松岡正剛

21世紀のアメリカは、女性の12パーセント、男性の6パーセントが抗うつ薬を常用するような、そういう「みんながちょっとずつおかしくなっている」という心の社会になっていた。日本でもうつ病はどんどんふえている。多くの企業では、ある日突然に仕事を休んだり、そのまま会社をやめたりする社員が続出していて、医者に診てもらうと「うつ病です」ということが多い。その数は医師認定がある者で社員総数の10パーセントくらい、潜在的には30パーセント以上にのぼるという。会社にうつ病がふえているだけではない。アメリカほどではないが、日本でも10年以上にわたって毎年3万人以上の自殺者が出ている。「引きこもり」となると、さらにものすごい数になる。やむなく厚生労働省がこれまでの致死率の高い「ガン・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病」の4大疾病に、新たに「精神疾患」を加えて5大疾病にした。

古来、多くの悲哀や悲嘆が人間の心を苦しめてきた。その逆に、悲哀や悲嘆こそが人間を成長させてきたとも言える。日本でも、古代このかた歌人たちが「いぶせ」な気分を歌っていた。気分が晴れないこと、厭わしいこと、気詰まりなこと、なんとなく悲しいことが「いぶせ」なのである。これはうつ病なんかではないし、プロザックを投じて治せばいいというものではない。もしもそんな処方箋でこれらの気分変調の話をすますなら、古今東西の文学作品の大半は、ことごとく精神障害の記録か、作家たちの妄想だったということになる。

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  1. shinichi Post author

    松岡正剛の千夜千冊

    1522夜 

    アラン・ホーウィッツ&ジェローム・ウェイクフィールド

    それは「うつ」ではない

    どんな悲しみも「うつ」にされてしまう理由

    http://1000ya.isis.ne.jp/1522.html

    われわれは誰だって、いつだって、
    精神疾患を出入りする淵にいる。
    不安、憂鬱、迷妄、妄想、意志薄弱、意欲の減退。
    食欲不振、倦怠、仕事遺棄、引きこもり。
    このところ先進諸国の巷の東西には
    人格の病い、感情の病い、不安の病いが乱れとぶ。
    統合失調症、パニック障害、ヒステリー、家族暴力、
    ストレス過剰、双極性障害、解離、PTSD‥。
    なかでも「うつ病」が会社でも学校でもふえている。
    なぜ、そうなったのか。文明の病いが広がったのか。
    あるいは社会のコミュニケーションのどこかに
    機能不全がおこっているのか。
    それとも、アメリカ精神医学会のDSMが
    心の病いの症状を分類認定しているからなのか。
    それならわれわれは、香り高い悲哀に
    もう浸っていられないのだろうか。

    **

     いっときマリリン・モンローの旦那でもあったアーサー・ミラーの当り狂言に『セールスマンの死』があった。戦後まもない1949年にブロードウェイで初演されて大反響をよんだ。日本でも文学座をはじめ、のべつ上演されてきた。ぼくが洋物カツラをつけた杉村春子の溌剌かつ痺れるような名演技を初めて見たのは、この作品だった。

     主人公はウィリー・ローマンだ。第二次大戦後のアメリカ人のライフスタイルを赤裸々に体現する人物である。ローマンは夢をもって働けば誰でも成功できるというアメリカンドリームを信じた男で、しゃにむにセールス展開を挑んでいくのだが、60歳をすぎて待っていたのは苛酷な現実ばかり。健康を壊し、借金をかかえ、とうとう会社をクビになった。

     そんな父親ローマンを息子はとことん軽蔑する。ローマンは自分が敗残者であることを認め、保険金が入ればきっと家族が少しはラクになるだろうと車に飛び込んで自殺してしまう…。

     『セールスマンの死』はこういう話だが、最近になって、ここに変な尾鰭がついた。初演から数えて半世紀後の1999年にこの演劇の新たな演出舞台を批評したニューヨークタイムズが、こんなヘッドラインを付けたのだ。「ウィリー・ローマンにプロザックを!」。

     プロザックというのはパキシル、ゾロフト、エフェクソールなどと並ぶ抗うつ薬で、アメリカではつねにトップの売上を誇っていた薬のひとつだ。ニューヨークタイムズに頼まれた精神科医が『セールスマンの死』を見て「ローマンはあきらかにうつ病である」という診断をくだしたらしい。

     つまらない劇評があったものだが、このヘッドラインでアメリカ人はみんなピンとくる。ヘミングウェイ(1166夜)の時代にはアスピリン・エイジが時代社会を象徴していたけれど、いまや誰もがプロザック・エイジの仮住人になっていたからだ。

     ちなみにそのころのプロザックのTVコマーシャルでは、「8人に1人がうつになる」という風雨を感じさせる画面のあとに、プロザックによって急に気分が晴れるイメージを映し出し、そこに「お帰りなさい」というナレーションが流れたものだった。あざといというべきか、巧いというべきか。

     もはやウィリー・ローマンなんて、どこにでもいるありきたりな気分障害現象なのだ。実際にも21世紀のアメリカは、女性の12パーセント、男性の6パーセントが抗うつ薬を常用するような、そういう「みんながちょっとずつおかしくなっている」という心の社会になっていた。

     ついでに言うと、人気TVドラマ「ザ・ソプラノズ」の主人公は、なんと幾つもの精神疾患をかかえるマフィアのボスである。よくぞこんな設定を思いついたものだが、このボスがどんな抗うつ薬をのむのかが、この人気ドラマの筋書きのメリハリなのだ。なんとも、おいたわしい。

     日本でもうつ病はどんどんふえている。多くの企業では、ある日突然に仕事を休んだり、そのまま会社をやめたりする社員が続出していて、医者に診てもらうと「うつ病です」ということが多い。

     その数は医師認定がある者で社員総数の10パーセントくらい、潜在的には30パーセント以上にのぼるという。

     会社にうつ病がふえているだけではない。アメリカほどではないが、日本でも10年以上にわたって毎年3万人以上の自殺者が出ている。「引きこもり」(576夜)となると、さらにものすごい数になる。やむなく厚生労働省がこれまでの致死率の高い「ガン・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病」の4大疾病に、新たに「精神疾患」を加えて5大疾病にした。

     はたして、こうした現象は何をあらわしているのか。どうもその実態をにわかに判断することが難しい。ゲイリー・グリーンバーグの『「うつ」がこの世にある理由』(河出書房新社)や計見一雄の『現代精神医学批判』(平凡社)などを読むたびに、ぼくの見方はぐらぐら揺れてきた。

     それにしても「心の病気」がないなどというわけはない。意識の発生とともに併存してきたのだったろう。それをどのように呼ぶかはべつにして、憂鬱も不安も狂気も、ずっと昔から人類の歴史に寄り添ってきたはずだ。それなら、精神医学はこのような「心の病気」が増大する社会をどう見ているのか。

     今夜はそこを論じるのではないのだが、とりあえずわかりやすくいうと(なかなかわかりやすくしにくいが)、今日の精神医学が分類する精神疾患は、おおざっぱには「人格の病い」「感情の病い」「不安の病い」があるとみなしている。

     これらの違いは、それぞれ処方薬(向精神薬)が違っているところに顕著にあらわれる。

     「人格の病い」を代表するのは「統合失調症」である。他人と意思を通じ合わせることが億劫になり、閉じこもりがちで、周囲に無関心になる。症状がすすむと妄想や幻聴や幻覚をともない、ときどき支離滅裂なことを言ったり、意味なくニヤニヤしたりする。

     そこで以前はこの病いのことを「精神分裂病」と言ってきた。スキゾフレニアだ。向精神薬としては抗精神病薬をつかう。このクスリは神経伝達物質のドーパミンやセロトニンの受容体を遮断する。

     「感情の病い」を代表しているのが「うつ病」である(鬱病と綴りたいのだが、いまや平仮名が標準になった)。

     理由のない意欲減退や食欲不振が続き、しばしば沈鬱な感情がつきまとう。劣等感にさいなまれることも少なくない。脳内の神経伝達物質であるモノアミン系が不足しているとみられるので、ノルアドレナリンやセロトニンをふやすような抗うつ薬をつかう。ここにかつてはプロザックなどが入っていたのだが、実はけっこう薬剤選定が難しい。

     うつ状態と躁状態がくりかえされる「躁うつ病」も「感情の病」のひとつである。ただし、いまは「双極性感情障害」と呼称するようになっている。うつ病の一種ではあるが、別の処方が必要になる。躁状態を演出しているのがギャバというガンマアミノ酸であるともくされるので、リチウム投与など、けっこう慎重な投薬が必要になる。

     「不安の病」では対象が漠然とした不安や恐れが出入りする。いわゆる「神経症」だ。

     ここには、不安神経症(不定愁訴、パニック障害)、強迫神経症(買った大根が汚れているのが不安なので1時間も洗わなければ気がすまないというような症状)、ヒステリー(転換性障害、解離性障害)、心身症(心因性胃潰瘍や偏頭痛)などが含まれる。

     メフェネシンやメプロバメートを母型として、それぞれの神経症に抗不安薬が適用されている。昭和の世の中ではメプロバメート系のトランキライザーがよく知られてきた。

     このほか最近では、統合失調症の亜種として「非定型精神病」という症状があるだろうことも議論されている。漱石やヴァージニア・ウルフがこの症状をもっていたのではないかという“仮説”もまかりとおっている。さらには「新型うつ」も取り沙汰されている。

     さて、では、ここからが今夜とりあげた本書の課題になるのだが、これらの精神疾患の認定は、実はまるごとDSMの基準に従っているという事情があったわけなのである。

     DSMというのは、アメリカ精神医学会が長らく策定してきた「精神疾患の診断と統計の手引き」のことで、“Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders”のイニシャルをとってDSMと略称されている。

     DSMは何年かおきに改定され、そのたびに世界の精神医療のグローバル・スタンダードになってきた。とくにアメリカを代表する精神医学者のロバート・スピッツァーがリーダーとなったタスクフォースによって、1980年に制作された第3版(DSMⅢ)が大いに広がり、一躍その名が知られるようになった。同時にDSMⅢに対する批判もおこって、それも手伝って有名になったのだ。スピッツァーは本書に序文を寄せている。

     ついで1994年に出た第4版(DSMⅣ)がしばらく定番になっていた。日本のうつ病が話題になったのはこのころからで、その規準にはむろん日本の精神医学界の大半が従った。今年(2013)5月に第5版が発表されたが、大きな変更はなかったらしい。

     DSMはとくにうつ病の認定基準として、大きな影響力をもってきた。なぜDSMのうつ病基準が影響力をもったのかは、次のガイドラインによる認定の仕方を知ってもらえば、およその予想がつくだろう。

     うつ病は、このDSMが提示する次の9つの症状のうちの、5つが2週間以上にわたって続いているかどうかで判断されるとされたのだ(!)。

     (1)抑うつ気分
     (2)さまざまな活動に対する興味・喜びを失う
     (3)体重の増加または減少、食欲の変化
     (4)不眠または過眠
     (5)精神運動性激越(むやみに体を動かすなど落ち着きがなくなる)、
       または精神運動遅延(会話や動作が緩慢になる)
     (6)倦怠感または精力減退
     (7)自分は価値がない人間だと思う。過度に、または根拠なく
       自責の念にかられる
     (8)思考力、集中力の低下、物事を決められなくなる
     (9)死についてたびたび考える。自殺願望や自殺未遂に走る

     このリストを見ていると、うつ病の要素がない現代人なんてほとんどいないんじゃないかと思えてこよう。

     だが、こうした症状の持ち主が近くにいたからといって「怠け病」とか「さぼり病」とみなしてはいけません、たんに「やる気がない」と見てもいけません、上司は社員にそんなことを言ってはいけません、両親も子供を叱ってはいけません、うつ病はれっきとした病気ですというのが、今日の精神医療界の申し合わせた見解なのである。

     本書は、このようなDSMの認定基準に問題がないかどうかを問うた一冊で、精神医学の現状を批判した一冊ではない。とくに「悲哀」に属する感情の持続とうつ病との関連が曖昧であることにメスを入れた。

     人生には憂鬱なことはいくらでもある。

     気分がすぐれないとか気がふさいだというのなら、風邪をひいても、体がだるくても、仕事がうまくいかなくても、失恋しただけでも歯が痛いだけでも、テレビのコメンテーターが馬鹿野郎なことを言っているというだけでも、憂鬱だ。気分が悪いことなんて、いくらだってある。

     しかしこれらの多くは必ずしも長期間にわたらない。そのうち大いに気が晴れることもある。そこで、長期間にわたっても気が晴れない気分障害のことを「うつ病」とみなすようになったのである。しかもその症状のメルクマールは、上のDSMのガイドラインが掲示する特徴を複数おこしている場合ということにした。

     つまりは、上記の複数項目にわたって機能不全が数週間ほど続いている症状が「うつ」(depressive disorder)なのだ。厳密にはDSMが規定するうつ病は、正確には「大うつ病」(major depression)と名付けられているのだが、これは主として躁うつ病と区別するための呼称なので、広くはうつ病とみなされる。

     しかしどう見ても、このような持続的なデプレッシブ・ディスオーダーやメンタル・ブレークダウンのすべてがうつ病だというのではないはずだ。

     今夜はややこしくなるので詳しい説明は省くけれど、さきほども精神疾患を大別して「人格の病い」「感情の病い」「不安の病」に分けたように、多くの気分障害はうつ病だけでなく多様な機能不全や心理現象にまたがっている。

     統合失調症(スキゾフレニア)にも双極性障害(躁うつ病)にも、何かの暴力的なショックによってトラウマがなかなか消えないPTSD(外傷後ストレス障害)やパニック障害にも、デプレッシブ・ディスオーダーやメンタル・ブレークダウンはおこっている。

     以前の精神医学では神経不安症、心身症、ノイローゼなどと言われていた症状や、さらには認知症や発達障害などにもこうした症状はおこっていて、それらの区別はなかなかつきにくいはずなのだ。ときにはアルコール依存症が似たような症状を見せるときもある。

     そこで、精神科医をおとずれる患者に何らかの向精神薬を投与することによって、やっと症状の特定ができるということにした。うつ病と双極性障害の、うつ病と認知症の、それぞれの治療薬がまったく異なることをもって、やっとこさっと精神疾患上の症状分類が類推可能になったのだ。

     けれどもそのためかえって、DSMの基準のほうがどんどん広まったわけだった。いいかえれば、DSMⅣやDSMⅤにもとづいて、今日もまたうつ病患者がひそかにふえているということなのだ。

     しかし、しかしながらである。よくよく考えてみると、はたしてDSM基準に該当する状態だけが長期間にわたる気分障害なのか、たいへん疑わしい。

     気分障害が2週間ほど続いたからといって、それがみんなうつ病であるはずはない。長く尾がひく憂鬱な気分は、精神疾患によるものとはかぎらない。

     たとえば親しい者と死別した悲嘆、会社の倒産や家業不振によるお先真っ暗の失意、育んできた恋愛や愛情の突然の破綻、信頼していた相手から裏切られたことなどによって、心が塞いでいつまでも意気消沈しているからといって、これをうつ病とか統合失調症とよべるだろうか。

     期待をしていた昇進が延期されたり配転がおこったり、いつまでも治らない持病でだんだん気が重くなったり、一家や故郷を襲った火事や洪水災害などによる悲しみがなかなか消えなかったりすることを、精神障害だとみなしていいのだろうか。われわれはいつだって、こうした憂鬱をかこってきた者たちなのである。

     本書はそこを問題にした。DSMは人々の深い悲しみを精神疾患にしてしまうのではないかという問題提起だ。DSMは人々の悲しみを奪うのかという問題提起だ。本書の原題が「悲哀の喪失」(The Loss of Sadness)となっているのは、そのせいだった。

     古来、多くの悲哀や悲嘆が人間の心を苦しめてきた。その逆に、悲哀や悲嘆こそが人間を成長させてきたとも言える。

     すでに紀元前3000年の古代オリエントの叙事詩『ギルガメシュ』には、親友エンキドゥの死を知らされたギルガメシュの嘆きが綴られている。

     友のパトロクロスの死によって悲嘆のどん底に落とされたアキレウスの絶望感の描写も、英雄のもつ深い人間性だとみなされる。アキレウスの前途に悲しみの暗雲がたれこめ、アキレウスは怒りに打ちのめされて大地に身を投げ出し、いつまでも髪をかきむしりつづけたのだ。

     若きウェルテル(970夜)の悩みやマルテ(46夜)の彷徨も、『三四郎』の漱石(583夜)や『舞姫』の鴎外(758夜)も、みんな容易には癒しがたい憂鬱をかかえた物語になっている。優雅なマダム・ボヴァリー(287夜)やアンナ・カレーニナ(580夜)は、道ならぬ恋に身を焦がし、心の奥で懊悩し、そしてみずから命を断ってしまったのだ。

     これらが、この主人公たちの症状チェックで判定できる気分障害などであるはずがない。ここにはれっきとして「悲しみ」というものがある。その「悲しみ」を2週間とか1ヶ月では区切れない。

     日本でも、古代このかた歌人たちが「いぶせ」(憂鬱)な気分を歌っていた。「たらちねの母が飼ふ蚕(こ)の眉ごもり いぶせしもあるか妹にあはずして」。
     気分が晴れないこと、厭わしいこと、気詰まりなこと、なんとなく悲しいことが「いぶせ」なのである。大伴家持は「いぶせみ」(鬱怕)という名詞をさえつくり、「こもりのみ居れば鬱怕なぐさむと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし」という歌を詠んでみせている。
     『源氏物語』もまた、桐壺帝の憂鬱なさまを「なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを云々」とあらわし、「さまざま乱るる心の中をだに、え聞えあらはし給はず、いぶせし」とも表現した。
     これらはうつ病なんかではないし、プロザックを投じて治せばいいというものではない。もしもそんな処方箋でこれらの気分変調の話をすますなら、古今東西の文学作品の大半は、ことごとく精神障害の記録か、作家たちの妄想だったということになる。

     万葉人の「いぶせ」を、ヨーロッパでは長らく「メランコリー」(メランコリア)とよんできた。
     もともとメランコリアはギリシア語の“黒い胆汁”を意味する。プラトン(799夜)も黒い胆汁によって自分は思考していると考えた。黒い胆汁が過剰になると憂鬱な気分になるとみなされたのだ。
     イオニアのヒポクラテスは医療と呪術を切り離し、初めて経験科学的な医療の体系に向かった医聖であるが、その一方では「不安や悲しみが続くなら、それはメランコリーである」と書き、そこには食欲不振、意気消沈、不眠、苛立ち、落ち着きのなさが認められると付け加えている。憂鬱が病気であるかどうか、さすがに迷っていたふしがある。
     分類が得意なアリストテレス(291夜)は、気質と障害を分け、もともとメランコリーな気質をもつ者と何かの原因によってメランコリー障害をもつようになった者とを区別したほうがいいと、きわめて近代医学的な提案をした。

     本書には、その後のヨーロッパにおける憂鬱の哲学の系譜がかんたんではあるが、紹介されている。それらはたいてい「謂れなき憂鬱とは何か」をまさぐろうとしたものである。

     16世紀ではラウレンティウス(フランスの医師アンドレ・デュ・ローラン)の『メランコリー論』やイギリスのティモシー・ブライトの『メランコリー論』がその意味に分け入った。17世紀の憂鬱の哲学の決定版は「千夜一夜物語」の英訳者でもあったロバート・バートンの『憂鬱の解剖』(1621)であろう。本書はこれらは総じて「正常な憂鬱」だったとみなしている。

     しかし“理性の世紀”でもあった18世紀になると、こうした憂鬱な気分がもたらした心の状態は、しだいに「特別な心情」とか「異常な憂鬱」と考えられるようになり、ついにカントさえもがメランコリーを「正当化できない悲嘆」とみなすようになったのだった。

     かくて19世紀初頭のフィリップ・ピネルにおいて、メランコリー障害と「喪失による悲嘆」とがはっきり区別された。さらにはその弟子のジャン・エスキロールやアメリカ精神医学の父ベンジャミン・ラッシュにおいては、メランコリー的なるものから「錯乱・狂気・歪曲・妄想」などの気分障害が次々に引き出され、その異常性や特異性ばかりが強調されるようになったのである。

     20世紀の精神医療者たちは、フロイト派とクレペリン派に分かれて「うつ」の分析や特徴付けを試みた。
     一言で説明すれば、フロイト派はこれらの要因を体質や気質ではなく、無意識の心理プロセスの中に見いだそうとして、精神分析による治療に向かった。このあたりのことについては、フロイト(895夜)の『悲哀とメランコリー』が有名だ。フロイトは愛する者の喪失がもたらす悲哀や憂鬱は病的なものではないと判断したのだった。
     一方、エミール・クレペリンに始まるクレペリン派は、精神障害を気質的な脳の疾患によるものとみなし、生物医学的な枠組みのなかに精神医学を位置付けようとした。精神障害については、これを躁うつ病(現在の双極性障害)と早発性痴呆(現在の統合失調症)に大別した。
     これでだいたい見当がつくように、DSMⅢはクレペリンのアプローチにもとづいた“新クレペリン主義”の発案だったのである。
     その後、アドルフ・マイヤーによる「生物・心理・社会」にまたがって精神医療にとりくむ方向、疾病(disease)と病気(illness)を区別したアーサー・クライマンらが精神科学は画一的な患者集団をつくりすぎたとして社会文化上の問題にアプローチした方向、ジョージ・ブラウンの「うつの社会科学モデル」づくりの方向など、医療を内外から議論する試みも加わって多様な論戦もおこなわれていたのだが、結局は20世紀後半はDSMの基準をめぐるプロザック・エイジのムーブメントに巻きこまれていった。

     このように見てくると、今日の多くの精神疾患はクスリの投与と効果によって特定されたのであって、心の動向にはなんらの根拠も求めていないのではないかという疑問も湧いてくる。DSM基準はクスリからの逆規定にすぎなかったのではないかとも思われてくる。

     とはいえクスリの問題を看過すべきでもない。そこからはそれなりに、われわれの「脳と心と体のあいだ」が見えてくるからだ。

     たとえば、さきほどアメリカで売れまくっていると書いたプロザック、パキシル、ゾロフト、エフェクソールといった抗うつ薬は、まとめてSSRIと呼ばれている。SSRIは「選択的セロトニン再とりこみ阻害薬」の略称だ。うつ病がセロトニンの不足や不安定によっておこる症状だと推定されたので、この呼称ができてきた。

     なぜセロトニンが注目されたのかというと、さまざまな検分を通しているうちに、うつ病は脳内のモノアミン系の神経伝達物質(ニューロトランスミッター)の不足に関係するとみされてきたからだ。

     そうであるらしいのなら、その脳内の神経伝達物質の分泌量やアンバランスや何かの詰まりぐあいによって、「心の病い」が左右されているのではないか。そう推察してみたくなったとしても、当然だ。

     モノアミン系にはセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどがある。これらは以前から意欲や不安の作用にかかわっているとされてきた。
     神経伝達物質は脳内においてそういう“意味”を発信する分子言語なのである。ケミカル・メッセージなのである。

     それならば、モノアミン系の抗うつ薬(三環系抗うつ薬)を投与すればセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンがふえるだろう、きっと気分が安定してくるだろう、そのように精神医療は薬剤との関係をつきとめようとしたわけだ。

     われわれの大脳皮質には約140億のニューロン(神経細胞)がひしめいている。

     ニューロンは細胞体、軸索、樹状突起、神経末端終末、シナプスなどでできていて、それらが互いにつながりあって複雑なニューロンの組み合わせネットワークをつくっている。総じて神経系という。

     その神経系に外部からの刺激が入ると、まずはそれが電気的信号となってネットワークを走る。その信号がニューロン終末まで届くと、その樹状突起の部分のシナプスで待ちかまえていた反応構造が発火をおこし、シナプス小包の中に入っていた神経伝達物質を放出する。これは電気信号に対応する化学信号(ケミカル・メッセージ)ともいうべきもので、ただちに次のニューロンにその“意味”を伝える。

     脳の中での情報は、このように電気信号によって運ばれて、ニューロン・シナプスを通して次々に化学信号に変換されるのだ。脳が多様な刺激の束を“意味”として反応するしくみがここにある。

     このような神経伝達物質の多くは、伝わってきた情報の信号力を強めるはたらきをする興奮性アミノ酸のグルタミン酸と、伝わってきた情報の信号力を弱める抑制性ギャバのグルタミン酸の代替物質で構成されている。

     おそらく総ニューロンの75~90パーセントは、これらの伝達物質をつかっている。

     ところがこれとは別に、少量ではあるが、重大な役割を担う伝達物質がいろいろあって、その代表的な伝達物質がセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン、アセチルコリンなどなどなのである。このうちのセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンをモノアミン系の神経伝達物質という。いずれも「脳と心と体のあいだ」を調節する。

     セロトニン(serotonin)は体の各所にある。体内セロトニンの90パーセントは消化管にあり、8パーセントが血小板にある。われわれの血液はセロトニンによる血管収縮によって活動する。

     したがって脳に配分されているセロトニンは、全体量からするとごく僅かな配分になるのだが、それでもたいへん重要なはたらきをもつ。

     脳内セロトニンは脳幹の縫線核にひそんでいて、視床下部や中脳への連絡を担っているともくされる。おそらく睡眠、体温調節、性的行動、生体リズムなどの機能にかかわっている伝達物質なのだ。しばしば“睡眠物質”などとも揶揄されてきた。

     他方、うつ病患者の死後の脳を調べた結果、セロトニンの分解物がへっていることが判明した。かくてセロトニンが不足すると「うつ」になりやすいと推定されたのだ。

     脳内のノルアドレナリン(noradrenaline)は視床下部に多く集まって、脳の中の小動脈を調節している。

     その活動範囲はそうとうに広く、闘争反応にも逃避反応にもかかわっている。それゆえわれわれがストレスをためすぎるとノルアドレナリンの量が多く放出され、調節機能をとりもどそうとすることになる。血圧降下薬(レセルピン)はノルアドレナリンを減少させる傾向があるのだが、その血圧降下薬を投与した患者がうつ病になったことから、ノルアドレナリンの減少とうつ病との関連が指摘されるようになった。

     ちなみに、似たような成分のアドレナリンとノルアドレナリンの違いは、アドレナリンが交感神経をへて副腎から分泌される“体内用”であるのに対して、ノルアドレナリンは“脳内用”であることにある。

     ドーパミン(dopamine)はアドレナリンやノルアドレナリンの前駆体で、運動調節、ホルモン調整、快感則、やる気(意欲)、学習性などにかかわっている。

     ただし、他の神経伝達物質とちがって、限られた部位に局在する傾向をもつ。黒質線条体路では運動機能に関与して、ここに障害がおこるとパーキンソン病などをおこさせる。

     中脳皮質辺縁路では情動精神機能を調節し、ここに障害がおこると無気力な気分障害がおこり、ひどくなると統合失調症(分裂病)になりかねない。隆起部下垂体路では下垂体ホルモンに作用する。

     これらのことは確定的な定説というわけではないが、だいたいはこういうことだろうと推定されている。

     ところで、こうしたモノアミン系の伝達物質は、代謝酵素によって酸化されて不活性になる。伝達物質が神経末端終末の膜の中にあるトランスポーターにとりこまれて、いったん活動を休止するからだ。

     トランスポーターにはそれぞれの伝達物質の種類に応じた作用があるらしく、セロトニンの場合は、セロトニン・トランスポーターが分子放出後の伝達物質をとりこみ、シナプス小包で次に再利用されるために貯蔵していることがわかっている。

     ということは、このトランスポーターのはたらきを阻害するクスリを適用できれば、セロトニンの量が操作できるということで、ここから抗うつ薬としてセロトニンをターゲットにする抗うつ薬が開発されていったのである。

     SSRI(選択的セロトニン再とりこみ阻害薬)はこのようにして開発されたのだった。

     もっとも話は必ずしも単純ではない。SSRIをつかえば脳内セロトニンが増加してうつ状態がある程度解消されるのだが、他方、恐るべきセロトニン症候群もあらわれることもわかってきた。

     不安や苛立ちが募り、ときに意識が鈍くなる。さらには幻覚が見えたり、手指がふるえるミオクローヌスという症状が併発する。これにはSSRIをただちに中止して、セロトニン拮抗薬を投与するしかなくなっていく。

     また、モノアミン系の抗うつ薬(三環系抗うつ薬)は脳内のアセチルコリンにも影響を与え、口の渇きや排尿困難などの副作用がともなうこともわかってきた。そこで効果対象をセロトニンに絞った抗うつ薬が開発された。

     だいたいこのような手順が何度もくりかえされて、精神疾患の特定が試みられてきたのである。ちなみにセロトニンとノルアドレナリンの両方の加減をおこす抗うつ薬をSNRIという。

     ざっとは、以上のようにして精神疾患と脳内物質との関係がマッピングされてきたわけである。

     これらのこと、実はいささか懐かしい。

     それというのも「遊」を編集していた1970年代のおわりに、大木幸介さんの『こころの量子論』(日経サイエンス社)と『脳をあやつる分子言語』(講談社ブルーバックス)を目にして以来、ずっと気になっていたことだったからだ。大木さんとは何度かお目にかかり、「遊」にも執筆してもらった。

     一方、「うつ」が気になりはじめたのは、岩井寛(1325夜)さんと親しくしているうちに、森田療法によるうつ病への対処を何度も聞くようになってからだった。この療法は、いまは慈恵医大(現在は森田療法研究所所長)の北西憲二さんらが継承され、とりくんでおられる。『森田療法で読むうつ』(白揚社)という本に詳しい。

     その後、「うつ」についても、「統合失調症」についても、多くの研究や既存療法に対する批判が出まくった。簡便すぎて、あやしい本もそうとうに出た。

     わかりやすくは佐古泰司・飯島裕一『うつ病の現在』(講談社現代新書)、岡田尊司『うつと気分障害』(幻冬舎新書)、岩波明『うつ病』(ちくま新書)、笠原嘉『軽症うつ病』(講談社現代新書)などを読まれるといいだろう。

     「遊」の創刊号からの読者でもあった精神科医の香山リカには『うつ病が日本を滅ぼす!?』(創出版)という社会と「うつ」の現実的な関係を読み解いた興味深い一冊がある。リカちゃんには、五木寛之(801夜)との対談『鬱の力』(幻冬舎)などもある。

     そうしたなか、ぼくがいつも原点に戻るように読んできたのは、中井久夫の『分裂病と人類』(東京大学出版会)だった。人類が最初から分裂病とつきあってきた歴史が、自在な筆致でのべられている。いつか中井さんの本については千夜千冊したい。

     最近、DSMから病名のカテゴリー分類をなくしたほうがいいのではないかという議論がおきている。カテゴリー診断をディメンジョン診断に変更しようという提案だ。この動きは「精神病を脱構築する」というふうに呼ばれている。

     こういう動向もあるにはあるのだが、それでもDSMの牙城はゆるがない。ぼくとしても、本書のようにDSMに敬意をもって正面から挑むだけではないアプローチを紹介したくなっている。

     もっと柔らかくて、ラディカルで、それでいてすこぶる編集的な「心と体と脳」についての関係を、そのうち千夜千冊することになるだろう。

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