澁澤龍彦

近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、 両方を使い分けても一向に差支えないのである。

3 thoughts on “澁澤龍彦

  1. shinichi Post author

    「一字千金の記」

    第16回 「用字の統一について」

    by グッドスピード

    [本]のメルマガ発行委員会

    http://www.aguni.com/hon/back/good/16.html

     誤字・脱字のたぐいならば比較的簡単な話だが、「用字の統一」となると一筋縄ではいかなくなる。実際、校正でもっとも頭をいためるのはこの問題 なのだ。
     たとえば、澁澤龍彦はこう言っている。
     〈近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書 こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、 両方を使い分けても一向に差支えないのである。〉

     私も基本的にそう思う。つづけて澁澤は例をあげる。
     〈「渇を癒す」と書くと、「渇き」ではないかと指摘されることがある。これは「カツをいやす」と読むのである。「カワキ」ではないのである。そのくらい、おぼえてほしいものだ。〉
     また同様に、紀田順一郎氏も「用字の統一」についてこう述べている。〈たとえば「大方」「おおかた」と二通りの記述があり、どちらかに統一してもらいたいという。しかし、これはその場の呼吸とか、字の続きぐあいとか、あるいは前述の送りや上げをしないくふうからそうしている場合がある。字の続きぐあいというのは、「出張校正で大方本文は片づき」といった文章の場合、どうみても「出張校正でおおかた本文は片づき」の方が、可読性の面でもすぐれている。〉
     そして、こう続ける。
     〈どうも近ごろは、機械的な統一を問題にする傾向が強くなっていて、著者をいらいらさせる。教科書などは統一もやむをえないであろうが、その他 の出版物にまで形式主義を押し通すべきではない。機に応じたヴァリエーションがあってこそ、文章は生きてくるのであり、多くの場合平明達意ということにもつながっていく。〉
     まさにその通りだろうと思う。書き手がいらいらするくらいである。私も同感だ。
     とくに校正する側として悩むのは、漢字をひらがなにするかどうか、そしてそれを統一するかどうかという場合である。なぜなら、それは字として間 違いではないなかである。
     
     たとえば、「例えば」と「たとえば」、「既に」と「すでに」、「一つ」と「ひとつ」などなど、数え上げたらきりがない。これはまさに可読性と慣 用性から判断するしかない。著者が意識して使っている場合は、著者との相談で判断するが、そうでない場合はこちらで判断せざるをえないからだ。
     短い原稿ならば統一も押し通せるかもしれないが、たとえば、単行本1冊とかになるとそうもいかない。
     そこで判断基準となるのは何か。そもそも判断基準などないわけだから恣意的に作らなくてはならない。そこで重要なのが、やはり文脈を生かした可読性と慣用性である。そしてこれは読書を通じてしか身につけられないものなのだ。その意味でも、校正の難しさは、間違いを正すことより、文章を生かした用字にあると言えるだろう。
     とにかく、これにはマニュアルもないのだから、日々実践のなかで会得していくしかない。こういう問題に突き当たると、いつも「文は人なり」と思いながら頭を掻くのである。やれやれ。

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  2. shinichi Post author

    『誤植読本』◆校正について

    by 夢幻庵主人

    http://mugenan8.blog.fc2.com/blog-category-18.html

    某月某日、こんな本を読んだ。

    高橋輝次編著『誤植読本 増補版』筑摩書房、ちくま文庫、2013年6月10日、880円+税 [注△文×索×]

    本書の元版は、東京書籍より2000年7月(1700円)に刊行された。増補版には6編が追加されている。なお、本書のジャケットカバー裏には「計42名」とあるが、実際には収録著者数53名が正しい。

    本書は、「誤植」をテーマとしたエッセーのアンソロジーである。あくまでも実用・実践の本ではない。
    執筆者は文学関係者が大半で、プロの校正者がほとんどいない。西島九州男氏(岩波書店社外校正→中央公論社校閲部長)と相澤正氏(戦前の中央公論社校閲部長)くらいで、あとは何年間か校正をやったことがあるという程度の経験者が若干であるにすぎない。どちらかというと著者側に偏る。ついでに言えば、プロの編集者もいない。申し訳程度の編集経験者がやはり若干。

    文学関係者中心であるため、当然、研究書の事例もごくわずかであるし、実用書などは全く登場もしない。本来、文学など出版物のごく一部にすぎないのだが、どうも文学者という連中は世の中の出版物が全て文学であるかのような錯覚をしがちだ。
    雑誌についても、同人誌(またも文学!)はあっても、市販の雑誌の校正は皆無。週刊誌の校正など、きっと面白い「誤植」経験があるはずだが。かつての《SPA!》(扶桑社)の事例とかは、そろそろ公開されてもいいのではないか。それで完売したのだし。
    これらは、文学関係者以外は「誤植」などを書くような場もないし、書いても誰も読まないだけ、ということなのかもしれないが。

    収録作品については、巻末に「本書のもととなったテキスト一覧」はあるものの、初出年が不明。いつごろの記述かによって、印刷方式や入稿方法が年代により異なること(金属活字による活版印刷;当然手書きの原稿で入稿→写植によるオフセット印刷→電算写植→デジタルデータ入稿;電算写植時代の後半から→DTP)を編者は全く理解していないと考えざるを得ない。
    色校については、唯一林哲夫氏がp.170でわずかに触れるのみ。もっぱら文字校についての話であって、金属活字による活版印刷時代の古い話がほとんどである。

    校正者による用語統一に対しては、執筆者の皆さん異口同音に批判している。どうやら自分たちの書き方がてんでばらばらなのは、実は大変意味のある書き方をしているせいだということらしい。
    批判者の筆頭は山田宗睦氏(「校正のレファレンス」『職業としての編集者』pp.103-110より)。<きょう日の「校正者」は、根本的にまちがっている。…言葉・文章というのは生きものである。…その言葉を、きょう日の「校正者」は、「統一」しようと志す。天下一統ならぬ用語一統である。…なにがなんでも「一統」しようというのは生きた言語への介入である。だれにもそんな権限はない。…こうなってきた理由は、さしずめ二つあると思う。一つは校正者のかなしい自己主張であり、もう一つは社会の管理化の進行である。…校正という仕事がしん気くさいことは、一度ですぐわかる。…そういうとき、漢字と仮名がチャンポンにつかわれていると、心理的にこれにとびつくことになる。そのときの校正者はすでに無機質の機械人間になっており、それを生身の人間としてのやりきれなさが増幅して、偏執狂のように「用語一統」にのりだす。そしてさながら国語審議委員のような気持ちになるのである――ということは国語審議委員なんてスリップ・ダウンした「校正者」ぐらいのしろものだ、ということである。かなしい自己主張といった所以である。>(pp.81-4)よほど恨みがあるのか、「校正者」に対する呪詛に満ち満ちている文章ではある。この怨嗟の言葉を裏読みすれば、こう考えられよう。山田氏の文章が不備だらけで、仕方なく「校正者」が「用語統一」でもしてあげなければ、恥ずかしくて世の中に出版できないのにすぎなかった、と。第一、山田氏の文章中に「国語審議委員」と2度出てくるが、これは「国語審議会委員」と「会」を入れるべきだろう(安田敏朗氏の『国語審議会』でも随所に「国語審議会委員」とあるが、「国語審議委員」はない)。

    この校正者による統一問題については、さらに何人かが不満を漏らしている。
    澁澤龍彦氏(「校正について」『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』より)
    <近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。…その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである。>(p.71)
    紀田順一郎氏(「行間を縫う話」『読書人の周辺』より)
    <編集者は意外にバリバリ直す。また、そうでなければ勤まらない。それはいいのだが著者の苦心を知らずして、機械的に用字の不統一を問題にしてくる例があり、これが最も困る。>(p.268)

    これらの意見に対して、日頃、用字用語の不統一極まりない原稿に悩まされている校正者ならびに編集者からの意見があってしかるべきではないか。
    ついでに記しておくと、本書の巻末にある「執筆者紹介」の大学名の記載方法には、何か「著者の苦心」でもあるのだろうか。「日本大藝術学部卒」があるかと思うと「日本大学中退」があり、「京都大文学部卒」がある一方で「京大文学部哲学科卒」「京大英文科卒」があったり、「大阪府女専卒」「高坂高女卒」に対して「お茶の水女子大学哲学科卒」があるという具合。山田氏に言わせると「生きた言語」なので、「大」や「大学」はその時々の生き方によってさまざまなのであろうか。山田氏が在職していたという「東大出版会」(p.305)ぐらい正しく「東京大学出版会」と書けなかったのか、などというのは論外か。

    一方、本書には、<不慮の事故によって説得力が生まれた好例>(解説p.297;堀江敏幸「誤って植えられた種」)と言うべき、誤植によってよりよい言葉になった事例がいくつか示されている。
    例えば、坪内稔典氏の「粟か栗か」(産経新聞朝刊2012年11月9日)。
    <寺田寅彦に次の句がある。
    栗一粒秋三界を蔵しけり>(p.145)
    実は元は「粟」だったが、いつの間にか「栗」で出版されるようになった。
    <私見では栗でよい。…小さい物の代表みたいな粟粒にこの世の全てがあるというのは、理屈が通り過ぎて平凡だ。それに対して、栗の句とすると、理屈よりも栗の存在感そのものを生き生きと表現している。/粟から栗への変化、それを読者による推敲、あるいは添削と考えたい。>(p.146)
    他にも、大岡信、長田弘の各氏が、「誤植」転じて新たな詩を見いだすきっかけとなったことを報じている。
    さらに、林哲夫氏(「錯覚イケナイ、ヨク見ルヨロシ」書下ろし)は、つげ義春氏の漫画『ねじ式』の冒頭の独白「まさか/こんな所に/メメクラゲが/いるとは/思わなかった」が、<この「メメクラゲ」がじつは「××クラゲ」の誤植だった>(p.167)と伝える。<「メメ」という奇妙な発音にいかにもシュールな効用があったように思える。>(p.168)

    林氏も引いているが、森銑三氏(「誤植」『書物』より)の言葉を引用したい。
    <支那の何という人だったか、書物の誤を考えながら読むのも、また読書の一適だといっている。>(p.151)

    ◆なお、文中で触れた本は以下の通り。
    山田宗睦『職業としての編集者:知的生産としての編集』三一書房、三一新書、1979年12月15日、550円
    安田敏朗『国語審議会:迷走の60年』講談社現代新書、2007年11月20日、760円+税

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