岩波茂雄

真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。

2 thoughts on “岩波茂雄

  1. shinichi Post author

    岩波新書を刊行するに際して

    by 岩波茂雄

    天地の義を輔相して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の真髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられたる世界的義務である。日支事変の目標も亦茲にあらねばならぬ。世界は白人の跳梁に委すべく神によつて造られたるにあらざると共に、日本の行動も亦飽くまで公明正大、東洋道義の精神に則らざるべからず。東洋の君子国は白人に道義の尊きを誨ふべきで、断じて彼等が世界を蹂躙せし暴虐なる跡を学ぶべきでない。

    今や世界混乱、列強競争の中に立つて日本国民は果して此の大任を完うする用意ありや。吾人は社会の実情を審かにせざるも現下政党は健在なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕うこと果して鹿の渓水を慕うが如きものありや。吾人は非常時における挙国一致国民総動員の現状に少からぬ不安を抱く者である。

    明治維新五ケ条の御誓文は啻に開国の指標たるに止らず、興隆日本の国是として永遠に輝く理念である。之を遵奉してこそ国体の明徴も八紘一宇の理想も完きを得るのである。然るに現今の情勢は如何。批判的精神と良心的行動に乏しく、やゝともすれば世に阿り権勢に媚びる風なきか。偏狭なる思想を以て進歩的なる忠誠の士を排し、国策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達を妨ぐる嫌ひなきか。これ実に我国文化の昂揚に徴力を尽さんとする吾人の窃に憂ふる所である。吾人は欧米功利の風潮を排して東洋道義の精神を高調する点に於て決して人後に落つる者でないが、驕慢なる態度を以て徒らに欧米の文物を排撃して忠君愛国となす者の如き徒に与することは出来ない。近代文化の欧米に学ぶべきものは寸尺と雖も謙虚なる態度を以て之を学び、皇国の発展に資する心こそ大和魂の本質であり、日本精神の骨髄であると信ずる者である。

    吾人は明治に生れ、明治に育ち来れる者である。今、空前の事変に際会し、世の風潮を顧み、新たに明治時代を追慕し、維新の志士の風格を回想するの情切なるものがある。皇軍が今日威武を四海に輝かすことかくの如くなるを見るにつけても、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。これ文化に関与する者の銃後の責務であり、戦線に身命を曝す精兵の志に報ゆる所以でもある。吾人市井の一町人に過ぎずと雖も、文化建設の一兵卒として涓滴の誠を致して君恩の万一に報いんことを念願とする。

    曩に学術振興のため岩波講座岩波全書を企図したるが、今茲に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。これ一に御警文の遺訓を体して、島国的根性より我が同胞を解放し、優秀なる我が民族性にあらゆる発展の機会を与へ、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相侯つて大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。古今を貫く原理と東西に通ずる道念によつてのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果されるであらう。岩波新書を刊行するに際し茲に所懐の一端を述ぶ。

    昭和十三年十月靖国神社大祭の日

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