外山滋比古

思考の整理学こどもというものは実に創造的である。たいていのこどもは労せずして詩人であり、小発明家である。ところが、学校で知識を与えられるにつれて散文的になり、人まねがうまくなる。昔の芸術家が学校教育を警戒したのは、たんなる感情論ではなかったと思われる。飛行機を作ろうとしているのに、グライダー学校にいつまでもグズグズしていてはいけないのははっきりしている。
いまでも、プロの棋士たちの間に、中学校までが義務教育になっているのがじゃまだとはっきり言う人がいる。いちばん頭の発達の早い時期に、学校でグライダー訓練なんかさせられてはものにならない、というのであるらしい。


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1 Response to 外山滋比古

  1. shinichi says:

    思考の整理学

    by 外山滋比古

    グライダー

     勉強したい、と思う。すると、まず、学校へ行くことを考える。学校の生徒のことではない。いい年をした大人が、である。子どもの手が離れて主婦に時間ができた、もう一度勉強をやりなおしたい。ついては、大学の聴講生にしていただけないか、という相談をもって母校を訪れる。実際の行動には移さないまでも、そうしたいと思っている人はたくさんあるらしい。

     家庭の主婦だけのことではない。新しいことをするのだったら、学校がいちばん。年齢、性別に関係なくそう考える。学ぶには、まず教えてくれる人が必要だ。これまでみんなそう思ってきた。学校は教える人と本を用意して待っている。そこへ行くのが正統的だ、となるのである。

     たしかに、学校教育を受けた人たちは社会で求める知識をある程度身につけている。世の中に知識を必要とする職業が多くなるにつれて、学校が重要視されるようになるのは当然であろう。

     いまの社会は、つよい学校信仰ともいうべきものをもっている。全国の中学生の九十四パーセントまでが高校へ進学している。高校くらい出ておかなければ……と言う。

     ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。

     グライダーと飛行機は遠くから見ると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことはできない。

     学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついていく従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。

     優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。

     グライダーとしては一流である学生が、卒業間際になって論文を書くことになる。これはこれまでの勉強といささか勝手が違う。なんでも自由に自分の好きなことを書いてみよ、と言うのが論文である。グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを要求されても、できるわけがない。グライダーとして優秀な学生ほどあわてる。

     そういう学生が教師のところへ“相談”にくる。ろくに自分の考えもなしにやってきたって仕方がないではないか。教師に手とり足とりしてもらって書いても論文にならない。そんなことを言って突っぱねる教師がいようものなら、グライダー学生は、あの先生はろくに指導もしてくれない、と口をとがらしてその非を鳴らすのである。

     そして面倒見のいい先生のところへかけ込み、あれを読め、これを見よと入れ知恵してもらい、めでたくグライダー論文を作成する。卒業論文はそういうのが大部分と言っても過言ではあるまい。

     いわゆる成績のいい学生ほど、この論文にてこするようだ。言われた通りのことをするのは得意だが、自分で考えてテーマをもてと言われるのは苦手である。長年のグライダー訓練ではいつもかならず曳いてくれるものがある。それになれると、自力飛行の力を失ってしまうのかもしれない。

     もちろん例外はあるけれども、一般に、学校教育を受けた期間が長ければ長いほど、自力飛翔の能力は低下する。グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当たり前であろう。

     こどもというものは実に創造的である。たいていのこどもは労せずして詩人であり、小発明家である。ところが、学校で知識を与えられるにつれて、散文的になり、人まねがうまくなる。昔の芸術家が学校教育を警戒したのは、たんなる感情論ではなかったと思われる。飛行機を作ろうとしているのに、グライダー学校にいつまでもグズグズしていてはいけないのははっきりしている。

     いまでも、プロの棋士たちの間に、中学校までが義務教育になっているのがじゃまだとはっきり言う人がいる。いちばん頭の発達の早い時期に、学校でグライダー訓練なんかさせられてはものにならない、というのであるらしい。

     人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いてはいては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。

     学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんの少ししかしていない。学校が整備されてきたということは、ますますグライダー人間をふやす結果になった。お互いに似たようなグライダー人間になると、グライダーの欠点を忘れてしまう。知的、知的と言っていれば、翔んでいるように錯覚する。

     われわれは、花を見て、枝葉を見ない。かりに枝葉を見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない。

     聞くところによると、植物は地上に見えている部分と地下にかくれた根とは形もほぼ同形でシンメトリーをなしているという。花が咲くのも地下の大きな組織があるからこそだ。

     知識も人間と言う木の咲かせた花である。美しいからといって花だけを切ってきて、花瓶にさしておいても、すぐ散ってしまう。花が自分のものになったのでないことはこれひとつ見てもわかる。

     明治以来、日本の知識人は欧米で咲いた花をせっせととり入れてきた。中には根まわしをして、根ごと移そうとした試みもないではなかったが、多くは花の咲いている枝を切ってもってきたにすぎない。これではこちらで同じ花を咲かせることは難しい。翻訳文化が不毛であると言われなくてはならなかったわけである。

     根のことを考えるべきだった。それを怠っては自前の花を咲かすことは不可能である。もっとも、これまでは、切り花をもってきた方が便利だったのかもしれない。それなら、グライダー人間の方が重宝である。命じられるままについて行きさえすれば知識人になれた。へたに自発力があるのは厄介である。

     指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。それを学校教育はむしろ抑圧してきた。急にそれをのばそうとすれば、さまざまな困難がともなう。

     他方、現代は情報社会である。グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。それなら、グライダーにエンジンを搭載するにはどうしたらいいのか。学校も社会もそれを考える必要がある。

     この本では、グライダー兼飛行機のような人間となるには、どういうことを心がければよいかを考えたい。

     グライダー専業では安心していられないのは、コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれたからである。自分で翔べない人間はコンピューターに仕事を奪われる。

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