sdthndさん

岸田秀、小滝透『アメリカの正義病、イスラムの原理病―― 一神教の病理を読み解く』春秋社、2002年。
だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)。(236頁)
多神教優位論が一神教へのヘイトスピーチに過ぎないことがよく分かる文章。最後の一文が秀逸。
 
梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、1995 年。
私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです。(158 頁)
一神教にも多神教にも多種様々な宗教があるのに、安易に「一神教」「多神教」とひとくくりにして二元論で語っている。「一神教より多神教のほうがはるかによい」根拠は「思います」。なんだかなあ……。

3 thoughts on “sdthndさん

  1. shinichi Post author

    多神教優位論

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/多神教優位論

    多神教優位論とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など『アブラハムの宗教』とよばれる一神教、もしくはその他の一神教の教えに対し、神道や観音・菩薩・明王などを信仰する北伝仏教のような多神教の優位を説く論である。

    ___________________________
    論の主張内容の概要

    多神教優位論者は、「一神教は《唯一の神》を信奉するため他宗教に対し非寛容であると主張し、対して、多神教は多くの神を認めているため他宗教に対し寛容である」と唱えている。 とりわけ、現代の日本では、キリスト教原理主義や反イスラーム主義などの影響で、多神教の「寛容性」を主張し、一神教を「攻撃的」であるとして批判する場合が多い。

    日本における多神教優位論

    日本では、キリスト教国家とイスラーム国家が千年以上にまたがり、己が信ずる「唯一の神」への信仰のために戦争を行ってきたとし、「日本古来の宗教である神道や、外来の宗教ながらも深く日本に根付いた仏教などが、キリスト教・イスラム教と比較し寛容性がある」という主張が一部で支持を集めつつある。梅原猛や養老孟司、藤原正彦、宮崎駿、岸田秀、井沢元彦などは、仏教や神道のキリスト教・イスラム教に対する優位性を説き、一神教を本質的に不寛容であるとしたと小原克博の文献には書かれている。

    なお、「多神教である神道および、神道と仏教の混淆」に於いても、江戸期のキリスト教弾圧、明治初期の廃仏毀釈、第二次大戦時における東南アジアでの神社参拝・宮城遥拝の強制など、多くの非寛容性が見られ、どちらがより寛容かという問いは無意味である」との主張があるが、「一神教同士の宗教抗争、および植民地での宗教的理由による殺戮、異端審問や魔女狩りでの犠牲者数とは桁違いであり、単純に『どちらも同じくらい非寛容である』と見るべきではない」という主張もある。

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    反論

    2009年11月10日、小沢一郎民主党幹事長(当時)が高野山を訪ねた際に、キリスト教、イスラム教が排他的で独善的と述べたことに対し、日本キリスト教連合会は、「キリスト教に対する一面的理解に基づくものであり、その発言こそが排他的で独善的である」と抗議をした。

    一神教への無理解

    普遍概念としての一神教の神は、たとえ、どのような宗教の信徒であっても、さらには、無神論者であっても神は平等に愛を注ぐものであるという思想が生まれうる余地があるという面を無視している。また、神の唯一性を否定する多神教は一神教に比べて他宗教の神の存在を認めやすいとの主張がなされることがあるが、それは他宗教に対する寛容性には直結せず、自身の宗教を受け入れない者や否定的見解を示すものに対して、徹底的な弾圧や排除にかかることが後述に示すとおり存在する。

    また、カトリックにおいては非ヨーロッパ社会への布教において先祖の墓参りを認めるなど、その社会の宗教的風俗、慣習を一定程度認める傾向があり、他宗教の風俗、慣習を完全に排除しているわけではない。

    多神教社会の排他性

    仏教

    仏教、特に北伝仏教では様々な如来・観音・菩薩等への信仰があり、多神教的な色合いが濃いが、その仏教には下記のような不寛容が多く見られる。

    町田宗鳳は「かつて、チベット仏教には激しい宗派対立があり、中国のチベット侵攻はその隙を突いたという一面もある」という内容で、事例を挙げて反対する見解を示した。

    日本においては、古代において蘇我氏と物部氏は仏教導入をめぐって対立が起こっており、多神教である神道が最初から仏教を受け入れておらず、仏教を導入するに際しては蘇我氏が物部氏を滅ぼすなど、暴力なしに導入されていない。

    中世においては、俗に鎌倉仏教と呼ばれる勢力が台頭したが、日蓮および日蓮宗は法華経に帰依しない仏教宗派等を邪教とみなし、世情の混乱や災害を法華経に帰依しないことにあると主張しており、仏教は他宗派に対して寛容であるとの多神教優位論者とは異なる見解を示している。

    『人類は「宗教」に勝てるか』によれば、江戸時代、仏教僧は幕府と一体となって隠れキリシタンの弾圧を行った。また、日蓮宗の不受不施派を権力に従わないものとして弾圧した。

    ミャンマーではイスラム教徒であるロヒンギャ族が仏教徒からの激しい弾圧をうけ、難民化している(ロヒンギャ#難民問題の項を参照)

    神道

    明治維新後は、時の権力は、主流を占める神道を国教化(国家神道)し、国策に適さない神道を教派神道として区分した上で監視をしたほか、仏教、キリスト教に対しても厳しい姿勢で臨んだ。そのことが、大本への弾圧(大本事件)や、浄土真宗への祈祷強制やキリスト教徒への事実上の神社参拝の強制につながっている。また第二次大戦中には東南アジア諸国や南洋諸島で現地住民へ宮城遥拝を義務付けるなどの行為が、特に現地のイスラム教徒の反発を強く買った。このように、多神教であっても、それが国家権力などと結びついたときには他宗教に対しても排他的になりえる。

    ヒンドゥー教

    ヒンドゥー教徒の多いインドはイスラム教国パキスタンとの争いを続けており、他教徒がヒンドゥー教に帰依した場合、カーストにおいて最も低いスードラ(奴隷)の身分に位置付けられる。また、逆に、ヒンドゥー教徒の改宗を阻止するために、ヒンドゥー至上主義者によって、仏教、イスラム教、キリスト教寺院や信者への集団暴行、襲撃が起こっている。

    多神教徒同士の紛争事例

    「スリランカでは主にヒンドゥー教徒のタミル人がスリランカの多数派であり、主に仏教徒であるシンハラ人から(一時は民族浄化も含む)弾圧・抑圧を受け続けている」と町田宗鳳は述べた。

    1975年には武力闘争を目的としたタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)がタミル人により結成された。一方で、穏健タミル政党であるタミル統一解放戦線は1980年代に入りスリランカ政府から非合法化された。こうしたなかで、1980年代にはタミル人による武装闘争が本格化した。シンハラ人民族主義者によるテロ活動も行われている。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    多神教が一神教よりも優位であるといえば、反論が出るのはあたりまえだ。多神教が寛容だといえば、一神教のなかの寛容な場合や、多神教のなかの寛容でない場合を挙げられ、なにもいえなくなる。一神教が攻撃的だといえば、多神教のなかの攻撃的なところや、一神教のなかの決して攻撃的とはいえないところを示す人があらわれる。だから、どちらが優位かなどということを議論しても仕方がない。

    「多神教だ一神教だなどということは、あいまいでいいのではないか」、そんな考え方や気分を持っている人が日本には多いが、そういう考え方や気分を持つことがすでに一神教でないことの証なのであって、一神教の人たちからすれば受け入れ難いこと。「お互いを認めて」とか「相手のみになって」などと言うこと自体、神を冒涜すると言われかねない。

    一神教のなかでも絶対的一神教は特に苛酷で、自分たちの神以外は決して認めない。ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、その点では同じで、自分たちに真実があるということになる。自分たちの神を信じるか信じないかの、白か黒かの選択を迫り、信じる者は仲間、信じない者は敵という、単純な論理がすべての基本になっている。当然のことながら、他の一神教との軋轢は絶え間なく続き、寛容の精神が勝って共存する場合と、自分たちの神への忠誠が勝っていがみ合う場合とが、さまざまなかたちで現れる。

    絶対的一神教を信じる人たちの多くは、多神教を遅れたものだと思っていて、布教によって救い出し、進化させなければいけないと思っている。そういう人たちにとっては、絶対的一神教が多神教になることは退化を意味する。

    こういった考え方は宗教以外のところにも現れ、社会の基盤をかたちづくる。民主主義や人権といった原理は絶対的一神教の善悪から生まれたものだし、多数決などのやり方も、白黒をつけなければ気がすまない人たちのなかからから出てきたことは明白だ。「全員の合意が」などという考えは受け入れられない。

    わざわざ声をあげて寛容の精神を説いたり、少数派の意見を尊重しようと言ったり、多様性を強調したりしなければならないのは、そんなことはあたり前になっている社会にいる人たちにとっては不思議なことだが、それもこれも、灰色を認めない人たちの辿り着いたところのことなのだと思う。

    白か黒かの世界と、白黒だけでなく数限りないグレーが存在する世界とでは、なにもかもが違うのだということを、知る必要がある。

    仏教は絶対的一神教が生まれ育ったところからは遥か遠いところで広まった。そのためもあって、同じところにあたりまえのように違った考えが共存する。昔から言葉の解釈についての議論は盛んだが、基本的なところでは、お互いを尊重している。ある意味、お互いを無視しているようにも見えるが、基本的には寛容で、宗派間のことにしても、寺と寺との関係にしても、隣り合ったり向かい合ったりして共存している。

    ある宗派では「唯我独尊」という言葉を釈迦が誕生した時に言ったものとし、他の宗派ではその言葉を、釈迦以前の毘婆尸仏が誕生した際に言ったものとする。ある宗派ではそれは「全世界で私が一番尊い」という意味だというし、他の宗派では「私たちひとりひとりが一番尊い」ということだと説明する。それでもなんの不都合も生じないのが、仏教なのだ。

    自分の属する宗派の言っていることが正しいと考えたとしても、他の宗派の言っていることが間違っているとは言わない。それこそが仏教的だと感じるのは私だけだろうか。

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