杉本苑子

二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押えることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。音楽はあの日もあった。君が代が奏せられた。しかし、色彩はまったく無かった。学徒兵たちは制服、制帽に着剣し、ゲートルを巻き、銃をかついでいるきりだったし、グランドもカーキ色と黒のふた色。暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。私たちは泣きながら、征く人々の行進に添って走った。髪もからだもぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。あの日、行く者も残る者も、ほんとうにこれが最後だと、なんというか一種の感情の燃焼があった。この学生たちは一人もかえってこない。自分たちも間違いなく死ぬんだと。
オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四ヵ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。
祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。

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