shinichi Post author29/10/2014 at 5:44 pm ごく普通の在日韓国人 by 姜信子 (1990/6) 筆者は「在日韓国人3世」。大学卒業後、就職、結婚、出産という経験の中で、「国籍」ゆえのさまざまな障害にぶつかる。しかし、彼女の願いは「民族」や「国籍」という枠を超えて、自由に、のびのびと「ごく普通に生きたい」ということだけなのだ。 今、同じ時を、この日本で、共に生き、共に差別解消を願い、異なる立場から壁ごしに手をさしのべようと思う日本人と在日韓国・朝鮮人。 Reply ↓
shinichi Post author29/10/2014 at 6:00 pm 棄郷ノート by 姜信子 (2000年) ** 姜信子『棄郷ノート』 by 中里勇太 http://webneo.org/archives/7505 「一九九八年八月一〇日。わたしは「故郷」を棄てる旅に出た」 私たちが無自覚に受け入れてしまっている「日本人」や「韓国人」、「民族」や「国家」に縛られない生き方を模索し、幻想としての故郷を棄てようとする旅。 「故郷という空間のなかには、われらの美しい過去、われらの純粋かつ神聖なる起源という幻想が紛れ込んでいる」 故郷という言葉がつよい意味をもって語られ始めたのは、わずか100年あまり前にすぎない。それは民族や国家という観念と強く結びついた心象風景だった。 Reply ↓
ごく普通の在日韓国人
by 姜信子
(1990/6)
筆者は「在日韓国人3世」。大学卒業後、就職、結婚、出産という経験の中で、「国籍」ゆえのさまざまな障害にぶつかる。しかし、彼女の願いは「民族」や「国籍」という枠を超えて、自由に、のびのびと「ごく普通に生きたい」ということだけなのだ。
今、同じ時を、この日本で、共に生き、共に差別解消を願い、異なる立場から壁ごしに手をさしのべようと思う日本人と在日韓国・朝鮮人。
棄郷ノート
by 姜信子
(2000年)
**
姜信子『棄郷ノート』
by 中里勇太
http://webneo.org/archives/7505
「一九九八年八月一〇日。わたしは「故郷」を棄てる旅に出た」
私たちが無自覚に受け入れてしまっている「日本人」や「韓国人」、「民族」や「国家」に縛られない生き方を模索し、幻想としての故郷を棄てようとする旅。
「故郷という空間のなかには、われらの美しい過去、われらの純粋かつ神聖なる起源という幻想が紛れ込んでいる」
故郷という言葉がつよい意味をもって語られ始めたのは、わずか100年あまり前にすぎない。それは民族や国家という観念と強く結びついた心象風景だった。