクス
    私の五点
    鳥居清長「女湯」
    台北の故宮博物院を訪ねて―「美術」と「政治」の関係、鮮明に
    女を装う男―森村泰昌「女優」論
    嘲笑する絵画―「男衾三郎絵巻」にみるジェンダーとクラス
    日本の障壁画にみるジェンダーの構造―前近代における中国文化圏の中で
    見る者・見せる者の立場を問う展覧会―「インサイド・ストーリー 同時代のアフリカ美術」展に寄せて
    支配的、権力的な「視線」の意味を問い、美術史のパラダイム・チェンジをはかる
    天皇の母のための絵画―南禅寺大方丈の障壁画をめぐって
    美術館・美術史学の領域にみるジェンダー論争 一九九七―九八
    美術とジェンダー
    日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性
    土地が描かれることの意味―滋賀県立近代美術館蔵「近江名所図屏風」再考
    醜い女はなぜ描かれたか―中世の絵巻を読み解く「行為体」とジェンダー
    絵巻の新しい「読み」へ
    新しい雑誌『イメージ&ジェンダー』を創刊する
    アジアの現代美術―ユン・ソクナム作《光の美しさ、生命の尊さ》
    「平治物語絵巻」が語る、もう一つの物語―名古屋ボストン美術館の「三条殿夜討巻」展示を機に
    復原と絵画史料―料理部屋を例に
    絵巻と性差
    戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の「日本」
    イメージ&ジェンダー研究会―「美術」の枠組みを越えて
    「日本美術」の男と女(十選)
    美術作品を読み解く―ジェンダー批評の立場から
    『伊勢物語』の絵画―「伝統」と「文化」を呼び寄せる装置
    あなたへのプレゼント―出光真子さんの作品
    海外研修報告
    フェミニズムと日本美術史―その方法と実践の具体例
    希望を身体化する―韓国のミュージアムにみる植民地の記憶と現代美術
    視覚的に歴史の隠蔽をはかる
    「ナヌムの家」歴史館から、あなたへ
    「近代」再考―「美術」と「感性」の近代
    “New Approaches to 12th Century Narrative Painting in Japan” 
    (一二世紀の物語絵画(「信貴山縁起絵巻」)研究の新しい試み)

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  2. shinichi Post author

    千野香織著作集
    絵巻の時間表現 ― 瞬間と連続
    二、鑑賞の時間とストーリーの時間
    (p. 146)

    日本の美学 二
    特集: 連続
    by 日本の美学編集委員会
    絵巻の時間表現 ― 瞬間と連続
    二、鑑賞の時間とストーリーの時間
    (1984年7月)

    絵巻の鑑賞法の最も重要な点は、既に見た画面は右手の中に巻き込まれてしまい、これから見る画面はまだ左手の中にあって、どちらも、現在の時点では見ることができない、というところにあるからである。鑑賞の時間において、右手は過去であり、左手は未来である。そこでは、左を向いた直線的な鑑賞の時間が、あらかじめ設定されている。絵巻の鑑賞者は、左へ左へと、定められた順序に従って画面を見続けることになる。本を数ページとばして見たり、あちこちのページを気儘にめくったり、というような鑑賞のしかたは、絵巻では不可能なのである。

    そしてもちろんストーリーも、通常、左へ展開する。右手は、鑑賞の時間における過去であると同時に、ストーリーの時間における過去でもある。左手はまた、両方の意味での未来となる。鑑賞の時間とストーリーの時間は、ぴったりと重ね合わされているのである。

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  3. shinichi Post author

    千野香織著作集
    天皇の母のための絵画 ― 南禅寺大方丈の障壁画をめぐって
    二、南禅寺大方丈「鳴滝の間」の建築と障壁画
    (p. 713)

    美術とジェンダー ― 非対称の視線
    by 鈴木 杜幾子, 馬渕 明子, 千野 香織
    天皇の母のための絵画 ― 南禅寺大方丈の障壁画をめぐって
    二、南禅寺大方丈「鳴滝の間」の建築と障壁画
    (1997年12月)

    絵画にはさまざまな側面がある。障壁画の意味や機能について考えようとするならば、その障壁画がもともと存在していた建物や部屋について、考えないわけにはいかない。その建物は、いつ、誰によって、誰のために建てられたか、そしてその建物の中の、その部屋に、その障壁画が必要とされたのはなぜか、何の目的で、誰に見せるためにその障壁画は描かれ、それはその当時の社会の中でどのように機能したか、などの諸点を明らかにすることは、障壁画研究にとって最も重要な課題の一つであろう。そしてそれを考察するためには、美術史だけではなく、建築史から障壁画へのアプローチが、ぜひとも必要である。

    。。。

    建築史研究の進展に導かれながら障壁画を改めて見直した結果、私の目にはっきりと浮かび上がって見えてきたものは、日本の障壁画のなかのジェンダーの問題という、きわめて今日的なテーマであった。以下、南禅寺大方丈「鳴滝の間」という一つの具体的な例について、その建築と障壁画の様相を詳しく述べた後、全体をやや巨視的にとらえ直して、ジェンダーの視点から日本の障壁画の問題を考えるという結論部へ進んでいくこととしたい。「鳴滝の間」に描かれた障壁画の意味や機能も、このように順を追った考察を経て初めて、明確に理解することができるようになるはずである。

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  4. shinichi Post author

    千野香織著作集
    希望を身体化する―韓国のミュージアムにみる植民地の記憶と現代美術
    (p. 1022-1023)

    神奈川大学評論 第39号
    2. 特集・アジア 記憶から未来へ
    希望を身体化する—韓国のミュージアムにみる植民地の記憶と現代美術—千野香織
    (2001年7月)

    「希望を身体化する」とは、造形作品を生み出すという行為の中で、次第に、希望が形を成してくる、ということである。作品を作るということは、始めから存在する何らかの主題を、ただ造形化するということではない。そうではなく、何かある形を作り出していく過程で、その時間の流れのなかで、少しずつ、思いもかけたかった何かが立ち現れてくる、ということなのである。

    だがそれと同時に、「希望を身体化する」とは、そのようにして立ち現れてきた希望が、それを作った者・それを見る者の身体に、忘れがたく刻み込まれる、ということでもある。希望は、私たちの身体に刻み込まれる。見る者の立場からいえば、その作品を見るために費やした時間、その作品と自分が向かい合っていた空間、その記憶とともに、希望は、私たちの身体に刻み込まれる。作品を「見る」という行為により、それまで見知らぬ人でしかなかった「全き他者」の記憶でさえ、自己の身体に引き受けることが可能となる。それは「他者」の痛みを自らの身体で感じることであるが、同時にまた、「他者」と希望を分かち合うことでもある。

    作品を「見る」という行為の遂行の中で、私は、そのような体験を重ねていきたいと考えている。神殿のような美術館に安置された「美術」を褒めたたえ、それを信仰し、人々に思考停止を促すような力に加担することは、もう止めにしたい。そうでなく、作品を細部に至るまで詳しく見て、それを現実社会の文脈の中に置いて考え、そこに現代人としての希望を読み込むこと、そのような行為の遂行を続けていくことが、美術史家としての私の願いである。たとえ過去に製作されたものであっても、何らかの作品を「真に」見ることは、同時代の人々とともに、現代の問題を考えることである。そしてそれはまた、人々とともに新しい未来を作っていく、という可能性にも通じているのである。

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  5. shinichi Post author

    日本美術のジェンダー

    二、「ジェンダー」という概念

    (p. 522)
    セックスとは「男女それぞれの性器によって区別される生物的な身体」のことであり、〈男〉と〈女〉に分類される。一方、ジェンダーとは「男女の身体に上乗せするように設定された、社会的・歴史的な、役割・範疇」であると、ここでは定義しておく。ジェンダーは〈男性性〉 masculinity と〈女性性〉 femininity に分けられる。

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