徐粒

紅衛兵運動のおかげで、 全国の小中学校、 高校、 大学では、 たちまち授業が完全に取りやめになり混乱状態に陥った。 先生達はひどい批判や迫害を受けた。 また、 非革命的であるとして伝統や文化的なもののほとんどすべては破壊あるいは禁止された。 図書館もすべて封鎖され、ほとんどの書籍は読むこと自体が禁止された。
全国で下放した知識青年は約1623万人といわれている。
文革が始まったとき、 私は小学校4年生で、ちょうど本を読むことの楽しさを覚え始め、 本が読みたくてたまらない時期であった。 しかし、学校での授業もなくなり、 公に読める本は全くなかった。 本を隠して持っている人もいたが、 信頼できる仲間でないと危なくて貸し借りできない状況であった。
父が教員で母が医者であったため、 家の中には本が沢山あった。 しかし父は知識人として批判の対象とされ、 自宅に押し掛けてきた紅衛兵により本を含め価値のありそうなものが何もかもほとんど持ちさられた。 母の数冊の医学本が残ったのは救いであった。 小学生の私には意味は分からなかったが、 それらの本を何回も何回も読んでいた。 内容はともかく、 活字が書いてありさえすればよいのであった。 運よく、 ぼろぼろの 「連環画」 や小説を仲間から借りることができたときには、 それこそ何もかも忘れてその本に没頭していた。そのとき感じた束の間の至福の気分は、 今になって考えてみれば、 社会が悲劇的な状況におかれていたことの裏返しであった。

2 thoughts on “徐粒

  1. shinichi Post author

    知識に飢えたときのこと

    by 徐粒

    http://web.sc.eis.akita-pu.ac.jp/~xuli/APU_Library_Xu0401.pdf

    「文革」 あるいは 「文化大革命」 を耳にしたことがあるであろうか。 文革は、 1966年から76年までの10年間、 中国全土で巻き起こっていた“空前絶後”の政治運動である。 映画“ラストエンペラー”の、 腕章をした 「紅衛兵」 が溥儀(Fu Gi) を批判する場面がまさに文革の典型的な場面である。

    文革がもたらした被害は、 伝統文化の破壊、知識人の弾圧及び教育の崩壊などである。 文革の発端は中国共産党内の権力闘争であったが、文革を嵐のように全国に広げたのは、 当時の大学生や高校生及び中学生が主体となる紅衛兵であった。 毛沢東の 「造反有理 (権力者や上層部に対する反乱には道理がある)」 の呼びかけに応え、 全国の学生が、 「停課閙革命 (授業をやめて革命に加わる;『閙』は身を打ち込んで一つのことをやる意)」 を行い、 「紅司令 (毛沢東のこと)」 を防衛する紅衛兵運動を起こした。紅衛兵への支持を表明するため毛沢東が天安門広場で八回にわたって全国からの1300万人の紅衛兵を接見したことなどは、 その運動の凄まじさを物語っている。

    紅衛兵運動のおかげで、 全国の小中学校、 高校、 大学では、 たちまち授業が完全に取りやめになり混乱状態に陥った。 先生達はひどい批判や迫害を受けた。 また、 非革命的であるとして伝統や文化的なもののほとんどすべては破壊あるいは禁止された。 図書館もすべて封鎖され、ほとんどの書籍は読むこと自体が禁止された。やがて、 毛沢東の鶴の一声で 「復課閙革命(学校に戻って革命を行う)」 が始まり、 授業は形式上回復した。 しかし、 そのときは“教育と労働の結合”の方針の下で、 学制が短縮され、 英語、 歴史、 生物などほとんどの科目は廃止され、代わりに内燃機関の原理や農産物の作り方などを教える工業基礎や農業基礎のような実利的な教科ばかりが設けられた。 また大学の入試は廃止され、 高校を卒業しても大学に入れず、 ほとんどの卒業生は 「知識青年」 として、 農村に「下放 (長期にわたって農山村や農場で肉体労働を行う)」 させられた。 大学に入学できたのは工場や農村、 軍から政治的な基準で推薦された人達だけであった。 その経緯から、 この時期の大学生は 「工農兵大学生」 と呼ばれている。このような状況は10年間も続いて、 全国で下放した知識青年は約1623万人といわれている。

    文革が始まったとき、 私は小学校4年生で、ちょうど本を読むことの楽しさを覚え始め、 本が読みたくてたまらない時期であった。 しかし、上に述べたように学校での授業もなくなり、 公に読める本は全くなかった。 本を隠して持っている人もいたが、 絶対に信頼できる仲間でないと危なくて貸し借りできない状況であった。

    父が教員で母が医者であったため、 家の中には本が沢山あった。 しかし父は知識人として批判の対象とされ、 自宅に押し掛けてきた紅衛兵により本を含め価値のありそうなものが何もかもほとんど持ちさられた。 母の数冊の医学本が残ったのは救いであった。 小学生の私には意味は分からなかったが、 それらの本を何回も何回も読んでいた。 内容はともかく、 活字が書いてありさえすればよいのであった。 運よく、 ぼろぼろの 「連環画 (日本の漫画と違って、 ストーリーがより写実的に絵に描かれその下に説明が書かれた小さい絵本)」 や小説を仲間から借りることができたときには、 それこそ何もかも忘れて文字通り全身全霊でその本に没頭していた。そのとき感じた束の間の至福の気分は、 今になって考えてみれば、 社会が悲劇的な状況におかれていたことの裏返しであった。

    高校卒業後には、 私も知識青年の一員として下放させられ、 2年間の農作業に従事させられた。 そのときの将来に対する不安と自分の運命に対する無力感はいまも鮮明に思い出すことができる。 どうしてもこのまま一生を過ごすのはいやだ、 何かをやらなければならないといつも思っていた。 当時は楽器やスポーツをやることが流行っていたが、 私はいろいろ考えて英語を勉強することに決めた。 毎朝早く起きて川辺で英語を読んだり、 単語を覚えたりした。

    そのときの忘れがたいエピソードが二つある。一つは、 英語教師をやっていた父の友人から、文革前の英語教材のレコードと手回し式の蓄音機を貸してもらったときのことである。 その蓄音機は回転速度が狂っていて、 男性の声が女性のように聞こえた。 初めてそれを耳にした私は、そのことに全く気がつかず、 女性のような高い声を出す発音を一生懸命に真似して練習していた。 ところがある日、 村の小学校に電動式のレコードプレーヤーがあることを知り、 そのレコードを掛けてみたら、 いきなり普通の男性の声が聞こえた。 このときは本当にショックであった。

    もう一つは、 村人達の間に広まっていた私自身についてのうわさである。 都会からきたあの学生は頭がおかしくて、 毎日部屋にこもって「我他媽」、 「我他媽」 (Wo Ta Ma と発音。 人を罵るときに使われる言葉、 日本語の“クソ”・“畜生”とかに近い) と叫んでいるとのうわさであった。 最初は何のことか思い当たらなかった。 後で分かったときには笑いを禁じえなかった。 英語教材にはなぞなぞのテキストがあり、“I have a round face, a long hand and a short hand,…. What am I?”と書かれていた(答えは時計)。“What am I”が“我他媽”のように聞こえたのである。

    そんな状況の中でも勉強をあきらめなかった。おかげで、 1977年に回復された文革後初めての大学入試に合格することができた。 また1986年大学院修士2年生のときには英語の選抜試験で日本留学のチャンスを手に入れることができた。

    ときどき、 自分が幸か不幸かを考えるが、 結局は分からない。 ほとんど大学に入れなかった同世代の人と比べると、 大学入学も留学も“最終便”ではあるが乗ることができた。 しかし私が大学に入ったときは22歳であった。 日本に留学したのは30歳、 後の若者と比べ、 10年間の貴重な時間が失われていた。

    思いつくまま書いてきた。 学生諸君には、 日本ほど衣食の心配や社会制度の障害がなく平和で安心して勉強できる環境は世界を見渡しても見つからないこと、 現在でも世界には勉強をしたくてもできない人々が大勢いることをわかって欲しい。 また、 自分の人生は自分の努力のみによって切り開けるものであることを自覚して欲しい。 もしこの短文が諸君の勉強意欲を起こすのに少しでも役立てば望外の喜びである。

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  2. shinichi Post author

    文化大革命

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/文化大革命

    プロレタリア文化大革命(簡体字:无产阶级文化大革命 繁体字:無產階級文化大革命)、通称文化大革命は、中華人民共和国で1966年から1976年まで(終結宣言は1977年)続いた、社会的騒乱である。略称は文革。

    名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって政権中枢から退いた毛沢東が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。

    これにより1億人近くが何らかの被害を被り、中国国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。

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    紅衛兵

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/紅衛兵

    紅衛兵は、1966年から1968年にかけて実権派打倒に猛威を振るい、文化大革命期間中に出た死亡者、行方不明者(数百万人とも数千万人ともいわれる)の一部の虐殺に加担したとも言われている。

    また、当時は中華人民共和国の成立に貢献した政治家や知識人も弾圧を受けた。その1人である彭徳懐も逮捕されて拷問を受け、それが原因で死亡している。

    1950年代の人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年5月29日、清華大学附属中学(日本の高校に相当)の学生たちがこの動きを支持するために秘密裏に紅衛兵を組織したのが始まりである。紅衛兵という名称は、当時清華大学附属中学学生だった張承志の発案だと、本人が述べている。同年6月には北京地質学院附属中学、北京石油学院附属中学、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中学、北京第25中学の学生が「紅衛兵」「紅旗」「東風」などの秘密学生組織を相次いで設立した。

    紅五類(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は黒五類とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。親が黒五類であることを告発・糾弾して、出身にも関わらず紅衛兵となった例もあるとされるが、稀である。

    北京の紅衛兵は「破四旧」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。同年8月1日、中国共産党主席毛沢東は清華大学付属中学紅衛兵に書簡を送り、「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪(革命に罪なし)」が付随した。8月12日中国共産党中央委員会全体会議が発表した「プロレタリア文化大革命に関する決定」でも革命的青少年が大字報・大弁論の形式で「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃することを擁護し、紅衛兵運動は党に公認された。

    毛沢東は8月18日から11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ一千万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武闘を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。各派閥が「自分達の方がより革命的である」ことを証明するために他のグループよりさらに過激な運動に走ったり、敵対派閥を「反革命的だ」と攻撃するような事態に陥ったためである。最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事が明らかになってしまった。武闘の結果、大量の死者が発生してもいた(重慶の文革墓群は、現存する唯一の武闘犠牲者集団墓地である)。毛沢東は人民解放軍を投入して各地に革命委員会を樹立し、秩序再建を図る一方、1968年7月28日、聶元梓ら紅衛兵運動の指導者を呼んで運動の停止を命じた。1968年から1969年にかけて知識青年上山下郷運動が展開され、農村支援の名目のもとに約千六百万の中学卒業生が農村や辺境に追放された。

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