河野哲也

善悪とは、人間の行為を形容する性質です。ある行為が善であるのは、行為する側がそれを主観的に善と判断したからではありません。そうであるならば、いかなる行為も恣意的に善とされてしまいます。行為の善悪は、対象となる人への効果によって客観的に測るべきものです。しかし他方、善悪は、対象となる人への個別的・特殊的な効果を無視して、一律に決定することはできません。何が利益となり、何が成長に繋がるかは、人それぞれの特性や状態に応じて異なるからです。
善悪は、臨床的な判断のように、その対象となる人の個別性と特殊性、さらに時間的な経過を追いながら判断されるべきです。ある医療行為が有効であるかどうかは経過を見る必要があるように、行為の善悪も即座に判断すべきものではありません。ある行為が善であるか悪であるかは、行為の対象となる人々の成長に貢献するものか、それともそれを阻害するものであるかによって、個別的かつ客観的に、そして一定の時間の経過のなかで定まるのです。善意とは、したがって、継続的にある人の成長に貢献しようとする意図のことです。悪意とは、その逆の意図のことです。
このような人の個別性に配慮した倫理観は、身体化された倫理だと言えます。性、人種、年齢、経歴などの具体的文脈において相手を捉えることは、その人を身体的存在として捉えることに他なりません。また相手のニーズを共感的に察して、相手の成長に情動的にコミットしてゆく行為は、身体を持つ者のみに可能です。
したがって、道徳とはすぐれて間身体的なものです。健康をモデルとする倫理は、従来の法化した倫理とは異なり、相手の身体からやってくる声に耳を傾け、共感する態度を求めます。それは「定言命法」ではなくて、「身体命法」に従う倫理だと言えるでしょう。

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