小谷野敦

日本の「大衆社会」は、新たな段階に突入した。三流大学が増殖し、物を知らないバカでも大学に入ってしまう。さらにネットという匿名の場の出現により、バカが堂々と意見するようになった!だが本当に「愚民」を呼ばれるべきは、大衆に媚びる、軟弱な「知識人」どもではないのか!?

2 thoughts on “小谷野敦

  1. shinichi Post author

    覚悟を持った嫌われ者
    小谷野敦『すばらしき愚民社会』

    by 呉 智英

    波 2004年9月号より

    http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/449202.html

     書名の『すばらしき愚民社会』は、むろん、オルダス・ハックスレーの逆ユートピア小説『すばらしき新世界』から取られている。『すばらしき新世界』という題名は、むろん、シェイクスピアの『嵐』の中のミランダの科白から取られている。これぐらいのことは、知識人なら一般教養としてむろん知っていなければならないし、東京大学など一流大学の英文科の学生なら、自分の専攻分野のことだから、むろん知っているはずである。
     ところが、これぐらいのことさえ誰も知らないんだよなぁ、という著者小谷野敦の嘆きの声が聞こえてきそうだ。自ら東大英米文学科を卒業し、東大他の名門大学で学生を教えている小谷野は、大学がレジャーランド以下になってしまった現代社会を痛烈に批判すべく、書名にもこんな仕掛けをしているのだ。
     私は、高校も大学も私立しか行けない劣等生で、しかもその大学も遊び呆けて落第をくり返していたし、その上、専攻も法学部だったのだけれど、ハックスレーもシェイクスピアも知っていた。書名の仕掛けを見抜けず著者にバカにされたりしないで、ああ、よかった。
     小谷野敦は、無鉄砲と思えるほど辛辣な批判をする。論争は必ず受けて立つと広言しながら、しばしば聞こえなかったふりをする上野千鶴子などとは較べものにならない。しかし、実は小谷野は無鉄砲ではない。その辛辣さは該博な知識に裏づけられている。専門の英米文学以外にも江戸期の芸能に詳しく、またタコツボ化した学者とはちがってジャーナリスティックなテーマにも広く通じており、それでいて、半可通のディレッタントのようなカルスタ派を手厳しく批判している。五年前の『江戸幻想批判』(新曜社)は、江戸の遊郭がユートピアであったかのようにもてはやす連中を黙らせた。
     本書は、そんな小谷野敦が現代大衆社会の病根を痛快に、そして深くえぐった一冊だ。もとは、季刊誌「考える人」に二年間連載したものだが、「あとがき」にあるように、単行本化に際し内容を再検討する必要に迫られたという。
     小谷野敦は、連載当初、先にも言ったあまりにもものを知らない学生に対する怒りでペンを執った。しかし、むしろ「真の愚民」は自らが選良だと思っている「いわゆる知識人」の方ではないかという気がしだした。
     このあたりが、よくある若者批判とは全然ちがっている。大学やマスコミ内のケチくさい政治を好む怠惰で自己保身的なインテリが徹底批判されているのだ。それは必然的に現在流行の知の衣装への批判となり、フェミニズムやポストモダニズムや通俗心理学のあたりに蝟集する連中への痛罵となる。
     興味深い話はいくつも出てくるが、「他人を嘲笑したがる者たち」の章は、インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」から笑いの本質論にまで遡り、大衆文化論であり、知識人論であり、メディア論でもある。
     一九八○年代から始まる「軽薄体」の文章は、2ちゃんねるの無責任な書き込みを準備した。軽薄体の文章は、確かに、旧来の硬直した文体より訴求力の点で有効でもあったのだが、その末裔である2ちゃんねらーたちは、「まじめ」を忌避し「笑い」に紛らせてでなければ何も語りえない。しかも、笑いはしばしば嗜虐であるという本質は、昔からほとんど変わらないのに、「人権」概念は大きく発達し、笑いの環境は変化している。一方で、スピーチや大学の講義にもユーモアが要求されている。
     小谷野敦は、強迫観念のように笑いが強制される風潮、身構えた笑いで予防線を張ろうとする一部知識人の傾向を嫌悪する。それは、覚悟なき甘えた価値相対主義への批判にもつながるだろう。価値相対論者の多くは、価値が相対化されたって自分は少しも困りはしない特権を有しているのである。
     序章で、小谷野敦は、今では誰も読まなくなってしまったイプセンの『民衆の敵』を援用して、こう言う。
    「『大衆批判』なるものは、多数を敵に回し、自らを危険に追いこむ行為である。だが、人が常に多数派に迎合してばかりいたのでは、本当の衆愚社会になってしまうだろう。人には時に『嫌われる覚悟』も必要なのである」
     その通りだ。そして、覚悟を決めた嫌われ者がそれなりに認められる程度には、日本に具眼の読者はいるのである。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *