小名木善行

西周は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。

たとえば、英語の「philosophy(哲学)」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。なぜそうするかといえば、外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければならない。そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになる

というのです。そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」だったのです。
ところが、この「権利」という訳に、福沢諭吉が噛み付きました。「誤訳だ!」というのです。そして福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘しています。
なぜ、福沢諭吉は、そこまで厳しく噛み付いたのでしょうか。理由が2つあります。ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていないこと、です。

2 thoughts on “小名木善行

  1. shinichi Post author

    権利と通義

    by 小名木善行

    ねずさんの ひとりごと

    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1684.html

    「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
    「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。

    西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才だった人です。
    文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。
    藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語です。

    彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。

    たとえば、英語の「philosophy(哲学)」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
    なぜそうするかといえば、外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。
    欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、我が日本のものとしていかなければならない、というのです。

    英語の言葉を、単にそのままカタカナ語で用いるのでは(最近はそういうカタカナ英語が氾濫しているけれど)、その意味は広く世間に伝わりません。
    欧米の哲学や科学力を日本の日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければならい。
    そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになる、というのです。

    これは、まさにその通りだと思います。
    「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「識字」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力を指すということがわかるし、
    ネットリテラシーといえば、ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが理解できます。

    西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けられた人であるわけです。

    そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」だったのです。

    ところが、この「権利」という訳に、福沢諭吉が噛み付きました。
    「誤訳だ!」というのです。
    そして福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
    「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘しています。

    なぜ、福沢諭吉は、そこまで厳しく噛み付いたのでしょうか。
    理由が2つあります。
    ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、
    もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていないこと、です。

    「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
    「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。

    「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になります。
    けれど、英語の「Right」には、そんな意味はありません。
    一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
    つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても妥当な正当性のあるものが「Right」の意味です。

    さらにいえば、「Right」には、正義という概念が含まれます。
    要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が、「Right」なのです。

    ところがこれを「権利」と訳すと、子供の我がまままでが「権利」だと勘違いされる。
    お父さんはテレビでプロ野球の試合を観たいのに、子供がお笑い番組を観たいといえば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがチャンネルを野球に変えれば、それは子供の権利の侵害にあたる、などという、もっともらしい「間違い」が起こる。

    だから福沢諭吉は、「Right」を「権利」と訳すのは、「誤訳だ!」と猛烈に抵抗したのです。
    では、福沢諭吉は、「Right」を何と訳したかというと、彼はこれを「通理」と訳しました。

    この「Right」という単語は、米国の独立宣言にも出てきます。
    〜〜〜〜〜〜〜
    They are endowed by their Creator with certain unalienable Rights,
    that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
    That to secure these rights,
    Governments are instituted among Men,
    deriving their just powers from the consent of the governed,
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    直訳すると次のようになります。
    〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき「Right」を与えられている。
    その「Right」には、Life、Liberty、そしてthe pursuit of Happinessが含まれている。
    そのthe pursuit of Happinessを保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
    〜〜〜〜〜〜

    つまり、「Right」は「神から与えられているもの」なのです。
    それを「権利」と訳すと、次の文節である「そのRightには、Life、Liberty、そして幸福の追求が含まれている」が違う意味になります。
    なぜなら、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、個人個人が神の意に反していても「権利だ」と言えるようになるからです。

    けれど文意は明らかに、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、神から与えられた「Right」の内訳と書いています。
    これでは意味が非常にわかりづらくなります。

    ですから福沢諭吉は、この「Right」を「通義」と訳しました。
    そうすると米国独立宣言の文章は、次のようになります。

    〜〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき通義を与えられている。
    その通義には、人生、道義、そして幸福の追求がが含まれている。
    その幸福の追求を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
    (福沢諭吉訳)
    天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメテ真ニ権威アルト云フベシ
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    要するに「Right」というのは、神から与えられた「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義」を言うのです。
    自分勝手が許される「権利」ではない。

    「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなるのです。
    「Right」が通義なら、「権利と義務」の本来の意味は、
    「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務」となります。
    意味が、ずっとつかみやすくなる。

    そうすると、冒頭の中学生の少女の売春行為も、未成年者の売春行為自体が「正義」ではないのだから、実にとんでもないことで、問答無用で、「あんたは悪い。だからやめなさい!」と言えるようになるわけです。

    つまり、日本における権利意識の大きな間違いは、そもそもの誤訳から始まっている、というわけです。
    権利という言葉自体が誤訳であり、通義が正しい訳とすれば、権利意識という単語は、通義意識となります。
    通義なら、一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義ですから、通義意識は「一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義のための意識」となり、「Right」の語感を正確にとらえたものとなります。

    そしてここまでくると、「人権擁護法案」などというとんでも法案も、要するに「人権=人の持つ権利」という誤訳の上に誤解を重ね、さらに「Right」を曲解したところから生じている無教養と身勝手が招いた「とんでもない法案」であることがわかります。

    つまり、人権なるものの本来の意味が、「人の通義」すなわち「国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義」であるとするならば、ごく一部の在日外国人の利権のために、他の多くのまともな日本人の生活が犠牲になるなど、もってのほかとわかるわけです。

    ここは日本人の住む日本なのです。
    日本は日本人のものであって、外国人のものではない。
    日本人としての通義は、日本人のためのものであって、外国人のためのものではない。
    あたりまえのことです。

    一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中にこそ、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)もあるのです。
    そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが、政治の役割なのです。

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