天童荒太

 夜明け前の風は冷たく、わたしはデニムパンツとTシャツの上に薄手のスタジャンを羽織り、ポケットに忍ばせた果物ナイフの柄をしっかり握っていました。手のナイフが、用心のためか、みずからあの場所で命を断つ願望のあらわれだったか、ほとんど意識していませんでした。
 誰にも会わずに駅のコインロッカーが並ぶ場所に着きました。夜が明けてきたらしく、駅舎の背後に、縁をオレンジ色に染めた雲が望めます。不意に、親友が倒れた辺りで影が揺れました。
 どうやら人間であるらしいその影は、左膝を地面につきました。次に、右手を頭上に挙げ、空中に漂う何かを捕らえるようにして、自分の胸へ運びます。左手を地面すれすれに下ろし、大地の息吹をすくうかのようにして胸へ運び、右手の上に重ねました。横顔が見えるあたりへ回り込むと、その人物は目を閉じて、何かを唱えているらしく、唇が動いています。
「何をしているんですか」
 思わず言葉をかけていました。まるで祈りをあげているような相手の姿に、動揺したのです。
 影が静かに立ち上がりました。若い男の人でした。前髪が目にかかる程度に髪を伸ばし、やや面長で、柔らかいもの問いたげな目をしていました。洗いざらしのTシャツに、膝に穴のあいたジーンズ、擦り切れたスニーカーをはき、足元に大きなリュックを置いています。
「いたませて、いただいていました」
 彼は、瞳の奥まで透かすようにわたしを見つめ、意外に軽くて優しげな声で言いました。
「ここで、或る人が亡くなられたので、その人を、いたませていただいています」
 彼の答えを聞き、いたむという言葉が、<悼む>であることにようやく気づきました。
 でも、なぜ・・・・・・。親友とどんな関係の人なのか。いえ、彼が親友を悼んでいたのかどうかさえまだわからず、尋ねようとすると、彼が先に親友の名前を口にして、
「あなたは、彼女のことを、ご存知ですか」
 と訊きました。わたしは、びっくりして声が出ず、無言でうなずきました。
「でしたら、彼女のことをお聞かせ願えませんか。彼女は、誰に愛されていたでしょうか。誰を愛していたでしょう。どんなことをして、人に感謝されたことがあったでしょうか」
 その言葉を聞いたとたん、胸の奥にしまい込んでいた彼女の思い出があふれてきました。
 親友は多くの人に愛されていました。大勢の人を愛していました。そしてわたしのこともきっと愛してくれていたはずです。・・・・・・でも彼女が死ぬまで、わたしはそれに気づいていなかったし、親友もたぶん同じでしょう。当時のわたしたちは、愛ということを、男女の関係か、家族の愛情に限定して考えていたからです。でも、その人の質問で、親友が生きていたことが愛だったのだと思い当たりました。彼女が朝起きて、家族と小さな言い合いをし、わたしと学校へ行き、仲間とばかな話で笑い合い、将来を不安に思いながら勉強して、塾でため息をつき、帰宅して家族と食事をし、友人とメールを交換して、眠りにつく・・・・・・そのすべて、何もかもが愛だったと。
 ばかげて聞こえますか。でも彼の問いを聞いたときは、そう信じられたのです。わたしは彼に親友のことを話しました。思い出すかぎりのことを伝えました。わたしが話し終えたところで、
「いまのお話を胸に、悼ませていただきます」
 と、彼は先ほどと同じ姿勢で左膝をつき、右手を宙に挙げ、左手を地面すれすれに下ろして、それぞれの場所を流れている風を自分の胸に運ぶようにしてから、目を閉じました。

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