阿久澤麻理子

「発展の権利」は、「それを誰が主張するのか」によって、人権を実現する有力な手段にもなれば、国家による人権侵害を正当化する論理ともなってしまう「諸刃の剣」です。先住民や女性など、マイノリティに属する人びとがこれを主張すれば、集団としての発展や自己決定の大切さを訴える論理になる一方で、国家の指導者がこれを主張すると、経済開発を優先するために個人の自由を制約し、貧困層やマイノリティの権利を侵害すること(例えば、ダム建設のための強制移転を考えてみてください)を正当化する論理になりかねないからです。
「アジア的人権論」も同様です。「自由権よりも社会権を優先すべき」という主張は、国家が自由を制限し、市民の「開発独裁」に対する批判を押さえ込む論理となり、「個人よりも国家・国民という集団を優先すべき」という主張は、開発のために貧困層やマイノリティの人権侵害を正当化するものとなりかねません。また、「人権は国内問題である」という主張の背景には、先進国や国際機関が人権を開発援助の供与条件にすることへの反発もありますが、このように主張することで、人権問題の解決のための、国際的な連帯や協力が否定されてしまう危険性があります。これは「発展の権利の実現のためには国際協力が不可欠である」という考えかたとも矛盾します。このように、「アジア的人権論」は、これを国家の指導者が主張するところに、大きな問題があるのです。

2 thoughts on “阿久澤麻理子

  1. shinichi Post author

    知りたい! 人権 Q&A

    「アジアにはアジアの人権がある」という主張がありますが、人権は普遍的なものではないのですか?

    answered by 阿久澤麻理子

    アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)

    http://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2010/03/post-10.html

     1993年、人権の普遍性に真っ向から対立する主張が起こりました。冷戦後、はじめて開催される「世界人権会議」の準備のため、アジアで開かれた地域会合で、いくつかの国の政府代表者が「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」と強力に主張したのです。その結果、

    人権とは相対的なもので、

    アジアでは社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきで、

    人権は国内問題であるから外部の介入は許されるべきではない、

    という主張が盛り込まれた「バンコク宣言」が採択されました。これらが「アジア的人権論」と呼ばれる考え方です。

    「発展の権利」と「アジア的人権論」の関係

     2、3の主張は、1960年代に提起された「発展の権利」の考え方とも、大きく重なります。そこで、ここでまず「発展の権利」について紹介したいと思います。

     発展途上国の貧困と低開発という問題は、現在先進国と呼ばれている国々の、長年にわたる植民地支配と収奪に大きな原因があります。しかも、多くの国は独立してもなお、先進国の経済的・政治的影響力の下に置かれ、経済的自立を果たせないジレンマに直面していました。こうした中で、新しく独立を果たした国々から「発展そのものが人権である」という主張が生まれました。

     これは、発展途上国の人びとが集団として、生きるために必要な基本的権利と発展を保障されることこそ人権であるという考え方で、経済基盤の弱い発展途上国がこれを実現するには、国際協力が不可欠だと主張されました。個人よりも「集団」「連帯」を重視するこの考えは、個人の人権だけでなく、それを支える構造的基盤にも着目する考えとして注目され、1986年に「発展の権利に関する宣言」が国連総会で採択されました。

     しかしながら、「発展の権利」は、「それを誰が主張するのか」によって、人権を実現する有力な手段にもなれば、国家による人権侵害を正当化する論理ともなってしまう「諸刃の剣」です。先住民や女性など、マイノリティに属する人びとがこれを主張すれば、集団としての発展や自己決定の大切さを訴える論理になる一方で、国家の指導者がこれを主張すると、経済開発を優先するために個人の自由を制約し、貧困層やマイノリティの権利を侵害すること(例えば、ダム建設のための強制移転を考えてみてください)を正当化する論理になりかねないからです。

     「アジア的人権論」も同様です。「自由権よりも社会権を優先すべき」という主張は、国家が自由を制限し、市民の「開発独裁」に対する批判を押さえ込む論理となり、「個人よりも国家・国民という集団を優先すべき」という主張は、開発のために貧困層やマイノリティの人権侵害を正当化するものとなりかねません。また、「人権は国内問題である」という主張の背景には、先進国や国際機関が人権を開発援助の供与条件にすることへの反発もありますが、このように主張することで、人権問題の解決のための、国際的な連帯や協力が否定されてしまう危険性があります。これは「発展の権利の実現のためには国際協力が不可欠である」という考えかたとも矛盾します。このように、「アジア的人権論」は、これを国家の指導者が主張するところに、大きな問題があるのです。

     

    「文化的価値」は絶対的なもの?

     「1.人権とは相対的なものである」についてはどうでしょうか。たとえばシンガポールのゴーチョクトンは,東アジアの経済発展を支えてきたのは、勤勉さ,節約,自己犠牲の精神などの儒教倫理であり,このような文化的価値こそ国家イデオロギーとして制度化すべきであると主張しました。

     儒学では、個人の道徳的修養を尊び、徳治主義(道徳によって治める政治)を重視します。しかし、こうした考え方も先の議論と同じく、国家の指導者によって強調されると、統治者の徳ばかりが重視され、市民が国家や社会を批判的に見る視点を封じ込めてしまう可能性があります。

     また、それぞれの文化は尊重されるべきですが、文化を絶対化することには問題があります。「すべての文化は固有の価値を持ち、尊重されるべきで、これを外部から評価・批判することはできない」という考えを「文化相対主義」といいますが、これもまた「諸刃の剣」です。

     「文化相対主義」の視点を他者に要求すると、他者からの自文化に対する批判を拒絶する態度につながります。「文化相対主義」を「絶対化」すると、異文化間での対話が成り立たなくなってしまいます。 人権が「普遍的」なものであるならば、さまざまな文化、社会に共通に受け入れられるものでなくてはいけません。したがって国際社会において人権を基準化するとき、もっとも重要なのは異文化間の「対話」です。私たちは文化を尊重することと、対話を継続することとを両立しつづけなくてはいけません。さまざまな宗教、文化の違いが紛争の原因となりつつある今日、このことは今までにもまして重要です。

     なお、幸いなことに、対話の成果として1993年の「世界人権会議」で採択されたウイーン宣言には、「すべての人権は、普遍的かつ不可分であり、相互に依存し関連していること」、「国家や地域の特性や歴史的、文化的、宗教的背景は考慮しなければならないが、すべての人権の保障はそうした違いに関わりなく国家の義務であること」が盛り込まれました。そして171カ国の同意(コンセンサス)によって、宣言が採択されました。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    アメリカの文章をそのまま翻訳したかのようだが、何度か読んでみると阿久澤麻理子の考えだということがわかる。

    戦争に負け、占領されたのだから、「アメリカ人のように考える日本人」が増えるのは自然のこと。そう思っても、なにか釈然としないものが残る。

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