清瀬 六朗

近代民主主義は本質的にさまざまな問題点や危険さを抱えている。「多数の暴政」の危険、同じことだが「法の支配」を打ち破って暴虐な恣意的支配を実現してしまう可能性、ところが逆に多数派が形成されないばあいには機能を停止してしまうという問題、近代民主主義が担いうる問題解決能力の限界、その限界を補充するかたちで忍びよる行政官僚機構による専制の危険、危機が迫れば独裁に急に接近するという気まぐれさ、戦争との関係、ある程度の余裕がないと人びとは民主主義を支えていられないという問題、また、反対に人びとは民主主義のあかしとして政権から「パンとサーカス」の施しを期待してしまうという問題――これらの問題は、原始的民主主義の段階から近代民主主義の段階へと進むにつれて次々に湧き出てきた問題である。しかもどれ一つとして解決されていない!
問題が顕在化しないから、問題がなくなったようなふりをしているだけで、現実に問題が現れてきたときには絶対に有効な対処法を私たちが持っているわけではないのだ。
このような実態を見ると、第二次世界大戦をイギリスの首相として指導したチャーチルが「民主主義は最悪の政治体制である」と言ったのも理解できる。しかし、同時に、「ただし、それはほかのすべての政治体制を除いて最悪なのだ」と言ったことばも、私は認めなければならないと思う。つまり、私たちが民主主義を選択しているのは、「最悪のもの」と「最悪より悪いもの」の選択の結果なのだ。
民主主義がそれだけ「最悪」でも現在の政治体制として最適だと考えるのは、それが現在の世界の人びとの「共同意識」に比較的よく一致しているからである。いや、よく一致していないかも知れないが、それ以上に一致させることのできる政治体制がないから、「最悪より悪いものよりはましな最悪」として受容しなければならないのだ。

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    民主主義と押井作品

    ―― 岩田憲明氏の「”虚像”の民主主義」への応答 ――

    by 清瀬 六朗

    http://www.yk.rim.or.jp/~h_okuda/wwf/w25_kiyose.htm

     この文章は、昨年の『WWF No.23 押井学会 Vol.2』に掲載された岩田憲明さんの論文「"虚像"

    の民主主義」への、私の応答である。

     岩田さんの「 "虚像" の民主主義」は私にとって刺激的な論文だった。押井守の作品を、いちど、政治的なものを視る視点からとらえてみたらおもしろいのではないか。私自身がなんとなく感じていたことを呼び醒ましてくれたのがこの論文であった。

     押井守は、学生運動にシンパシーを感じ、自分でも運動に参加した青年だった。そういうことを、押井守はときおりインタビューなどで語っている。

     その押井の作品を、政治的なものを視る視点で観れば、何かおもしろいものが出てくるに違いない。そういう思いがずっと私のなかにはあった。

     もちろんこれは思いこみである。学生運動が政治的な運動であったとしても、運動に関心を持つ者が政治的関心も持っていたとは限らない。政治的関心を持ちながら運動に加わらなかった人がたくさんいるように、運動に加わっていてもじつは政治にはまったく関心がない人だっていたかも知れない。また、六〇~七〇年代に学生運動に参加し、政治的な問題に関心を持っていても、現在はその関心を捨ててしまっている人も多いだろう。さらに、政治的関心を強く持っている映画監督の作品が、その政治的関心を常に反映して作られているとは限らない。

     だから、押井守が政治的な青年だったらしいということは、「押井作品を、政治的なものを視る視点でとらえてみたらおもしろいのではないか」と思ったきっかけに過ぎない。押井守はもしかするとほんとうは青年期に政治的関心をなんら持っていなかったかも知れない。『御先祖様万々歳!』の麿子のように、もしかすると、押井守は、自分は政治的な青年だったと言うことで押井作品評論に破壊と混乱をもたらそうとしているのかも知れない。押井に限らない。宮崎駿でも庵野秀明でも、『ギャラクシーエンジェル』の杉原研二でも荒木哲郎でも、すべての作り手には「麿子」である可能性がある。で、押井守はいかにもその可能性が大きそうに見える。

     しかし、そのことには関係なく、私はやはり押井作品を政治的なものを視る視点から視てみたいと思う。「そのことには関係なく」と思うこと自体が、もしかすると作者のしかけた落とし穴にはまっているのかも知れないが、まあ、いいや。「押井学会」だし。

     そういう視点から評論するときに、「民主主義」というのが一つの軸にできるのではないかと思いついたのは、やはり岩田さんの論文を読んだことがきっかけだった。以下の文章ではいちいち記していないが、私の議論は多くの点で岩田さんの論文に発想のきっかけをいただいている。深く感謝したいと思う。

     

     古代地中海世界の民主主義

     まず民主主義そのものについて考えてみたいと思う。

     民主主義ということばは、もちろん英語で「デモクラシー」というようなヨーロッパのことばの翻訳語で、日本にも中国にも昔からあったことばではない。

     民主主義というのは、西ヨーロッパからいう「古典古代」のギリシアで使われはじめたことばである。「民衆による支配」という意味のことばらしい。日本語で表現すると、「民主主義」・「民主政治」・「民主制」などと使い分けられるが、もとは一つのことばである。もっとも、私は古典ギリシア語も現代ギリシア語も知らないから、ギリシア語での語感が実際にはどのようなものか、これ以上はわからない。

     古典古代の地中海世界は都市国家の世界である。

     よく知られているように、これらの都市国家は、日本の県と同じくらいか、それより狭い領域しか持っていなかった。その領域には街があり、街がその狭い領域の政治的中心になっていた。街は同時にその領域全体の神を祀る祭祀の場所でもあった。街が支配する狭い領域が一つの独立した政治的主体、つまり国家だったのである。この「街」のことを「ポリス」と呼んだらしい。

     「都市国家」というから大げさになる。大きな村の中心に、その村の鎮守の神様を祀るお社があり、お社の前に門前町が広がって商人たちが集まり、村の人たちも何かあるとその町に出かけていく。だから、村の偉い人たちもその町に住んでいて、村のいろんなことをその町で決めている。そんなふうにイメージしてもあまりはずれではないと思う。

     都市国家時代のギリシアの歴史では、アテネ(アテナイ)やスパルタを中心に語られることが多い。教科書や概説書でギリシアの都市国家を説明するページにアテネのパルテノン神殿の遺構の写真が載っていたりすると、ギリシアの都市国家はどこも壮麗な大都市であったように思ってしまうかも知れない。けれども、アテネとスパルタは、成り立ちが他の都市国家とは少し違っていて、例外的に広い領域を持っていた都市国家なのである。ほかの都市国家はもっと小さい。

     また、ギリシア人はいまのギリシアの国でだけ活躍したわけではなく、海洋民族として地中海のあちこちに拠点を持っておいた。それらの拠点にはギリシア人が移住して作った都市国家があった。したがって、現在のギリシアにだけギリシアの都市国家があったわけではない。またギリシア人だけが都市国家を作っていたのでもない。のちに大帝国に成長するローマだって、もとはローマの街を中心とする都市国家だった。

     そういう都市国家を支配するための方式の一つに民主主義(民主政治)があった。

     都市国家全体にかかわるさまざまなことを決めるのに、一人の偉い人が決めるのか、偉い人たち何人かが寄り集まって決めるのか、基本的にみんなが寄り集まって決めるのか。それがギリシアの都市国家の政治体制の分類基準だった。一人の偉い人が決めるのが君主政治、偉い人が何人かで寄り集まって決めるのが貴族政治、みんなが集まって決めるのが民主政治というわけである。

     あまり大きくない共同体だから、君主とか貴族とかいっても、普通の人びととそんなに隔たりのある生活をしていた人たちではない。君主や貴族も、それ以外の民衆と同じように一つの共同体としての意識を持っていた。その共同意識の上で、都市国家全体にかかわることをどう決めるかの方式の違いがあっただけである。そういう共同意識を持っている人たち全員が集まってみんなで都市国家全体のことを決めるのが民主主義だったのだ。なお、奴隷や在留外国人や女性は、そういう共同意識を持っていないとされたのか、都市国家共同体の一員とは考えられていない。

     だから、このときの民主主義というのは、いわゆる「直接民主制」である。都市国家共同体の人としての共同意識を持っている人みんなが集まって決めないと民主主義にならない。「間接民主制」というのはこの時代にはなかった。選挙というのは「すぐれた人」を選び出す手続だ。古代ギリシアの感覚では、「すぐれた人」の支配は貴族政治の原理であって、民主政治とは別ものと認識される。選挙で「すぐれた人」を選んでしまうと民主政治からはずれる。だから、選挙のある民主政治というのは、この時代にはあり得なかった。

     すぐれた人もそうでない人も同じ権利で決定に参加する。それが古典古代ギリシアの民主主義だ。

     

     民主主義のしくみとしての「村の寄合」

     民主主義は古代ギリシアにしか生まれなかったように言われることがある。しかし、民主政治を「村のような共同体での、共同体全体にかかわることの決めかたの一つ」と考えれば、別に古代ギリシアだけに生まれたものとも言えないだろう。

     民俗学者の宮本常一は、主著『忘れられた日本人』に村の「寄合」について書いている。

     村の大人の男たちが集まり、弁当を持って行って、朝から晩まで、村に関係のあることを話し合う。結論が出るまで何日も続ける。結論は全員一致で出す。つまり、全員が納得してある意見に一致できるまで、結論は出さず、議論を続ける。結論に必ずしも賛成でないような意見が出ると、「ではその件は後回しにして」などと言って別の話題に移る。しばらく経って、別の話題の話が終わったり中断したりした折りに、「ところでさっきの件だが」ともとの話題に戻る。そこでも全員が一致できる結論まで行かなければ、また話題を変えて、しばらくしてからまた議論する。そうやって結論が出るまで延々と議論し、村が抱えるさまざまな問題に全員が一致できる答えを出していく。それが日本の村の「寄合」だったという。

     日本のすべての村の寄合がこんな感じだったかどうかは、私は知らない。地域差はあったはずで、少なくとも、いまの東日本と西日本では村の共同体のあり方はずいぶん違ったという。だから寄合のあり方にも違いがあったかも知れない。また、あとで触れるように、日本にも多数決の伝統はあったから、いつでも「全員一致」の結論を出す寄合ばかりが行われたわけではないだろう。

     だが、宮本常一が紹介した寄合の感覚は、いまでも私たちの「民主主義」感覚の一部に残っているのではないだろうか。

     職場などの会議で、同じような話しか出ないのに、同じ話題について延々と議論がつづく。しかも、いったん「では、この件はこんな感じで」と結論が出たのに、あとでその件についてだれかが「ところでさっきの話だけど」と話を蒸し返す。蒸し返したらしばらくその話がつづく。別に新しい論点が出るわけでもない。ところが、同じ話を何度も繰り返しても仕方がないなどと言って、途中で多数決で採決したり、議論を打ち切ったりすると、「独裁的だ」とか「民主的でない」などと非難されることがある。

     一つひとつの論点について、いちいちみんなが納得し、全員一致で結論が得られるまで、同じ議論しか出なくても、くり返しくり返し時間をかけて議論する。それが「民主的」だという雰囲気が日本の組織にはある。さすがに最近は経営にもスピードが必要だなどと言われて、そういう「延々と続く会議」は少なくなったのかも知れない。それでもまだけっこう残っているのではないだろうか。少なくとも私の務めている職場にはその種の会議がまだたくさん残っている。この秋にはそんな種類の会議が集中して、おかけで本稿執筆の時間が大幅に減ってしまったというのは私の個人的な愚痴である。

     私は短気だし、WWFの原稿も抱えているので、「こんなむだな会議やめようよ」といつも思っている。WWFの原稿を抱えている人はそんなにいないだろうが、忙しい人は多い。そんな長々とした会議が好きな人がそんなに多いとは思えない。個人的な会話では「会議、長くていやですね」というような話題はよく出る。

     でも、やはり長い会議で出した結論でないと落ち着かないという気分はある。時間をかけていない会議で出した結論でみんな動いて、もし失敗したりすると困るという感覚がある。こういう場では「時間をかけて議論する」こと自体に意味があるのだ。会議とはそういう儀式なのだ。そういう会議で「その話題はさっき結論が出たからやめましょう」と言い出す勇気は、少なくとも私にはない。そんなことをすれば、職場の人間関係のなかで、「非民主的」で「独裁的」な人間と思われて孤立してしまうのではないか。そんな恐怖がいつもある。

     全員が納得して、一つの意見に一致するまで、くり返し議論する。それがたぶん日本社会のなかで村を運営していくうえでいちばんよい仕組みだったのだろう。たぶん、昔の農村共同体には、決定にスピードが要求される私たちの時代と違って、議論にかける時間が十分にあったのだろう。決定までに時間がかかることの社会的な損失よりも、納得して全員が一致する前に何かのことを行って村のメンバーの団結が崩れることの損失が大きいと考えられていたのだろうと思う。そういう村共同体の仕組みの感覚が私たちの「民主主義」をめぐる感覚に残っている。

     日本で、「民主主義」ということばが、人びとのふだんの生活にまで入ってきたのは第二次世界大戦後である。

     日本には、第二次大戦前にも、国政のレベルでみれば、政党政治のような民主主義的な制度はあった。一九二〇年代には、政友会と憲政会・民政党との二大政党制が定着していた。政権政党が失政によって政権を失うと、他方の政党が政権与党になるという仕組みも定着していた。多数政党の党首が首相を務める慣行もいちおうは成立していた。一九三〇年代、五・一五事件以後の日本については「軍部独裁」のイメージを持たれているかも知れない。けれども、一九三〇年代にも、首相は政党から出さなくなったけれども、じつは政党政治は機能している。一九四〇年代前半の第二次世界大戦期の大政翼賛会でさえいちおうは選挙によって支えられていたのだ。第二次大戦期までの日本も、国政レベルの制度からみれば、それほど非民主的ではない。むしろけっこう民主的だったのである。

     けれどもそれは「民主主義」として位置づけられることはなかった。「民主」ということばを使うと、人民が国の主人であると解釈されて、明治憲法の定める天皇制度に反する恐れがあったからだ。

     第二次大戦後になって、アメリカ合衆国の軍人・官僚を中心とする連合軍総司令部のスタッフが主導して、戦後改革が行われた。そのなかで「民主主義」ということばが普通の人びとのあいだにまで浸透することになった。日本の人びとは、そのことばを、村や組織のなかに生き残っていた「村の寄合」的な慣行に当てはめて理解した。それが私たちの「民主的」ということばの語感に残っているのではないだろうか。

     それは民主主義の曲解なのかも知れない。少なくとも近代民主主義の理解としてはあまり正当な理解だとは思わない。けれども、「民主主義」には「村の寄合」的なものとして理解しても理解できる側面があったのは確かだ。むしろ、古典古代の地中海世界で生まれた原始的な民主主義は、いまの民主主義よりもはるかに「村の寄合」的伝統に近いものだったのではないかと思う。

     民主主義がその原始的民主主義から引き継いだ要素が、日本社会に残っていた「村の寄合」の伝統に共鳴して、私たちの「民主主義」をめぐる感覚に定着した。そんなところがあるのではないか。

     

     大衆的暴虐としての民主主義

     さて、地中海世界の民主主義は、その時代の知識人にはあまりよいものとは考えられていなかった。民主政治とは、要するに、暗愚な連中が集まってろくでもない決定を下すもので、政治のやり方としては悪いものだというのである。むしろ、民主主義は、せっかく定着してきたよい制度を、ものを知らない連中がよってたかって潰してしまう危険なものだと思われていたのだ。

     古典古代だけではない。民主主義は、生まれて以来、現在までのほとんどの時期、あまりいい語感をもつことばではなかった。とくに、貴族政治や君主制と組み合わせられない、いわば「純粋」な民主主義は危険なものと認識されてきた。そういう語感が変わったのはヨーロッパでもここ百年ちょっとぐらいのあいだに過ぎない。体制としては最初から民主主義のしくみを持つ国家として創立されたアメリカ合衆国でさえ、民主主義ということばが危険思想と思われて嫌われた時代もあった。

     一九六〇年代後半から一九七〇年代前半の中国に「文化大革命」という運動があった。この運動では、学生たちを中心とする人たちが何千何万と寄り集まって、知識人・文化人を引きずり出して多くの人の前で糾弾したり、古い文化財を掠奪したり破壊したりと暴虐のかぎりをつくした。この文化大革命のように、人びとがたくさん寄り集まり、あまり自分でものを考えないで暴力的に破壊活動を行うというイメージが、古来から「民主主義」ということばにはまとわりついてきたのだ。

     現に、この文化大革命の運動のスタイルは中国語で「大民主」と呼ばれた。西側諸国の議会制民主主義は「小さな民主主義」に過ぎず、文化大革命の民主主義こそが「大いなる民主主義」だという自負をこめて使われたことばだ。いまになって振り返れば、私たちはそういう大衆的暴虐を「民主主義」の名で呼ぶことに違和感を感じるだろう。けれども、「民主主義」のことばが伝統的に持っていた語感からすると、まさにこの文化大革命のような大衆的暴虐が民主主義だったのだ。

     アテネがスパルタと大戦争を繰り広げている時代に育ったプラトンは徹底して反民主主義的である。プラトンの理想とする政治は、この世界の理想的なあり方をよく知っている哲人による独裁支配であり、民主主義ではない。

     プラトンはアテネの民主主義が生み出した大衆的政治家たちがアテネの国を泥沼の戦争に引っぱりこんで国を崩壊させてしまった過程を生々しく知っていた。民主主義の人民裁判で師のソクラテスを殺されたという経験もある。そんな経験を持つプラトンが民主主義を擁護するはずがないだろう。

     ただ、知識人の議論には、その議論が行われた当時の知識人の立場が反映していることを考えなければならない。先に書いたように、何かのすぐれた点を持つ人たちの支配は、古典古代には貴族政治に分類され、民主政治とは違うものとされていた。この時代の政治分類のなかでは、知識人は最初から貴族政治に近い人たちであった。だから、古典古代の知識人が民主政治を悪く書いているからといって、みんながそう感じていたということにはならないだろうと思う。

     

     ローマ帝国の役割

     この地中海世界が都市国家の時代のまま終わっていれば、民主主義はその時代の思想ということで片づけられていただろう。また、地中海世界が、都市国家の時代から、その都市国家とは関係なく、とつぜん帝国の時代に移行していれば、やはり、民主主義は「昔の政治のしくみ」や「昔の政治思想」で終わっていたに違いない。

     なにしろ、地中海世界の民主主義は、小さい共同体で、共同意識を持つ人びとみんなが集まってものごとを決めるという制度である。だから、この原始的な民主主義はみんなが集まることができないと成り立たない。狭い領域しか支配していない都市国家でしか成立しないものだった。だから、広い領域を持つ帝国には、あまりふさわしい制度ではない。

     ところが、ギリシアの都市国家の時代が終わった後、地中海世界を制覇し統一したのはローマ帝国だった。そして、このローマ帝国は、広い領域を持つ帝国でありながら、都市国家として長い伝統を持つ国家だった。少なくとも、ローマ帝国が地中海世界を統一した時点では、都市国家ローマが頂点に立ち、この都市国家ローマがそれ以外の地域を支配するという構造があった。ここに、民主主義の考えかたを含む、古典古代の都市国家の政治のしくみが理念として生き残る場が開けた。

     ローマ帝国は、その後のヨーロッパのキリスト教世界のあり方を決めた大きな「場」だった。このローマ帝国のなかで、広い領域を持つ帝国というあり方と、古典古代の地中海の都市国家の伝統と、もう一つ、キリスト教とが結び合わされた。そして現在につづくヨーロッパ社会の基礎的なあり方が作られたのだ。

     民主主義を含む古代ギリシア都市国家の政治体系は、都市国家の狭い領域を前提にして成り立っている。広い「帝国」にはあまり当てはまるものではなかった。また、キリスト教はもともとローマ帝国に激しい敵愾心を持っていた。本来、相容れそうもない相手どうしが、ローマ帝国では融合した。

     たとえば、何億年も昔の原始の海で、酸素呼吸をしない原始的な細胞に、酸素呼吸をするバクテリアが結びついてミトコンドリアになり、現在の動物細胞の原型ができた。それにさらに光合成をする藍色バクテリアが結びついて葉緑体になり、現在の植物細胞の原型ができた。現在の細胞の中核部分と、酸素呼吸を担うミトコンドリアと、光合成を担う葉緑体とは、原始の海では、もともとまったく別々のものだった。それどころか、酸素呼吸をしない原始的細胞は酸素に出会うとすぐに壊れてしまい、ミトコンドリアはその酸素を使って活動し、藍色バクテリアはその酸素を発生させるという、あまり相性のよさそうにない組み合わせである。それが結びつくことで、動物とか植物とかいう後の世界の生物のあり方が決まったのだ。政治の歴史のなかでその原始の海の役割を果たしたのが古代ローマ帝国である。

     広い領域を支配する古代ローマ帝国にも、考えかたとして民主主義は残った。古代ローマ帝国が滅亡した後も西ヨーロッパの政治思想のなかで生きつづけた。一方で、もともとはローマ帝国支配に激しく敵対していたキリスト教までが、その古代ローマ帝国に取りこまれた。西ヨーロッパの古代ローマ帝国が滅亡するまでにはそのキリスト教がローマ帝国の支配原理にまで格上げされた。キリスト教も古代ローマ帝国滅亡後のヨーロッパの帝国・王国・共和国に受け継がれる。広い領域を支配する帝国にはほんらいふさわしくないはずの民主主義の考えかたも、最初は古代ローマ帝国に敵対していたキリスト教も、けっきょくその帝国の伝統のなかに取りこまれて、その伝統の一部として融合してしまったのだ。

     

     「帝国」と「共和国」と「独裁」

     ところで、ここでまず説明なしに「帝国」ということばを使った。また、古代ローマのあり方について「共和制」とか「共和国」ということばを使うことになる。そこで、まず「帝国」と「共和制」・「共和国」について議論しておきたいと思う。

     古代ローマ帝国には、また、「帝国」と「共和国」という、現在では相容れないものと考えられそうな考えかたが共存していた。少なくとも、いまの語感ほど、古代ローマ帝国では「帝国」と「共和国」との区別は大きくなかった。実際、初期のローマ皇帝は、共和制の制度とずっと共存している。

     「共和国」というのは、古代ローマでは「みんなのもの」というような意味のことばだった。それを英語に直訳すると「コモンウェルス

    Commonwealth」になる。つまり「みんなの共通財産」だ。

     ローマが支配する領域は、ローマが都市国家だった段階で、イタリア全土から地中海西半分にまで広がって行った。この領域を、都市国家ローマの「みんなのもの」と見立てたのが「共和国」という表現である。都市国家ローマそのものも、やっぱり都市国家ローマの国民の「みんなのもの」だった。その共和国の政治体制が共和制ということになる。

     一方で、都市国家ローマの「権威を持った命令」が行き渡る範囲が「帝国」と呼ばれた。その「権威を持った命令」の管理役として置かれた最高権威者がローマ帝国の皇帝である。ローマ帝国では、まず皇帝がいて帝国ができたのではなく、まず帝国があって、その帝国を一手に管理するためにあとから皇帝が置かれたのである。

     したがって、「共和国」は、都市国家と違って広い領域を持っていても構わない。「みんなのもの」であればそれでいいのである。また、「帝国」は広い領域を持つことを前提としたことばだ。狭い領域ならば、最初からそこに住んでいる人たちに共同意識があるので、「権威を持った命令」で動かす必要はない。広い領域だから、それを統一的に動かすために「権威を持った命令」が必要なのだ。

     「帝国」へと成長していく段階の都市国家ローマでは、元老院を中心とする貴族政治の体制がまずできあがった。その後、庶民の会議である民会が勢力を持つようになった。この民会はいちおう民主政治の原理を持つ組織である。そして、元老院と民会とがともに政治を指導するという体制ができた。都市国家ローマの政治体制、つまりローマの共和制のなかには、貴族政治と民主政治が共存していたのである。貴族政治と民主政治が協調したり対立したりしながら都市国家ローマの政治を引っぱり、都市国家ローマの支配領域を「帝国」へと成長させていった。

     なお、この段階のローマの制度としてできあがったものに「独裁」の制度がある。これについてもかんたんに議論しておこう。

     「独裁」は「民主主義」の正反対のものとして議論されることがある。しかし、ローマの体制として考えると、それはけっして正反対のものではなかった。

     共和国の緊急事態の際に、その共和国を守るために、一年を限度として、一人の指導者に政治権力を集中させるのである。したがって、ローマの政治制度のなかでの独裁とは、共和制に敵対するものではなく、むしろ共和制を守るためのものだった。共和制の国を守るために、一時的に一人に権力を集中するのが独裁のしくみだったのだ。

     ローマの共和制とは貴族政治と民主政治の結合したものだ。だから、ローマの独裁は民主政治と敵対するものではなかったということになる。したがって、「民主主義」と「独裁」を対立するものとして表現するのは、ローマの共和制の伝統に照らしていえば、おかしい。古代ローマでは、民主主義・民主政治も独裁もともにローマの共和制の制度のなかで共存していた。そして、独裁は民主政治を含む共和制を守るために作られた制度だったのである。

     

     ローマ帝国の皇帝制度と共和制

     都市国家ローマの支配領域が、中東の西半分から地中海全域、スペインとフランスとドイツの西半分、それにイギリスの南半分まで及ぶようになり、ローマが「帝国」へと成長すると、貴族政治と民主政治の共存する共和制ではその領域を管理しきれなくなる。そこで、まずローマの「権威ある命令」の専門的管理者として皇帝が置かれ、皇帝の下に軍事組織と行政官僚組織が整備されていく。

     この時点の皇帝は、元老院や民会とも共存しており、帝国の全権を握る専制君主ではなかった。そのため「実質的には大統領だった」という表現をされることもある。それはまったくまちがいではない。たしかに、複雑な行政機構の最高長官であり、軍の指揮権も掌握していて、元老院・民会と共存しているとなると、その地位はアメリカ合衆国の大統領にも似ている。

     けれども、同時に、ローマ皇帝は死後は神として祀られたし、その皇帝の地位は血筋で継承されるのを原則とした。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス(アントニヌス敬虔帝)、マルクス・アウレリウスの「五賢帝」は血筋によらずすぐれた人材を選んで皇帝の位を継承したようにいわれる。最後の「賢帝」で哲人皇帝とたたえられるマルクス・アウレリウスが自分の子どもコンモドゥスに皇帝の地位を継がせたところ、父の名声と風格を台無しにするような暴君になってしまったことで、この「五賢帝」の帝位継承が理想化されてしまった面もある。

     しかし、この時期は皇帝の血筋に跡継ぎがいないという事態がつづいただけで、最初から血筋にこだわらない帝位継承をしたわけではない。五賢帝のあいだでも、親子ではなくても血筋に何らかのつながりがあったり、後継者が先帝の養子になっていたりして、血筋の原理を尊重する形式はとっている。マルクス・アウレリウス帝がコンモドゥスに帝位を継がせたのも、出来の悪い息子を溺愛していたからではなく、通常の手続だったのだ。ともかく、死後は神として祀られ、血筋でその地位を受け継ぐような最高指導者は、やはり大統領というよりも皇帝だろう。

     

     都市国家の共同性から神の下の共同性へ

     だが、「権威ある命令」の管理者として皇帝を置き、官僚組織を整えても、都市国家ローマの「権威ある命令」だけでは帝国は動かなくなってしまう。何より、帝国を一体として支配するうちに、都市国家ローマの国民(市民)とそれ以外の地域の住民との区別がなくなってくる。そのうちに、都市国家ローマではなく、従属地域から皇帝が出ることも多くなる。こうなると、「ローマ」や「ローマ皇帝」が、かつての都市国家ローマの伝統から浮き上がってしまう。五賢帝の一人であるハドリアヌス帝は、その在位期間中、帝国のすみずみまで自ら巡回した。そうでないと「ローマ」の一体性が保てなくなってきたのだ。

     五賢帝の時代が終わり、皇帝の統制力が弱まると、ローマ帝国の領域の各地で、その地域の軍団が、自分たちの司令官を勝手に「皇帝」に担いでしまうという事件が続発した。いわゆる軍人皇帝時代である。ローマ帝国は戦乱の時代に突入する。

     この時代になると、ローマ帝国の政治の中心が、都市国家ローマの伝統を引く都市ローマになくても、いっこうに不思議でない時代が来てしまった。都市ローマの地位は低下した。ローマは、都市の名まえであるより前に、まず第一に帝国の名まえとなった。

     都市ローマから遠く離れた黒海沿岸にローマの名を引き継ぐ「ルーマニア」という国があるのは、都市ローマの名ではなく、東地中海で「ルーム」と呼ばれた帝国ローマの名を引き継いだからである。

     ローマ帝国は、都市国家ローマの国民の「みんなのもの」だった。それがローマの共和制である。皇帝もそういう共和制の一部を担うかたちで登場した。しかし、都市国家ローマの範囲がローマ帝国全体に拡散してあいまいになるとともに、皇帝は地方軍閥のリーダーが勝手に名のる称号に成り下がり、ローマの共和制の理念も実態に合わなくなってくる。都市国家の人びとの共同意識も、皇帝の「権威ある命令」も帝国をまとめられない。

     ローマ皇帝とローマ帝国を支えるために、何かの権威が必要になってきた。

     その必要に応じて採用されたのがキリスト教だった。それまでローマ帝国に敵対してきたキリスト教は、帝国によるキリスト教保護と引き替えに、神の支配下にある世界の管理者として皇帝を位置づけ、皇帝の帝国支配を正統化する役割を担うようになった。都市国家ローマの「権威ある命令」の管理者だった皇帝は、こんどは神の支配する人間世界の管理者として位置づけられることになった。帝国はもう都市国家ローマの国民の「みんなのもの」ではない。神のものだ。貴族政治と民主政治が共存する共和制の伝統は廃れた。

     

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  2. shinichi Post author

     中世の共和制

     けれども、共和制は完全に西ヨーロッパから姿を消しはしなかった。神の支配と、神と結びついた皇帝の支配との下で、共和制的な政治体制は生き残っていた。

     コンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)に首都を移したローマ帝国の影響力は西ヨーロッパには徐々に及ばなくなっていた。七世紀に勃興して八世紀までに爆発的に支配領域を広げたイスラム世界帝国が中東からアフリカ北岸、イベリア半島の大部分までを支配すると、西ヨーロッパはコンスタンティノポリスのローマ帝国の影響力から遮断されてしまった。かわって、フランス・ドイツやベネルクス地域を支配していたフランクの王が西のローマ皇帝として即位し、神聖ローマ皇帝となる。しかし、神聖ローマ皇帝の領域はやがてドイツに限定され、イタリアには皇帝の権威は十分に及ばなくなる。

     この時代に、イタリアには都市国家といえる国ぐにが分立することになった。フィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどである。ただし、かつての地中海の都市国家よりはずっと領域は広い。ヴェネツィアなどはアドリア海沿岸から南スラヴ地域(いわゆる「旧ユーゴスラヴィア」)にまで領域を持ち、「帝国」と呼んでいいほどの勢力を誇っていた。この時期のヴェネツィアなどは成長期のローマ帝国に似ているかも知れない。

     また、イタリア以外では、スイスのジュネーヴなども当時は都市国家としての性格を持っていた。

     これらの都市国家ではかつての都市国家の系譜を引く支配が行われた。都市国家の指導者は、その都市の貴族から選ばれたが、絶対的権威を持っていたわけではない。なかには、一時的にだが、神を最高権威者として都市国家の指導者を一人に定めない「共和制」が行われた都市もあった。

     また、古代の政治学を大成したアリストテレスの思想は、キリスト教の神学と結びついて生き残っていた。

     アリストテレスの世界観は、アリストテレスが生きていた時代のギリシアの科学的知見に裏づけられた精緻なものだった。ユダヤ教から発展したキリスト教にはそれほど複雑な体系がない。そこでアリストテレスの世界観がキリスト教の世界観を安定させるためにキリスト教神学に入りこんでいったのだ。これはイスラム教の場合でも同様で、イスラム教もかなり早い段階でアリストテレスの世界観を採り入れ、また、ギリシア哲学が発展させた弁論術を導入してもいる。

     古代の政治学はキリスト教に従属するかたちで生き残った。また、古代の都市国家のような政治体系は、強力な統一王国の生まれなかったイタリアや強力な王朝の支配を拒絶したスイスの都市国家で生き残った。そして、中世を超えて近代が始まったとき、古典的な政治理論が息を吹き返し、近代の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えることになる。

     

     選挙制度と多数決

     ところで、この時代の西ヨーロッパのキリスト教組織で、後の民主主義の制度的発展に大きな影響力を持つ制度が定着している。多数決による選挙である。

     多数決による選挙は、西ヨーロッパのカトリックの組織の最高指導者であるローマ教皇の位を決めるために導入された。

     教皇は「神の代理人」としてこの世の頂点に立ち、その権威は皇帝を上回る。現実には皇帝やフランス国王やイタリアの都市国家の名門貴族に屈したこともあるが、形式的には、皇帝に冠を授けるのは教皇なのだ。ちなみにフランス国王など「国王」になると、教皇に冠を授けてもらう権利もなく、教皇よりも下の聖職者から冠を授けてもらうことになっていた。教皇がなぜそれほどの権威を持っていたかというと、それはその権威が神から与えられたものとされたからである。

     しかし、その神に権威を与えられた人を選ぶのに、どうして選挙なんかするのだろうか。選挙を行って教皇を選ぶのならば、教皇はカトリック教会組織の上層部の多数意見の代表者に過ぎなくなってしまう。そして、まさに、現実としては、教皇選挙の制度はそういうものとして機能した。

     それでもそういう教皇が「神の代理人」としての権威を持つとされたのは、多数意見には神の意思が宿ると考えられたからである。

     この考えかたは、何もカトリック教会組織に限ったものではない。

     イスラム教にも似た考えかたがある。イスラム教では、ごく少数の分派を除いて、預言者ムハンマド(マホメット)の後には預言者は現れないと考える。ムハンマドは預言者として選ばれた人間だから、神の意思を直接に人間界に伝えることができた。けれどもそれ以後の指導者にはそれができない。ムハンマドより後の指導者は預言者ではなく、普通の人間に過ぎない。普通の人間には神の意思はわからないからだ。

     そのため、神の意思を探るために、集会を開いて話し合いを行う。逆に言えば、その「話し合い」の結論は神の意思によって正当化される。人間界での合意形成で最終的に多数を制する考えかたには神の意思が反映しているという発想があったのだ。

     イスラム教は世界の主権者は神であると考えるから、人民主権の考えかたはイスラム教の教えに合致しない。近年、イスラム主義(必ずしもイスラム原理主義ではない)がさかんになってくると、人民主権の議会制に対抗するためのイスラム的議会のあり方として、このイスラム伝統の「話し合い」が見直される機運があるという。政治体系をイスラム教によって組織しているサウジアラビアの議会などはこのたてまえをとっているはずである。

     日本でも、「一揆」が起こると、その一揆の指導部では多数決が行われたという。

     一揆というのは、ただの秩序破壊的な争乱ではなかった。少なくともたてまえとしては、一揆を起こした側は、まちがっているのは世のなかのほうであって、自分たちは神や仏の定める秩序の側にいるという自負を持っていた。だから、自分たちの側には、神や仏の意思が宿ると考えていたのである。その神仏の意思は一揆参加者の多数意見に宿ると考えられていたらしい。そうやって一揆の指導部は多数決による意思決定を正当化していたのである。

     西洋のキリスト教の時代、日本の仏教の時代、イスラム圏のイスラム教の時代は、狭い地域を超えた広い範囲で共通の神や仏を信仰する時代であった。それぞれの共同体がそれぞれの神だけを祀っていた時代が終わり、その従来の神とさまざまな折り合いをつけながら、広い範囲で信仰される神を信仰する時代に移ったのである。それが「中世」であるということもできるかも知れない。

     中世は、西洋でも日本でもイスラム圏でも、広い領域を持つ帝国というあり方が崩れ、地方に権力が分立した時代だった。イタリアの都市国家もそういう状況の下で生まれた。帝国にかわって広い領域の共同性を担ったのは神(仏も含む)であり、宗教であった。

     古代の都市国家の共同意識だって、共通の神への信仰によって結ばれたものであった。けれども、それは、都市国家の領域に対応して、狭い範囲だけで信仰されたものだ。ソクラテスが処刑されたのは、その都市国家の祀る神以外のわけのわからない神霊的存在を崇拝していたからだとされる。都市国家の認めない神を祀るのは古代では罪悪だったのだ。もしかすると、ここでソクラテスが崇拝していたのは、やがて来るべき時代の「普遍的な神」だったのかも知れない。

     中世ではそれが変わってくる。一人ひとりの生活のすみずみにまでかかわる信仰が広い領域の人びとに共有された。ヨーロッパではキリスト教、中東ではイスラム教、日本では仏教である。それらの中世宗教は、その信仰を共有している広い領域の人たちのあいだに共同意識を生み出した。その力は、ローマ帝国の皇帝の「権威ある命令」などよりもずっと強く人びとを結びつけた。

     そういう中世の状況のなかで、神や仏の意思を探り出すための話し合いという制度が定着する。その中に、議会制や多数決や選挙を、神の意思の反映というかたちで正当化する考えが生まれ、定着してきたのである。

     

     近代民主主義の始まり

     キリスト教以前の都市国家の共同意識が生み出した民主主義と、キリスト教などの宗教と結びついて生まれた多数決や選挙制度とがやがて結びついていく。

     ルネサンスと宗教改革を経て、近代と呼ばれる時代に入ると、ヨーロッパでは自分たちの国の体制を古典の政治理論で説明することが行われるようになった。

     たとえば、イギリスでは、国王と議会が併存し、議会には、貴族を議員とする貴族院と、庶民から選ばれた議員で構成される庶民院(衆議院)とがある。古代ギリシアの政治体制の三分類は君主政治・貴族政治・民主政治であった。これをイギリスに当てはめて、国王が君主政治を担い、貴族院が貴族政治を担い、庶民院が民主政治を担うとする。そうすると、イギリスでは、ギリシアで行われていた政治体制のすべてが融合した政治が行われていることになる。古典の政治理論によると、君主政治・貴族政治・民主政治のそれぞれには固有の欠点があるとされる。それを融合させることで、その欠点を補い合うことができる。そういうかたちで同時のイギリスの政治体制を擁護する考えができた。この考えかたを混合政体論という。

     先に説明したように、古典古代の地中海世界では選挙制度は民主政治の制度ではないとされていたから、選挙によって議員を選ぶ庶民院(衆議院)は、古典古代の民主政治の担い手にはならないはずだ。しかし、そういう違いは無視して、古典の制度で現実の近代国家の制度を説明し、また、古典の理論で近代国家の制度を整備していこうという動きが生まれてきたのである。この段階で、選挙のある民主主義、つまり代議制民主主義も、民主主義の仲間として認められることになった。後から考えると、このあたりが近代民主主義の成立ということになる。

     この混合政体論では、民主主義は混合政体を構成する一つの要素として位置づけられている。だからといって民主主義が肯定されたわけではない。民主主義が単独で野放しになるのはやはり危険だと考えられていた。また、イギリスの庶民院の議員の社会的基盤は富裕な農村有力者層だったわけで、古典古代の地中海世界のように、共同体で共同意識を持つ全員が支配に参加したわけでもない。

     

     社会契約論とフランス革命の民主主義

     さらに、一七~一八世紀の西ヨーロッパには、現実の国家体制を正当化するのとは違った、より急進的な政治論が生まれてくる。その代表は社会契約論である。人間は自然に生まれたときから権利を持っていて、その人間たちが社会契約を結ぶことで国家を樹立するという考えである。それは、王権を神から由来するという理由で正当化しようとする絶対主義王権への対抗理論でもあった。

     社会契約論は単純な政治論ではない。人間の本来のあり方への考察がその基本にある。ホッブズは、人間の身体を一種の機械に見立て、それがどのように動くかを考察することから議論を始めている。ジャン・ジャック・ルソーは人間の自然なあり方はどんなものだったかという点から考察を始める。ルソーの場合、その思想の背景にはヨーロッパ以外の世界との接触があった。キリスト教が説く人間社会のあり方から離れて独自の理論をうち立てるためには、「人間とは何か」を独自に考えるところから考えを始めなければならなかったのだ。

     とくに後のヨーロッパの民主主義に大きな影響を与えたのはルソーの社会契約論である。ルソーは、都市国家の伝統を引き継いでいたジュネーブで暮らした経験があったためか、直接民主制を評価し、イギリスの代議制を認めていなかった。従って、ルソーの社会契約による国家の樹立には、国民の全員が直接に参加していなければならない。比較的、小さな領域の国家の樹立を構想していたようである。

     ただし、ルソーも、社会契約で成立した国家の政治を常に民主政治によって行うことができるかというと、それは不可能だと考えていた。社会契約による国家の樹立は国民全員が直接に合意して行うが、その具体的な政治はもっと少ない人数で行われる。また、一つの国家を形成する国民は、かんたんで強制的な要素の少ないものでいいとしながらも、一つの国民宗教(市民宗教)を共有していなければならないと考えていた。宗教による共同意識は必須のものだとルソーは考えていたのである。

     ルソーの考えは、一八世紀末に起こったフランス大革命のなかで現実に追求されることになる。フランス革命の一時期、ジャコバン党山岳派が権力を握って独裁を行い、反革命派への苛烈な弾圧を伴う「恐怖政治」(元来の「テロリズム」)を行った。その山岳派の首領であったロベスピエールがルソーの弟子である。

     フランス革命時代、パリなどの大都市の小商店主や町工場の工場主が国民衛兵という組織を作っていた。この国民衛兵が革命のために活躍する。ジャコバンなどの革命派内急進派の基盤になったのがこの国民衛兵だ。この国民衛兵の選出は、輪番制で行われ、国民衛兵選出の場となる街の寄合では小商店主や小工場主は平等に議論に参加する。これがフランス革命時代の民主主義である。都市の小商店主・小工場主が民主主義の担い手として登場したのだ。決して豊かではないが、ある程度の自前の財産を持っている都市住民層の成長が、その後の民主主義を支えていくことになる。

     ただし、このジャコバン独裁の恐怖政治などの印象から、ヨーロッパにはまたも「野放しになった民主主義は危険だ」という印象が広まってしまう。一九世紀の前半になっても、まだ民主主義はヨーロッパ社会全体からみれば危険思想であった。危険思想かどうかは別としても、ジャコバン独裁は、民主主義が独裁に結びつきやすいということをいきなり如実に示してしまった事件でもあった。

     それにしても、この時代の民主主義の支え手は、なぜある程度の自前の財産の持ち主だったのか。なぜ財産を持たない層は民主主義の支え手にならなかったのか。

     それは、やはり、この時期の民主主義は、参加者に財産的余裕がないと運営できないものだったからだ。

     コミックマーケットに参加している多くのサークルと同じように、民主主義を運用するためにはある程度の「持ち出し」を覚悟しなければならない。話し合いのために時間を作らなければいけない。その時間に仕事をしていれば上げられるはずの儲けを犠牲にしている。さらに、いま書いたように、場合によっては国民衛兵の一員として戦いに出なければならないこともある。そういう活動を支えるためには、やっぱりある程度の財産はなければならなかったのだ。

     これはじつは古典古代地中海世界の都市国家の民主主義でも同じである。都市国家の貧しい住民でも民主政治には参加できた。しかし、それは、都市の生産の基本部分を、国民としての権利がない奴隷が担っていたからである。古代地中海の都市国家では、いちばん貧しい国民であっても、ある程度の余裕はあった。あるいは、いちばん貧しい国民もある程度の余裕を持てるようにする体制が作られていたのだ。

     古代ローマのある段階では、貧しいローマ市民(都市国家ローマの国民)のために施しをするのが国家の役割とされていた。食いつづけることができるようにするというだけではなく、精神的な娯楽も提供しつづけなければならない。いわゆる「パンとサーカス」の提供である。国家機構は国民に「パンとサーカス」を与えつづける義務を負っていて、それを提供しないと国家は国民をないがしろにしたことになるのだ。その「パンとサーカス」のための資源を集める場が、都市国家ローマ以外の従属領土だった。帝国の国家機構(行政機構と軍隊)が属領で集めた財産と資源を、首都である都市国家ローマの国民のために際限なく注ぎこむしくみが、共和制と皇帝が共存していた時期のローマの国家体制の一面だった。

     

     原理主義国家として出発したアメリカ合衆国

     ヨーロッパの話をつづける前に、一八世紀に生まれた「民主主義」の大国であるアメリカ合衆国についても触れておこう。

     アメリカ合衆国はじつはヨーロッパの宗教改革の結果として生まれた国である。宗教改革がなくても、北アメリカにはヨーロッパ人の植民地はできていたかも知れないし、それはやがて独立したかも知れない。しかし、もし宗教改革がなければ、この北アメリカ植民地やそこから独立した国のあり方は、アメリカ合衆国とは大きく違っていたはずだ。

     そして、この宗教改革は、原理主義的な性格を持つものだった。

     ルネサンスと宗教改革が西ヨーロッパの近代を開いた。このルネサンスは、キリスト教以前の古典古代のあり方を復活させようという動きである。宗教改革は、カトリックの教会制度によって歪められた本来のキリスト教を復活させようという運動である。どちらも、失われた本来の姿を取り戻そうという原理主義である。西ヨーロッパの近代はまさに原理主義から始まったのである。

     宗教改革は旧来の支配体制であるカトリックに挑戦した。だから宗教改革によって生まれたプロテスタントはカトリックよりもより民主的だったかというと、じつはそうではない。たしかに、宗教改革者のマルティン・ルターは、すべての人は神の前で平等であり、どんな人でも聖書を読めば神とつながることができると主張した。その点では、それは民主的かも知れない。しかし、ルターは同時に人間の自由意思を否定した。人間は、神と直接につながる存在であるだけ、神に絶対的に服従しなければならないのである。神の強力な支配下にあるから人間は平等なのだ。このような発想はカルヴァンではより峻烈に現れることになる。

     このような宗教改革者のなかでもより急進的な一派だったのがイギリスのピューリタン(純粋派。ふつう「清教徒」と訳される)と呼ばれる人たちである。このピューリタンの急進派は、聖書のなかで予言されている最終戦争と千年王国がまもなく実現することを期待し、そのための準備を行っていた。千年王国というのは、神の支配が行われて、神を信ずる者たちが神の勝利のもとで平和に暮らす時代のことである。

     そのような教義をそのまま信じ、その教義に従って行動しようとした急進派信者たちは、当時のキリスト教世界の原理主義過激派と言っていいだろう。

     一七世紀にイギリス革命の機運が高まると、この急進派は、世界最終戦争を戦い、来るべき千年王国を樹立するための基地を探し求めた。その急進派が選んだ基地は北アメリカ大陸の大西洋岸であった。急進派の信者を中心とする移民団の子孫が後にイギリスから独立してアメリカ合衆国を作る。だから、アメリカ合衆国こそは、宗教改革時代のキリスト教原理主義過激派が、来るべき世界最終戦争のためにうち立てた神聖な基地であった。また、このキリスト教原理主義過激派によれば、アメリカ合衆国の地は、世界最終戦争の後に実現する千年王国の中心になるべき神聖な土地なのだ。

     このアメリカ合衆国の国の成り立ちとよく似た成り立ちかたをした国が、二〇世紀に一つできている。イスラエルである。二〇世紀初頭に、ヨーロッパでの迫害を逃れようとしたヨーロッパ系ユダヤ人たちは、自分たちの宗教にとっての神聖な地に移民し、そこに自分たちの理想国家を樹立するための運動をつづけた。その運動が結実して生まれたのがイスラエルである。アメリカ合衆国がイスラエルに親近感を持つのは、アメリカ合衆国の社会的指導層にユダヤ系が多いという事情もあるが、それ以上に、その「神聖国家」としての成り立ちに共感を感じるからではないかと思う。イスラエルが存在する正統性が否定されると、アメリカ合衆国の存在の正統性まで疑われるような感覚があるのかも知れない。

     

     世界で最初の「広い領域を支配する共和国」

     話を一八世紀に戻す。

     アメリカ合衆国は、イギリスの支配から独立した後、難しい問題に行き当たる。イギリス国王の支配を離れたとたんに、自分たちで国を作らなければならなくなったのだ。イギリスの植民地は一三に分かれていて、その一三植民地がそれぞれ一国家として独立したかたちになっている。さて、どうするか。「アメリカ連合諸国

    The United States of  America」の名称そのままに、ニューヨークとかペンシルバニアとかヴァージニアとかが実質的にも一つの国家として独立し、その独立国家の連合体にするのか、それとももっと強い中央政府を設置するのか。

     アメリカ合衆国(アメリカ連合諸国)を独立国の連合体にすれば、それぞれの独立国は、かなり広い領域を持つとはいえ、中心都市とその属領というかたちで、中世のイタリアの都市国家のようなかたちに近くなる。

     これに対して、アメリカ合衆国(アメリカ連合諸国)に強力な中央政府を置けば、これはいままで知られていない政治体制が出現することになる。アメリカ大陸の東海岸の広い範囲にわたる広大な領域を支配する共和制の国家など、それまで存在しなかったからだ。広い領域を持つ共和国としては共和制ローマがあったが、「都市国家ローマとその属領」という構成はアメリカでは適用できない。ローマの場合はローマが軍事的に他の地域を制圧したからできた構成なのだ。北アメリカ植民地はみんなでいっしょにイギリスと戦って独立したのだから、そういう構成はとれない。だから、一から新しく制度を作らなければならないのだ。

     実質的な諸国の連合体を目指す一派と、強力な中央政府を樹立しようとする一派が論戦を繰り広げる。けっきょく、強力な中央政府を樹立しようと運動していた一派が掲げた合衆国(連合諸国)憲法が採択され、強力な中央政府を持つ合衆国が成立した。

     この過程で、アメリカ合衆国の初期の政治家たちは、実に詳細な実践的な政治論を展開している。司法と政治の関係をどうするか、議会の編成をどうするかなど、実に実践的な側面から考察して議論を戦わせている。具体的にいますぐ国を作るわけだから、思想的にいくら正しくても、現実にすぐ制度として実践し、効果を上げることができなければ意味がない。アメリカ合衆国の初期の政治家たちは、この試練を乗り越えて、「広い領域を共和制で支配する」という西ヨーロッパの政治的伝統のなかではじめての試みを成功させることができた。

     こういう面をみると、アメリカ合衆国は実際的な理論を重んじる実践に長けた政治文化を持っている。奇妙なことに、その実際的・実践的な政治文化が、キリスト教原理主義過激派の文化と共存しているのである。アメリカ建国初期の政治家たち、いわゆる「建国の父たち」(つまり男ばっかりなのだ)自身にすでに実際的な政治論者と狂信的なまでに熱心なキリスト教信者という両面があった。

     アメリカ合衆国の人びとは、そうやって練り上げていった自分たちの政治体制や政治文化に絶大な自信を持っている。何しろ、借り物ではなく、自分で練り上げ、作り上げたものなのだ。

     そういう政治体制や政治文化は、初期にはそれでも「共和制であって民主主義ではない」などといわれた。しかし、一九世紀の半ばにさしかかると、それは「民主主義」と表現されるようになってくる。聖書に描かれた世界最終戦争への準備とか千年王国の実現とかいう目標がとりあえずは前景から退くにつれて、今度は、その民主主義を世界に宣教するのがアメリカ合衆国の役割であるという自負が生まれてくる。

     しかも、専制への抵抗という一般的理念を掲げて独立を達成し、一つの憲法体制への参加というかたちで連邦を結成したアメリカ合衆国の人びとには、アメリカ合衆国の外にある国の存在がとらえにくい。明確にアメリカ合衆国と他の国との境界線はあるのだが、その区別がつけにくいらしいのである。アメリカ合衆国自体が、「州」と訳される国家の連合体として成立している。アメリカ合衆国の国民の立場からみれば、アメリカ合衆国の外にある国であっても、アメリカ合衆国の掲げる一般的理念を受け入れ、アメリカ合衆国憲法の理念に賛同しなければならない。そうでない国が正当に存在することを認めれば、アメリカ合衆国という国家連合体を結成している原理が崩れてしまう。

     

     「多数の暴政」と「柔和な専制」の危険

     アメリカ合衆国は、一九世紀の前半、民主政治の国家としてはいちばん成功している国だった。ヨーロッパの大半の国は、スイスなどの小さい国を除けば君主制である。いったんは過激な共和制を実現していたフランスも、革命の動乱が落ちつくと王政に戻っている。

     そのフランスの貴族 アレクシス・ド・トックヴィルが、アメリカ合衆国を何度か訪問して、アメリカ合衆国の政治のあり方を観察した。そして、その結果を『アメリカの民主政治』という本にまとめた。

     トックヴィルは、貴族でもあり、「選挙権がほしければ金持ちになりたまえ」と演説したことで知られる首相ギゾーの友人でもあった。自由主義的な貴族とまでは言えても、民主主義者ではない。

     しかし、トックヴィルは同時に民主主義の時代が遅かれ早かれやってくるということを確信していた。社会は平等に向かって絶えず動いている。全国民が平等になってしまえば、その国での政治は平等を前提にした政治のやり方、つまり民主主義にならざるを得ない。ほんらいトックヴィルは民主主義が好きでない。けれども民主主義は受け入れざるを得ないのだという立場から、トックヴィルはアメリカ合衆国の民主主義を観察する。

     アメリカ合衆国の民主主義を実際に観察したトックヴィルは、その将来を基本的に明るく見ている。ただ、その民主主義に潜む問題も同時に指摘している。その問題の代表的なものが「多数の暴政」と「柔和な専制」である。

     「多数の暴政」とは、民主主義体制のもとで、多数を制した者たちが、その多数の正統性を振りかざして、少数者に対する抑圧など暴虐な政治を行う危険である。民主政治は「多数者の支配」としての本質を持つ。それは多数者によって暴君的な支配が行われる危険につながっている。多数者による暴君的支配は、一人の暴君による暴君的支配よりも始末が悪い。一人の暴君の暴政は、ともかくその一人の暴君を倒してしまえば終わるが、多数者による暴君的支配は、その多数者が考えを変えたり分裂したりしないかぎり、終わらない。

     「柔和な専制」は、逆に、行政権力が目立たないかたちで権力を握り、社会をコントロールしてしまうことを指す。社会が複雑になり、社会生活のさまざまな局面で調整が必要になると、民主政治では必ずしもそれをフォローしきれなくなる。そんなときに、行政官僚機構が、民主政治体制のかたちに隠れて社会の権力を握り、社会をコントロールしてしまう。

     トクヴィルは、生まれて一世紀も経たないアメリカ合衆国の民主主義を観察することで、広い領域を民主政治で支配するという体制の問題点を見抜いていたのである。

     

     マルクスの指摘

     同じころ、議会制民主主義の限界を見抜き、それが行政権力の専制に移って行かざるを得ないことを観察している哲学者がもう一人いた。社会主義者として知られるカール・マルクスである。

     マルクスが観察していたのは、トックヴィルの故国であるフランスである。一八四八年、フランスでは、トックヴィルの親友ギゾーの内閣が革命によって退陣に追いこまれ、新たな共和制国家が生まれていた。

     議会制の国家は、人民は選挙を通じて自分たちの代表を議会に送りこむ。それが代議士である。代議士は自分を議会に送りこんだ人たちの利害を代表して議会で活動する。それによって、国家は人民全体の意思や利害に沿って運営されるはずである。それが議会制国家のたてまえである。

     しかし、マルクスは、この共和制時代のフランスを例に、そのしくみはけっしてうまく運営できない構造的な欠点を持っていると論じた。

     議会に出てしまえば、議会内の諸勢力のあいだで意思や利害の調整が必要になる。現実の政治の過程では「悪いこと」と「より悪いこと」のあいだから「悪いこと」のほうを選択しなければならないことも多い。そういう活動を繰り返しているうちに、いつしか、代議士たちの活動は、代議士たちを議会に送りこんだ人たちの意思や利害からかけ離れてしまう。そうなって代議士が信頼を失い、議会が信頼を失えば、意思や利害の対立を抱えた国民の各層を国家につなぎ止めておくことができるのは行政官僚機構だけである。行政官僚機構は人民のなかの特定の集団に支持されることで権力を握っているのではない。だから、ある政策では人民の一部の利益を満足させ、別の政策では人民の別の一部の希望をかなえるという政策を行っても、べつに非難されない。ところが、代議士は自分を選んでくれた集団に支持されて政治権力を担っているのだから、別の集団の利益を叶えようとすると支持者を裏切ったことになり、このような臨機応変の対応ができなくなる。けっきょく、権力を握るのは行政官僚機構であり、それを統率する行政権力の長である。マルクスはそう論じて、このときのフランスの共和制が崩壊してナポレオン三世によるボナパルト王朝が復活したことを説明したのである。

     社会が民主的でないから議会制民主主義が崩壊したのではない。フランスの社会は、代議士を通じて自分たちの利害や意思を代表させるという民主主義のやり方に慣れていた。むしろだからこそ議会制民主主義は崩壊した。代議士を通じて利害や意思を代表するというしくみをまじめに行ったら、それを前提として成立していたはずの議会制民主主義が、それが負うべき負担に耐えられなくなってしまったのだというのがマルクスの議論である。

     

     議会制民主主義の不完全さ

     「多数の暴政」のほうは、古典古代から、民主主義が生み出しうる問題点として指摘されてきた「暴民の支配」や「衆愚政治」が、アメリカ合衆国の体制のもとで整備された近代民主主義の体制のもとでも起こりうることを示した論理だと言っていいだろう。しかし、古くから指摘されている問題だからといって、十分に解決されているわけではない。

     いわゆる「法の支配」が「多数の暴政」から国家と社会を守る防波堤になるだろう。「法の支配」とは、どんな権力者でも、法に従わない支配はしてはいけないという考えかただ。けれども、アメリカ合衆国の民主主義体制では、その法を作る権力も民主主義体制のなかに組みこまれている。司法権力さえ、民主的に選出される大統領によって連邦最高裁の裁判官が指名されるのだから、民主主義体制のなかに組みこまれている。

     古代の地中海世界の都市国家や近代初期のイギリスのばあいには、「法」は先祖伝来の伝統的なものとして権威を持っていた。だから「法」はあらゆる「暴政」に対する防波堤になり得た。「法」を打ち破ろうとする暴君は、その共同体が背負っている伝統意識とまず全面対決しなければならなかった。しかし、アメリカ合衆国の民主主義体制はその「法」を民主主義の支配下に置いたのである。「暴政」が「法の支配」の壁を乗り越えるのはそれまでよりかんたんになってしまった。そして、そのアメリカ合衆国の民主主義体制の考えかたが、やがて世界に広まり、「法」を伝統的権威から引き離して民主主義体制の支配下に置くようになってしまう。

     いっぽうの行政権力の専制の可能性は、多数の国民が政治に自分たちの利害や意思を反映させようとすることによって起こってきた新たな問題であった。多数の国民が自分たちの利害や意思を政治に反映させようとし、国家機構がそれに応えていくことが、近代民主主義体制の国民の共同意識を確保している。しかし、ほんとうに国民のみんなが「国家の政治機構(広い意味での政府)は必ず自分の利害や意思に応えてくれる」と期待したらどうなるか。国民の利害とか意思とかいうものは一枚岩ではなく、細かく分かれているというのに。代議制という不器用なしくみではそれに耐えられなくなる。そして、行政官僚組織が、民主政治の背後から、「柔和な専制」のように密かに、あるいはフランスのボナパルト王朝のようにおおっぴらに、権力を握ってしまう。そういう近代民主主義体制の問題点をトックヴィルとマルクスは指摘したのである。

     マルクスの社会主義は二〇世紀の社会主義体制の崩壊とともに崩壊したはずだと言われるかも知れない。しかし、このマルクスによるフランス政治の分析は、じつは今日の日本でも生きている。一八四八年以後のフランスと同じような事件が今日でも起こっているのだ。たとえば、今年(二〇〇二年)の長野県での「脱ダム宣言」をめぐる知事と県議会との対立がその事例にあたるのではないかと思う。といっても、私は長野県の実情を知らないから、具体的な事例に即したことは言わないことにしよう。かわりに、実態に即しているかどうかは別として、ごく図式的に説明しておきたい。一人の有権者が、「自然保護は大切だが、自分たちの住んでいる地域の雇用も大切である」と考えていたばあい、知事選挙では「自然を守るためにダムを造るのをやめよう」と言っている知事候補に投票し、議会選挙では「雇用を守るためにダム建設を推進する」と言っている議員候補に投票するかも知れない。一人の有権者でさえ、自分の希望のどこに重点を置いて投票するかで、まったく考えの違う人に投票してしまうことがあり得る。まして、複数の人びとや集団がいて、利害や意思・思惑が複雑に絡み合うときに、その利害や意思の調整が代議制によって十分に行うことができるのか。とてもその役割を代議制は果たしきれないのではないか。マルクスが問題にしたことは、今日でも解決されず、悲劇だか喜劇だか知らないけれど、あいかわらず繰り返している。

     逆に言えば、近代民主主義国家で議会制民主主義がうまくいっているということは、国民が議会制民主主義にいくらかのあきらめを持っていることを示している。そう言うこともできるかも知れない。自分の選んだ代議士や、自分が投票した政党が、ある程度は自分たちの利害や意思を「代表」してくれなくても、まあそれはしかたがない。そういうあきらめがあるからこそ、近代民主主義は機能している。それでも国民が不満を爆発させないで生きていられるのは、行政官僚機構が議会制では代表しきれない部分で人びとの生活を満足させているからである。

     代議制の機能の限界についてあきらめを持ち、行政官僚機構によるある程度の「柔和な専制」を受け入れることで、じつは私たちの近代民主主義は機能している。もしかすると、それが私たちの民主主義のほんとうのあり方なのかも知れない。

     

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  3. shinichi Post author

     戦争と民主主義

     二〇世紀にはいると、近代民主主義は戦争と結びついてさらに複雑怪奇な発展を遂げることになる。

     戦争と民主主義のつながりは、古代地中海世界の民主主義の時代からずっとつづいてきた。大きな戦争になると、一部の貴族が従者を引き連れて戦いに出るだけではとても間に合わない。一般国民にも大きな負担が求められる。戦争が終わると、その戦争での功績の見返りに、貴族ではない一般国民が政治への参加を強く求める。それで民主主義は発展する。古代のアテネに民主主義体制が成立したのは、アテネが東方の強国

    ペルシア帝国との戦いの中心を担ったからだ。

     だが、そのアテネでいったん民主主義体制が成立してしまうと、今度は民主主義体制が戦争を長引かせるという事態が起こる。前線で軍事的に劣勢であっても、一般国民は屈辱的な和平よりは、戦争継続による事態の打開を希望する。まさに、戦線から遠ざかると楽観主義が現実にとってかわるのだ。そして、古代アテネでも、戦争に負けているときにとくにそうだった。スパルタとの長い戦争で負けがこんでいるのに、国内では一発逆転を主張する民衆政治家たちが人気を集めて権力を握った。それで無謀な遠征を行い、さらに負けがこんでしまう。それでも、国内では、やはり一発逆転を主張する別の民衆政治家が人気を集めて権力に握る。アテネの国がぼろぼろになって崩壊するまで、アテネは戦争をやめることができなかった。

     戦争は民主主義を生み出すことがある。同時に、民主主義は、戦争を防止することもあるが、ときとして戦争を煽ることもある。そんなことをこの古代アテネの例は私たちに伝えている。

     さて、一九世紀のヨーロッパでは、戦争は政治全般からいちおう切り離され、国家が行うことの一つの分野として位置づけられていた。国民どうしの対立の結果というよりは、外交交渉がうまくいかなかったときの紛争解決の手段というぐらいの位置づけだった。

     そのたてまえが崩れたのが一八七〇~七一年に起こったプロイセンとフランスの戦争である。この戦争に勝ったプロイセンの国王は、フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した。しかし、いっぽうのフランスは、皇帝であるナポレオン三世がプロイセンに降伏してからも、パリその他の各地で、フランス国民が主体になって戦争をつづけた。戦争とは国王のためではなく国民共同体のために戦うべきものだという理想はフランス革命の革命戦争のなかで生まれた。しかし、その後のヨーロッパの戦争では、戦争の主体は軍隊であって国民共同体全体ではなかった。それが、このプロイセン‐フランス戦争では、自分たちの国土や郷里を守るために国民が自ら主体的に戦ったのである。

     戦争は国民全体を巻きこんでしまう。その後のヨーロッパでは、だから、戦争は起こしてはならないものであり、また、大国間の戦争はまず起こらないものと考えられるようになった。

     もちろんそれは「大国間の」戦争は起こらないということである。戦争が起こらない状態のまま、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、オーストリア、ロシアといった列強諸国は世界に支配領域を広げつつあった。いわゆる帝国主義の時代である。バルカン半島が、アフリカが、中東が、インドが、アフガニスタンが、インドシナ半島が、スマトラ島のアチェーが、次々にヨーロッパの大国の軍事的優勢の下でその支配下に入り、あるいはヨーロッパ列強の争いの地になっていった。

     そして、ヨーロッパの辺境に過ぎなかったボスニア‐ヘルツェゴヴィナのサラエボでのオーストリア皇太子狙撃事件が、起こらないことになっていたはずの大国間の戦争の引き金を引いてしまう。第一次世界大戦である。

     

     第一次世界大戦

     第一次世界大戦はそれまでにない悲惨な戦争だった。第二次世界大戦と核兵器の実用を知ってしまっている私たちから見ればたいしたことはないのかも知れない。しかし、三年にわたって決着がつかず、戦線が膠着して同じ戦場で大量の敵味方の兵士の命が失われ、大量の物資と資金を費やしてもなお戦況を決定的に打開できない戦争は、その時代の人びとにとっては悪夢であった。毒ガスや航空攻撃もこの戦争で実用されている。

     その結果として、第一次世界大戦は国民共同体の総力戦になった。多くの男性が兵士として徴用され、その男性の抜けたことで低下した生産力を女性が補う。それだけではない。経済力や抗戦意欲を支える精神力を含む国民のすべてが動員された。まさに「総動員」の戦いである。そして、その結果、アメリカ合衆国やイギリスやフランスなどの民主的政治体制が確立していた国ぐにが勝ち、民主的政治体制の発達が不十分だったドイツは敗れた。

     この戦争は、二つの意味で民主主義の世界的躍進をもたらした。

     第一に、この戦争が、「民主主義」が「軍国主義」や「独裁」に勝った戦争だと考えられたからである。民主主義を守るためにアメリカ合衆国やイギリスやフランスは戦ったのだ。民主主義の正しさは、戦争に勝つことによって証明された。だから、戦後の世界は民主主義のものになるべきである。そういう考えかたである。

     第二に、次に同じような戦争が起こったばあい、なんらかの点で民主主義的な体制でなければ戦争に勝てないという考えがあった。

     第一次世界大戦のような総力戦、それも、経済力や精神力まで含めた国民の総力を賭けた戦いでは、国民の総力をどこまで引き出せるかが勝敗を分ける鍵になる。そのためには、国民に、自分の国の政治体制を「自分たちのもの」と思わせなければならない。その思いこみが強ければ強いほど、総力戦では国民の力が戦争のために発揮される。

     「国が負けても自分たちがいい生活ができたほうがいいや」なんて国民が思ってしまうようならば、第一次大戦の最終局面で追いつめられた後のドイツ帝国のように崩壊して負けてしまう。「国が負ければ、自分たちの生活もおしまいになるんだ」という感覚を国民が持っていないと戦争には勝てない。そのためには自分の国を「自分たちのもの」と国民に思わせることが必要である。そして、そのためには、国民が自分の国に自分の利害を反映させ、自分の意思を自分の国に的確に伝えることのできる体制を作るのがいちばんよい。そのためには民主主義体制の実現が必要だ。

     そのため、イギリスでも日本でも、また敗戦国のドイツでも、第一次大戦後には民主主義体制の発展が見られた。二〇世紀には、大殺戮戦争が私たちの世界に民主主義をもたらしたのである。

     しかし、国民共同体を守るために国民の力を結集するのに、必ずしも民主主義体制に頼る必要はない。というより、ふつうの民主主義体制で国民の力を結集しきれなかったとき、政治体制は民主主義を乗り越えてさらに先の国民総動員のための体制へと進んでしまう。そういうものとして出現したのがイタリアのファシズムやドイツの国民社会主義体制(ナチズム)である。また、同じ時期に出現したソ連のボルシェヴィキ社会主義体制もそういう体制の一つとして理解することもできる。

     

     ソ連の社会主義

     ソ連の社会主義は、二〇世紀の世界の社会主義に大きな影響を与えることになる。それは、マルクスが指摘した議会制民主主義の不完全さを乗り越える試みとして始められた。

     先に書いたように、一九世紀の民主主義は、ある程度の財産を持った人たちの政治運動だった。では、その程度の財産も持てない人はどうすればいいのか。そのような「財産を持たない者」が社会の主導権を握るための論理が社会主義であった。社会主義は、労働者や貧しい農民などの「財産を持たない者」にこそ世界を変革することが可能であり、また、これらの「財産を持たない者」に世界を変革する使命があると位置づけた。

     そのためにはどうすればいいか。一つの考えかたは、議会に「財産を持たない者」たちの代表が進出して、議会を拠点にして「財産を持たない者」を中心とする社会への変革を進めていけばいいというものだ。

     ただし、この考えかたが成立するためには、議会制の不完全さという問題をひとまず考えからはずすとしても、いくつかの条件がある。まず、議会が「財産を持たない者」たちに門戸を開いていなければならない。いま開いていなくても構わないが、少なくとも、ある程度の運動を行えばその門戸を開くことができる状況にないといけない。同時に、その議会が政治を動かし、社会を変えるだけの力を持っていなくてはいけない。

     二〇世紀初めのロシアではそのどちらも望めなかった。そこで、ロシアの革命家

    レーニンは、民衆が飢えに苦しんでいるときにスイスでサイクリングを楽しみつつ、その状況を克服する方法を考えていた。そうして考えついたのが、前衛政党による暴力革命という方法だった。

     一部の自覚的な者たちが、前衛としての使命感を持って実力で革命を起こすのである。

     そのためには「鉄の規律」が必要だった。政権側が全力で対決してきたばあい、前衛の力がバラバラでは負けてしまう。前衛が一糸乱れぬ行動で政権の圧力を突破してこそ、革命は成就する。そのためにはときには自らの身を犠牲にすることも必要となる。自ら進んで規律に身を委ね、命令に絶対服従し、自分の身を犠牲にすることも厭わない。それが革命の戦士としての前衛の構成員に求められる資質だった。

     このような考えかたは、実際にロシアで革命が起こった後の戦争の危機のなかで、ソ連国家の体制のなかに組みこまれていくことになる。

     実際、革命後のロシアは危機的な状況にあった。国内には反革命軍が各地で戦いを挑んできていたし、西からは新たに独立したポーランドの軍が押し寄せ、東ではシベリアで干渉戦争が始まっていた。ドイツでロシアと同じような革命が起こるという展望も失われ、革命後のソビエト政権は危機的な立場に立たされていたのである。

     やがてソビエト連邦を結成した旧ロシア帝国諸地域(バルト三国は入っていない)の人びとは、しかし、ソビエト連邦の単位での共同意識を持っていたわけではなかった。ソ連共産党のいう労働者や農民としての階級的な一体意識すら持っていたかどうかあやしいものである。それを一体にまとめておかないと国家は崩壊の危機に瀕する。しかも、東からは日本が、南からはインドやペルシアやアフガニスタンを経てイギリスが、西からはポーランドやその向こうのドイツが、ソ連の国境を狙っている。その軍事的脅威に対抗するためにも、ソ連国内の人びとの共同性と一体性を確保しておかなければならない。

     そこでソ連は「前衛」であったソ連共産党による独裁制度を仕上げる。民主主義体制で国民の共同意識や一体意識を育成している余裕がないから、いわば、その民主主義体制の代替品として共産党独裁の制度を仕上げ、それを民主主義より進んだ社会主義の制度であると宣伝した。近代民主主義が機能しないとき、また、近代民主主義を機能させている余裕のないとき、独裁が民主主義のとってかわる。それを示したのがソ連の社会主義だった。

     

     ドイツの国民社会主義

     第一次世界大戦後のドイツは、もしかすると戦後日本以上に民主的な体制を持っていた。いわゆるワイマール共和国の時代である。ドイツの軍備は徹底的に制限された。ドイツの民主主義は、この時点で、軍事や戦争との関連を遮断された。そういう民主主義だったのである。

     しかし、この民主主義体制は、一九三〇年代前半の危機のなかで、何の役にも立たなくなってしまった。黄金の一九二〇年代といわれるバブルの時代を経て世界の経済の中心の地位を確立しつつあったアメリカで、一九二九年、経済大恐慌が勃発した。この経済恐慌のために、ドイツへのアメリカ合衆国の資金の流れがとつぜん停まってしまった。第一次世界大戦で荒れ果てたドイツは、アメリカ合衆国の資金にとってよい投資先・融資先だったのである。経済大恐慌でその流れが止まってしまった。ドイツ経済は、震源地のアメリカ合衆国以上の破滅的な打撃を受ける。

     この状況を受けて、ワイマール共和国の民主主義体制は何の役にも立たなくなってしまった。経済大恐慌のおかげで政治が解決しなければならない問題は山積している。しかし、経済大恐慌のおかげで政党間の対立が激化し、議会では多数派が形成できなくなってしまった。何も決められない。首相さえ選出できない。大統領が首相を指名することで一時しのぎをする。それでせいいっぱいだ。

     民主主義体制では「多数の暴政」は大きな問題である。しかし、議会で多数派が形成できないと、今度は政治全体が動かなくなり、やはり問題である。しかも、多数の暴政と同じように、多数派が形成できないという事態も、議会自身では解決する方法を持たない。危機が迫れば、各政党は自分の守らなければならない利益にしがみついて、絶対に手放そうとしなくなる。だから政党間の妥協ができなくなり、たとえ一時的なものであっても多数派が形成できなくなる。危機が迫って政治の迅速な対応が求められるのに、多数派が形成できない議会は何の役にも立たなくなってしまう。

     「内気な画学生」出身の党首が率いる国民社会主義ドイツ労働者党(通称「ナチス」)が国家権力を掌握したのは、このような情勢下でである。しかも、ドイツ国民は、この国民社会主義政党への全権委任を投票によって圧倒的多数で支持したのだ。いやいや支持したわけではない。「さしあたってほかに選択肢がない」という切迫した状況はあったとはいえ、自ら国民社会主義政党の独裁を選んだのである。

     国民社会主義政権は、共産主義者と並んでユダヤ人を「敵」と名指しすることで、ドイツ国民の一体意識の向上を図った。国民を国民社会主義秩序のもとで組織した。その組織は、教育や文化活動はもとより、国民の余暇まで国民社会主義の指導下に組織するまでに徹底していた。

     独裁政党が組織することによって国民の共同意識・一体意識を半ば強制的に育成していく。その独裁政党を国民も支持する。そして、不利な状況で戦争を戦っても勝てる国民共同体を育成していく。国民社会主義の独裁も、戦争に勝てるための民主主義の代替品であった。その独裁政党の支配が、少なくとも戦争が不利に展開するまでは、国民に支持されていたことを考えると、一九三〇年代のドイツに起こったことは、戦争と切り離されたワイマール共和国の民主主義から、戦争するための民主主義の別のかたちへの転変だったと言えなくもない。

     近代民主主義の時代には、ふだんは民主主義と独裁は相いれないもののような顔をしている。しかし、危機が昂進すると、民主主義と独裁は急速に親和性を増す。上から下への命令や強制が、危機の名の下に正当化されてしまう。そして、危機の時代には、民主主義はそれを喜んで受け入れるのである。

     

     「民主主義は最悪の政治体制だ」

     第二次世界大戦で国民社会主義やファシズムの支配は破れた。ソ連社会主義はかえって第二次大戦で勢いを増し、生き残った。しかし、軍事的な劣勢と、社会主義体制転覆の恐怖にコンプレックスを抱き、ソ連から少しでも離れようとする国があれば戦車と軍隊を繰り出して乗りこむという軍事優先のアプローチを繰り返した。ハンガリーやチェコスロバキア(当時)ではいちおううまくいった。しかし、一九七〇年代末に介入したアフガニスタンでは、アメリカ合衆国と結んだイスラムの「聖戦士」(ムジャヒディン)たちという難敵に遭遇し、けっきょくそれがソ連にとって命取りになってしまう。

     このアフガニスタンでのイスラム聖戦士たちの戦いが始まる前年には、やはりイスラム主義を掲げたホメイニを中心とする革命がアフガニスタンの隣国イランで始まっている。同じころ、アラブの指導者を自任し、イスラエルとの歴史的な和平を達成したエジプトのサダト大統領がイスラム組織によって暗殺されている。イスラム世界で、イスラムを原理とした近代民主主義世界との戦いが始まりつつあった。しかし、アメリカ合衆国も、日本を含むその諸同盟国も、その意味をまったく掴みそこねていた。革命イランに隣国イラクが攻めこむと、アメリカ合衆国はそのイラクの独裁者サダム・フセインを支持しさえした。しかも、そのいっぽうで、アメリカ合衆国は、イランに武器をひそかに売却し、その資金を中央アメリカの共産ゲリラ制圧に使おうとしたりした。イスラム世界を、自分の都合によってどうにでも動かせる相手としか認識していなかったのだ。一九八〇年代のアメリカ合衆国は、イスラム文明に、アメリカ合衆国の文明と「衝突」する資格すら認めていなかったのである。

     そんな後日談はあるものの、アフガニスタン戦争で体力を使い果たしたソ連は自壊した。ソ連社会主義も姿を消した。同じ体制をとっているのは中国とベトナムとキューバと北朝鮮だけだが、中国とベトナムは実質的に資本主義化し、残るはキューバと北朝鮮だけだ。その両国も経済的な窮地に追いつめられている。

     議会制の近代民主主義、いわゆる自由民主主義が勝利した。これで「歴史」は終わったという議論さえアメリカ合衆国ではもてはやされた。

     だが、ここまで見てきたように、近代民主主義は本質的にさまざまな問題点や危険さを抱えている。「多数の暴政」の危険、同じことだが「法の支配」を打ち破って暴虐な恣意的支配を実現してしまう可能性、ところが逆に多数派が形成されないばあいには機能を停止してしまうという問題、近代民主主義が担いうる問題解決能力の限界、その限界を補充するかたちで忍びよる行政官僚機構による専制の危険、危機が迫れば独裁に急に接近するという気まぐれさ、戦争との関係、ある程度の余裕がないと人びとは民主主義を支えていられないという問題、また、反対に人びとは民主主義のあかしとして政権から「パンとサーカス」の施しを期待してしまうという問題――これらの問題は、原始的民主主義の段階から近代民主主義の段階へと進むにつれて次々に湧き出てきた問題である。しかもどれ一つとして解決されていない!

     問題が顕在化しないから、問題がなくなったようなふりをしているだけで、現実に問題が現れてきたときには絶対に有効な対処法を私たちが持っているわけではないのだ。

     このような実態を見ると、第二次世界大戦をイギリスの首相として指導したチャーチルが「民主主義は最悪の政治体制である」と言ったのも理解できる。しかし、同時に、「ただし、それはほかのすべての政治体制を除いて最悪なのだ」と言ったことばも、私は認めなければならないと思う。つまり、私たちが民主主義を選択しているのは、「最悪のもの」と「最悪より悪いもの」の選択の結果なのだ。

     民主主義がそれだけ「最悪」でも現在の政治体制として最適だと考えるのは、それが現在の世界の人びとの「共同意識」に比較的よく一致しているからである。いや、よく一致していないかも知れないが、それ以上に一致させることのできる政治体制がないから、「最悪より悪いものよりはましな最悪」として受容しなければならないのだ。

     これまでの人間の共同意識と民主主義との関係を見ると、その二つの関係だけで民主主義が安定していたことはあまりないということが言えるのではないか。古代地中海世界の民主主義は、その共同体の神によって担われた共同意識と一体だった。中世に多数決や選挙を正当化するための機構としても、古代の神とは性格の違う神が存在した。近代に入ると、その正当化の役割は、アメリカ(合衆国)の使命とか、戦争に負けないためとかいうものに変わった。いずれにしても、外から共同意識を保つための養分を補給していないと、民主主義や民主的慣行だけで民主主義はなかなか安定的に存在することはできないようである。そうでなければ、「民主主義政治にできるのはこの程度のことだ」というあきらめを最初から持って接するか、であるが、そうするといつの間にか私たちは行政官僚機構の専制を許してしまうことになるかも知れない。

     私たちの時代に民主主義を生き残らせていくのはけっこう困難なことなのである。

     そういうもの言いに対して出される答えの一つは「その困難のなかで民主主義を生き残らせ、発展させること自体が民主主義の営みなのだ」という回答である。だが、そういう元気のよい意思の働きを前提にする考えかたに対して、民主主義自体はあらかじめ落とし穴を用意している。「パンとサーカス」である。民主主義によって「パンとサーカス」を与えられた人びとは、よほど自覚的な意思を持っていないかぎり、民主主義を支えるために自分から動こうとはしなくなる。では、「パンとサーカス」が失われそうな危機になったら民主主義を支持してくれるのではないか。その可能性もある。しかし、危機の下では、民主主義は独裁に接近する。「パンとサーカス」喪失の危機感におびえる人たちは、民主主義ではなく、独裁のほうを支持してしまうかも知れない。それも、民主的に。

     けっきょく、私たちの時代に民主主義を生き残らせていくのはけっこう困難なことなのである、と繰り返しておくしかないようだ。

     

     押井作品と民主主義

     民主主義論に紙幅を使いすぎた。ほんとうにこれが「押井学会」に載っていい文章なのかどうか、私にはわからない。というより、この文章がめでたく「押井学会」に載っていれば、載っていてもいい文章だと編集担当者が判断したということだから、それはそれでいいのかも知れない。

     ……無責任な寄稿者である……。

     ということで、当初の意図と異なり、「最後に」と断りを入れた上で、押井作品と民主主義の関係について、これも当初の意図と異なり、「少しだけ」触れておきたい。

     最初に、例によって、押井守の作品をひとまとめにして「押井作品」として扱えるかという問題を片づけておきたい。

     私は、少なくとも『ビューティフル・ドリーマー』以降の押井作品は一体として考えることができると考えている。

     『ビューティフル・ドリーマー』以降の作品で、押井守は確かにさまざまな「新しさ」を出している。もともと一作ごとに何か飛躍的な「新しさ」がなければ新しく映画を作ることができないと考えている作者である。とくに、情報処理技術の飛躍的向上とともに、劇場版『機動警察パトレイバー2』‐『攻殻機動隊』‐『アヴァロン』のあいだには、一目見てわかるほど、映像面で質的な飛躍がある。

     それにもかかわらず、私は、『ビューティフル・ドリーマー』以後の作品を一体のものとして考えたい。それは、私が、これらの作品で押井守が世界を見つめる視線に連続性を感じるからである。「押井学会」の参加者各位には、むしろ『ビューティフル・ドリーマー』以降に限っても作品に質的な違いや発展があると考えておられる方が多いだろうと思う。私も何も変わっていないとは思わない。しかし、私には、やっぱり連続性のほうが気になるのである。

     言ってしまえばこんなのは幻想である。映画監督である。コンテ切ってるあいだに気分も変わるだろうし、原画見てアフレコして撮影してと作業を進め、途中の段階で雑誌とかからインタビューを受けたりしていくうちに、作品に対する考えかたも変わってくるかも知れない。『Talking

    Head』に描かれたような場でアニメや映画を作っているのだ。いろんなことを考える。作業しているあいだに作品やキャラクターを好きになったり嫌いになったりするだろう。そんな場を乗り越えてきた監督が、一つの作品に対する思想とか考えかたをきちんと順序立てて整理してして語ることができたらたぶん嘘じゃないだろうかとさえ私は思う。だから、「世界を見つめる視線の連続性」ったって、映画監督には「世界」なんか見てる暇なんかとてもないよと言われれば、おしまいと言われればおしまいだ。あとは私の思いこみである。そして、評論なんてその思いこみの部分で成り立っているというのが私の居直りである。

     

     現場の感覚

     押井守作品によく出てくるのが「現場」の感覚である。

     何かに向けてみんなで作業している。『ビューティフル・ドリーマー』では学園祭の準備、『パトレイバー』のシリーズではレイバー隊の仕事、『Talking

    Head』ではもちろんアニメの制作現場である。これらの「現場」では、そこにいるキャラクターたちは何かの目標のために自分を「投企」しているわけで、そういう場として押井作品の現場は描かれている。

     『迷宮物件』は、何をやっているのかはなかなかわからないが、神様が何かをやっている現場とも、探偵の現場とも、売れない作家の執筆現場とも解釈できる。何が行われているのかはあいまいなままに、何かが行われている。

     逆にそのことを取っかかりに見直してみよう。すると、現場を描きながら、そこで何が行われているかがじつはわからないというのが、押井守作品の一つの特徴かも知れないという思いに私はとらわれる。

     劇場版『パトレイバー』(一作め)では、一見、みんなで「帆場の犯罪」というのを阻止しようとしている。そういう現場に見える。ところが、それはまさに帆場の計画の上に載って、帆場の意思を実現するために動いているのかも知れない。そういう姿が後になって判明する。同じく劇場版『パトレイバー2』では、柘植の犯罪を阻止しようとして動く警察組織や自衛隊組織は、かえって柘植の意図した方向へと事態を悪化させていく。後藤隊長がそのことに気づいていたとしても、第二小隊も、少なくともある段階までは、その柘植の意図に沿って動いていかざるを得ない。いや、第二小隊が独断で埋め立て地に突入することまで、柘植の計画に入っていたのかも知れない。

     そう言われれば、『ビューティフル・ドリーマー』の登場人物たちは何のために学園祭の準備を延々と続けているのだろうか。『Stray

    Dog』(『ケルベロス地獄の番犬』)の乾は最後に何のために戦うのか。

     「現場にいる」という意識は常にある。そこで具体的に何をやっているかということも、立ち食いそばを啜っているところまで含めてはっきり描かれている。「現場」というものがある以上、その現場でやらなければならないことは何かあるのだろう。

     しかし、その何かとは何かということを探りはじめると、じつはその答えが急にあいまいになる。まして何のためにということを問うと、じつは現場の人間はだれもわかってはいない。押井作品にはそういう「現場」の姿がくり返し描かれている。よく使われる表現でいえば、「犬」としてのキャラクターたちの姿である。

     

     徹底した孤立

     その「現場」をはいずり回る人びとは、自分を動かす者の存在を求める。

     それは、とりあえずは二つの意味でである。一つは、自分の行動を決めるためである。その現場で何が動いているか、何のために動いているかがわかっていない以上、その行動を決めるためには命令が必要だ。もう一つは、自分を動かしている者が何者かを知りたいという欲求や衝動を満たすためである。

     しかし、この二つは、けっきょく、現場にいることの不安という同じ動機から出ている。

     現場は絶対的な命令者がいなければ片時も動かない。何のために何をやっているのか、現場では把握できないからだ。だから、現場の人間は絶対的な命令者を求める。しかし、同時に、現場では、その絶対的な命令者が、何をやらせたくてその現場を維持しているのか、何のためにその現場で人間を働かせているのか、知ることはできない。じつは自分たちが考えているのとはまったく違ったことをやらされているのかも知れないし、自分たちの考えているのとはまったく違った目的で仕事させられているのかも知れない。いきなり現場を切り捨て、自分を見捨ててしまうかも知れない。そういった不信感もある。その不信感を少しでも打ち消すためにも、現場の人間は、多少の恨みを持って絶対的な命令者の姿を追い求める。そこにはいつも「永遠のアンビバレント」があるわけだ。

     では、絶対的な命令者、つまり神、犬から見れば飼い主を、現場の人間が追い求めたとして、その姿を見出すことはできるだろうか。

     それに対する押井作品の回答はどうも「否」であるように思える。

     確かに「神」らしい者は見つかるのだ。第二小隊ならばたとえば後藤隊長である。この後藤隊長も絶対的な命令者としてはなかなかたちの悪い性格をしている。「おれは強制や命令は嫌い」と公言しながら、隊員を自分の思うように動かしていく。

     ところが後藤は神ではない。後藤自身、帆場の計画を動かすための現場の人間に過ぎない。では帆場は神かというと、神の名がまちがって伝えられた「エホバ」という名まえにこだわりを示す。このことをどう解釈するべきか、正直言って、鈍い私には確たる答えが出ない。帆場自身、あれだけ自在にものごとを運んでおきながら、自分が究極的な「神」ではない可能性を自覚していたと私は感じている。

     どこにも究極の絶対的命令者は存在しない。いたとしても現場の人間には感知することができない。探して見つかるのは「にせの神」ばかりである。だから、現場の人間は、絶対的な命令者がいないという不安からいつまでも自由になれない。だからといって、絶対的命令者を求めることもやめることができない。

     現場を離れて神を求めて見つかるのは、けっきょく自分が思った以上に自由に動いているわけではないという事実だけである。自分がこれまで現場で自由意思だと思っていたものは、何者かに仕組まれ、そういう意思を持つように仕向けられたものにすぎなかった。けれども、その仕組んでいる何者かも、まただれかに仕組まれているのかも知れない。神を求めるたびに、「にせの神」という触媒を通じて、自由意思の虚構がはがれ落ちていく。

     押井作品では、その現場を超えた共同意識のようなものが描かれることがあまりない。ケルベロス隊も第二小隊も、組織のなかで孤立している。四方田家も社会のなかで孤立した犯罪者集団に堕してしまう。いや、最初に手抜き工事のマンションの一室に住んでいたときから、四方田家は社会から孤立した存在だったのだ。

     そればかりでない。現場のなかで共同作業をしている者どうしですら、ほんとうに共同意識を持っているとは限らない。まったく別のことを考えているのかも知れない。草薙とバトーのように。それどころか、互いにだまし合い、利用しあっているだけなのかも知れない。後藤と荒川のように。だからといって、現場から離れてしまうことができるわけでもない。四方田家は、麿子が家庭に悪意を持って入りこんだ犯罪者である可能性を抱いたまま、行動を共にしつづける。

     押井作品は共同意識や共同性の幻想性をも私たちに突きつけてくる。

     しかも、現場から離脱することはできないのだ。草薙はサイボーグとしての自分の限界に直面しても組織を抜けることができない。いったんはばらばらになっていた第二小隊も、最後には集結して「最後の出撃」へと行動を共にする。第二小隊のばあいはそうでもないかも知れないが、けっきょく、十分な共同意識を持てないままでも、その現場にいつづけなければいけない。そういう宿命を押井作品の人物は負っているように思える。

     押井作品の人間は、現場から上を見上げても「にせの神」しか見出すことができず、現場で隣を見ても何を考えているかわからない同僚や同志が見つかるだけだ。押井作品の人間は徹底して孤立しているのである。

     むしろ、押井作品は、人間が「自分は孤立している」と認識したときに、安らかな表情を私たちに見せてくれる。夕暮れ、自分の家に向かうアッシュの場面は、画面全体に安らいだ空気が満ちている。『ビューティフル・ドリーマー』でだって、友引町が孤立して宇宙を飛んでいることに気づいてからのほうが、みんな楽しそうである。「じつにかわいくない」面堂一人を除いて、だが。

     人間は、孤立を感じ、それを受け入れたときにむしろ安らかになれる。現場での自分の位置などということを気にし始めたら、不断の不安に襲われつづけることになる。それが押井作品が伝えてくれる人間観のように私には感じられる。

     

     仮想の特殊性

     人間には、あるいは人間が生きている場所には、何かの特殊性があるのだろうか。それは「個性」と言ってもいい。

     そういう一人ひとりが特殊性を持った個人が共同意識を持つことで、私たちの共同社会は成り立っている。しかし、一人ひとりに特殊性はあるのだろうか。

     押井作品では、その一人ひとりの特殊性がじつは幻想に過ぎないのではないかという不安が何度も描かれる。人間は夢のなかで仮の生命を与えられた人形ではないのか、工業的に作られたボディに電脳が作りだした何かが載っているだけではないのか。人形やボディはだれとでも入れ替え可能である。では、入れ替え不能な特殊な「自分」は、果たして存在するのか。存在するとして、それはどの程度まで確かなのか。その不安がくり返し描かれる。

     『ビューティフル・ドリーマー』や『アヴァロン』では、場所の特殊性すら確かさを剥奪される。みんながどんちゃん騒ぎを繰り返している場所はじつは夢邪鬼が作りだした夢のなかの場所かも知れない。また、生きるか死ぬかの危険な戦場は「アヴァロン」というゲームシステムが作り出した仮想の場所である。作りようによってどんな風にも作れるし、また、いつどこでどんな風にその場所が崩壊してしまうかもわからない。

     それでも、夢なら夢、仮想空間なら仮想空間で生きることに、人間は意味を見出してしまうのである。そして、自分のいる場所がどういう場所なのか、なぜその場所ができたのかを探らずにはいられない。たとえ、それを探ることによって、その場自体が崩壊してしまう危険があるにしてもである。

     人間一人ひとりの特殊性とか、人間がいる場所の特殊性とか、そういうものは実に薄弱なものである。しかし、人間はその薄弱な特殊性を追い求めていなければ、人間は存在していられない。

     孤立の意識が安らかな思いをもたらしてくれるのは、他と比較するきっかけがなければ、自分は他の同じような人間と入れ替え可能なのではないかという疑念を抱かずにすむからなのかも知れない。けれども人間はずっと孤立して生きるわけにもいかない。

     

     政治の根源からの問い直し

     人間は孤立しているものである、孤立しているにもかかわらず何かの共同性を求めるし、自分に対する絶対的命令者の姿を追い求める。求めても得られないことを知っても、やはりそれを求めることをやめない。

     また、人間も、人間が生きる場所も、入れ替え可能なものかも知れない。人間はマネキン人形に何かの意思が与えられただけの存在かも知れない。自分が住んでいる「街」も、じつは勝手な思いこみでそれが「街」だと思っているだけかも知れず、ほんとうは廃墟なのかも知れない。現に、いま自分が暮らしている街から人間が姿を消してしまえば、それが廃墟と何の違いがあるというのか。そして、その街で暮らしている人間たちの姿が、自分を騙すために創り出された幻影なのだとしたら?

     押井作品は、人間の共同性の虚偽と、人間の特殊性や個性といったものの根拠の薄弱さを明らかにして私たちの前にさらけ出す。

     民主主義は、というより、その民主主義を含む政治社会は、共同意識をもとに成り立っている。そして、その共同意識は、神とか国民的使命感とかいう外部のものによって支えられてきた。

     押井作品はその根拠を無惨なまでに解体して私たちの前に見せる。そして、それをどう再構成するかという道を指し示してはくれないように私には思える。押井作品の世界には、政治は成り立ちようがない。

     にもかかわらず、押井作品の世界には、何に由来するのかわからないが、政治というものが存在する。『パトレイバー』劇場版には警察官僚組織が存在して官僚たちがわけのわからない隠微な権力争いを繰り広げるし、「二課の一番長い日」には政府や国会ということばも登場する。『攻殻機動隊』の草薙の職場も政府機関で、これもなんかわけのわからない援助がらみクーデターがらみの国際謀略が登場する。『アヴァロン』でも、「未帰還」の破綻者を収容する病院や、ゲーム依存者に給食を配っている食堂など、あのゲームを社会のなかに存在させている政治の姿が舞台裏にある。

     政治は無限の現場の積み重ねの上に存在している。

     その現場では、人間たちは、何のために何をやっているのかわからない。ただ、言えることは、人間はその現場から究極的に下りてしまうことはできないという宿命を負っているだけである。自分はだれに何のために命令されているのかを求めて知ることができず、自分が自分である根拠を求めてその薄弱さに気づき、不安を解消することができないばかりか、深まるばかりの不安とつきあいながら、それでも現場を下りることはできない。一時的に孤立の安らぎに逃避できるだけである。

     それが無限に集積すれば、なんとなく政治が動いているような感覚が生まれる。押井作品は、政治というものが、理路整然とした共同性や共同意識の上でオペレートされているものだという説明を無惨に崩してしまう。だれも何がどうなるかわかっていない。わかっていないまま動いているのが政治なのだ。

     もしかすると、神というのもそういう幻想なのかも知れない。けれども、不安に駆られつづける人間は、自分の存在する根拠、自分が現場で働いている根拠を知ろうとするたびに、その幻想かも知れない神を追い求めざるを得ない。

     そういう現場で人間にできることは、ただ現場で自分がしたいと思ったように進むことだけである。やらずに後悔するより、やって後悔するほうがましだ。たとえそれがアホの執念であっても、そういう信念に従って進む以外に、現場の人間にできることはない。

     もしかすると、私たちの社会で「民主主義」というのを維持していくという営みも、そんなものなのかも知れない。

     そういう不安に衝き動かされている人間たちが、みんな暗く沈んで生きているわけではない。そういうことが描かれているのが、もしかしたら押井作品の与えてくれる大きな救いなのかも知れないと、いま、ふと思った。

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