立岩真也

人はもともとは同じで、環境も整えてあげましたということになると、それでも生じた差異は「努力」の違いによるということになってしまい、さらに、それはあなたの責任ですと言ってしまうところがある。それは乱暴だと私は思う。それよりむしろ、人は生まれながらに違っていますと言ってもらった方が事実に近く、すっきりしており、「努力」という項—が存在しないというのではない—になんでも押し込んでしまおうという乱暴で迷惑な話よりよいと思う。そして社会環境を変えるということにしても、ときにはずいぶん人に負荷をかける行いである。社会環境のせいだ、環境を変えればよいという言い方だけで遺伝論、優生学を反駁しようというのはよくないと考える。

2 thoughts on “立岩真也

  1. shinichi Post author

    私的所有論

    by 立岩真也

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    「Aが『できる』『できない』がAが『もつ』『もたない』ことに繋がること、それがAが『ある』ことを脅かすことを否定する。Aが『ある』ためにはAが『もつ』ことが必要であり、そのためには『できる』ことが必要だが、その『できる』人はAでなくてもよい。

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    この本を書く作業の大部分は単独行としてなされた。

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    約二年間、ほとんど何も読まなかったと思う。 
     
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    特に誰かのアイデアをもとにするのでない、手作業によって考察の多くの部分は進められた。書かれることは特に何かの『思想』に依拠していない。ひとまず必要がなかったからだ。それに何かを引合いに出せば、それとの異同を確かめる必要がある。そのためには相手の言っていることを知らなくてはならない。注釈が増えてしまうだろう。かえって面倒なことになる。そういう作業はきっと必要なのだろうし、それを行うことによってきっと私も得るものがあるのだろうとは思うが、相手から何かを受け取るためにも、まずは私が考えられることを詰めておこうと思った。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    二分論を捨て、白黒をつけず、どちらが正しいというふうに考えるのを止めたら、ずいぶんすっきりするだろうに。

    優生学が正しいとか、いや社会学が正しいとか、誰が正しいとか正しくないとか、そんなくだらないことをひとりで考えてみても、なんにもならない。

    こういう見方に立てば「それ」が正しく、違った見方に立てば「あれ」が正しい。それでいいではないか。

    所詮人間が考えること。みんな正しく、みんな正しくない。それが人間の限界なのだと思う。

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