shinichi Post author25/03/2015 at 11:55 am 受け継がれる3つの技 春帆楼 http://www.shunpanro.com/about/expert.html さばきの技:捌 ふぐ刺しの身上は皿の絵柄が透けて見えるほど薄く引く包丁さばきが醍醐味。それは「ふぐ料理公許第一号」の伝統のなせる薄造りの技です。そして、美しく繊細なこの技を支えているのが丹念な仕込みです。さばいたふぐをさらしに巻き、時間と温度に細心の注意を払いながら秘伝の製法で一昼夜おくことで身をほどよく引き締め、ふぐ独特の食感と旨みを引き出します。 盛りの技:盛 薄造りしたふぐの身の先端を立たせる華麗な盛り付けは、目でも味わうふぐ料理の醍醐味の一つです。一流の技と経験、そして厳選された素材と丹念な仕込みあって、初めて形となる熟練の技。美しい器との調和を楽しんでいただけるよう、華やかな菊盛りや、ご祝宴にふさわしい鶴盛りなど、職人の趣向をこらした一皿を盛り付け、お客様にご提供させていただいております。 食の技:食 シャキシャキとしたふぐ専用に栽培された極細の葱をふぐの身で巻くのは、下関発祥の食し方です。ピリリと辛味を効かせた紅葉おろしと春帆楼特製ぽん酢でお召し上がりいただきます。新鮮な葱の豊かな香りとポン酢のさわやかな酸味がお口の中にいっぱいに広がり、ふぐのおいしさを極上なまでに引き立てます。春帆楼ならではの食べ方でお召し上がりください。 Reply ↓
shinichi Post author25/03/2015 at 12:00 pm 春帆楼 http://www.shunpanro.com/about/history.html 江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。 明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。 春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。 明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。 豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。 若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。 Reply ↓
受け継がれる3つの技
春帆楼
http://www.shunpanro.com/about/expert.html
さばきの技:捌
ふぐ刺しの身上は皿の絵柄が透けて見えるほど薄く引く包丁さばきが醍醐味。それは「ふぐ料理公許第一号」の伝統のなせる薄造りの技です。そして、美しく繊細なこの技を支えているのが丹念な仕込みです。さばいたふぐをさらしに巻き、時間と温度に細心の注意を払いながら秘伝の製法で一昼夜おくことで身をほどよく引き締め、ふぐ独特の食感と旨みを引き出します。
盛りの技:盛
薄造りしたふぐの身の先端を立たせる華麗な盛り付けは、目でも味わうふぐ料理の醍醐味の一つです。一流の技と経験、そして厳選された素材と丹念な仕込みあって、初めて形となる熟練の技。美しい器との調和を楽しんでいただけるよう、華やかな菊盛りや、ご祝宴にふさわしい鶴盛りなど、職人の趣向をこらした一皿を盛り付け、お客様にご提供させていただいております。
食の技:食
シャキシャキとしたふぐ専用に栽培された極細の葱をふぐの身で巻くのは、下関発祥の食し方です。ピリリと辛味を効かせた紅葉おろしと春帆楼特製ぽん酢でお召し上がりいただきます。新鮮な葱の豊かな香りとポン酢のさわやかな酸味がお口の中にいっぱいに広がり、ふぐのおいしさを極上なまでに引き立てます。春帆楼ならではの食べ方でお召し上がりください。
春帆楼
http://www.shunpanro.com/about/history.html
江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。
明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。
春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。
明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。
豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。
若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。