芦田嘉之

地球環境を人間が破壊できる範囲は、たかがしれています。過去、何度もあった生物の大量絶滅の規模に比べたら、通常の人間のくらしで関与できる破壊などたかがしれています。自然の持つ巨大な破壊力、包容力、修復力、恒常性を何とか保とうとする力などを充分に把握し理解しないと、見当違いな意見になってしまいます。
環境を守る、地球を守る、などといった傲慢な態度であり続ける限り、実は環境問題など語る資格はないし、解決など絶対にできない、という意見をよく聞きます。やさしくしたり守ったりできるのは、上位のものから下位のものにしかできません。どう見ても人間が地球より上位であるはずがありません。このことをもってしさえ、地球環境保護運動がいかにうさんくさいかがわかります。
人間が暮らしていくということは、必然的に環境を破壊することにつながるわけで、また、それまでにあった生態系を乱すことにも必然的につながります。環境破壊の元凶は人間の存在そのものであることはわかり切ったことです。その上で、なお守らないといけない自然や生態系があるというのでしょうか。

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2 Responses to 芦田嘉之

  1. shinichi says:

    生態系の破壊 自然は守るべきか?1

    by 芦田嘉之

    http://yoshibero.at.webry.info/200707/article_8.html

    農薬などの化学物質が、人体への影響だけでなく、環境への影響が心配されるなどといった意見もあります。
    しかし、環境保護といった場合、いったいどの環境を保護するつもりなのでしょうか。
    生態系の破壊が懸念されるというが、いったいどの生態系を守るつもりなのでしょうか。
    環境保護や生態系を守ろうといったことを言う場合、地球環境のためとか自然のためとかいった物言いを聞くと、うさんくささが目につきます。正直に人のためといえばいいものを。
    人のために環境問題を解決しようといえば別段問題ないでしょうに。
    しかし、たいていの環境保護論は、環境のためとか自然のためとかいって、本音を隠し、かっこよさを装います。そこがうさんくさく見えます。

    地球環境を人間が破壊できる範囲は、たかがしれています。
    過去、何度もあった生物の大量絶滅の規模に比べたら、通常の人間のくらしで関与できる破壊などたかがしれています。
    だからといって、人間が環境を破壊することを免罪されるわけではありませんが、人間だけが悪者ではないし、自然の持つ巨大な破壊力、包容力、修復力、恒常性を何とか保とうとする力などを充分に把握し理解しないと、見当違いな意見になってしまいます。

    環境を守る、地球を守る、などといった傲慢な態度であり続ける限り、実は環境問題など語る資格はないし、解決など絶対にできない、という意見をよく聞きます。
    やさしくしたり守ったりできるのは、上位のものから下位のものにしかできません。
    どう見ても人間が地球より上位であるはずがありません。
    このことをもってしさえ、地球環境保護運動がいかにうさんくさいかがわかります。

    さらに「生態系」という言葉も、もっとうさんくさい言葉です。
    急いで補足しますが、生態学者の言う生態系ではなくて、環境保護論者の言う生態系の話です。学問としての生態系は立派に機能していますが、環境保護論者が生態系という言葉を使ったときに、うさんくささが見られるという話です。

    環境保護論者が言うところの生態系とは、いったいどの生態系を守るつもりなのでしょうか。
    水田が減ってきて、アメンボやメダカが減ってきた。
    たしかに減ってきたでしょう。
    でも田圃はどう見ても自然でないし、自然と対極の人工物でしょう。
    農業を行っている場所であれば、野菜・果物・畜産であろうと、いずれも開墾し人間が自然を破壊した結果できあがった人工的な土地を使って栽培などをしているわけですから、これは、まともな自然の生態系とはとても思えません。人工的に作った環境に生物が寄り集まって来ただけで、その人工的な生態系が環境保護論者のいう生態系なんでしょうか。

    住宅地の庭の木や森林公園の木も、人間が勝手に植えた木です。
    これが自然の生態系とでもいうのでしょうか。
    この人工的な環境にある木を、一本たりとも切ってはいけないんでしょうか。その人工環境にいる虫を、一匹たりとも殺してはいけないのでしょうか。
    人が、それまであった環境を勝手に壊して、そこに本来生えることなどあり得ない木を植えたものです。それなのに、その勝手に植えた木を切るのは環境破壊でしょうか。
    勝手に植えた木に生息する虫を殺すことは環境破壊でしょうか。

    ソメイヨシノは海外でもよく見られる一般的な木になりました。
    日本各地で見られる桜の木は、人間の都合で植えられた木々です。
    ソメイヨシノをはじめ多くの樹木はクローンです。葉がでるより花が先に咲くという特性は、突然変異によりもたらされたもので、クローンでしかその特性を残せません。したがって、すべてのソメイヨシノはクローンです。人間が植えない限り、そこには絶対生えてこない樹木です。
    すべてのソメイヨシノは、本来の生態系を壊して、人間の都合だけで植えられた樹木です。
    人間の身勝手さだけの産物であるにもかかわらず、それでも守らないといけない生態系なのでしょうか。守らないといけない自然なのでしょうか。そこに生息している虫は殺してはいけないのでしょうか。
    桜の花を観賞したいという、人間のきわめて身勝手な行為により破壊されてしまった本来の自然は、不問でいいのでしょうか。

    人間が暮らしていくということは、必然的に環境を破壊することにつながるわけで、また、それまでにあった生態系を乱すことにも必然的につながります。
    環境破壊の元凶は人間の存在そのものであることはわかり切ったことです。
    その上で、なお守らないといけない自然や生態系があるというのでしょうか。

    山間部の奥深いところに棚田というのがあります。なかには千枚田というのまであります。
    棚田を作った人は本当に苦労されたと思います。確かに「美しい自然」です。
    しかし、棚田は本当に自然でしょうか。
    わかりやすくするために、ゴルフ場と比べてみましょう。
    環境保護論者にいわせれば、ゴルフ場は自然破壊の最たる物でしょう。棚田は残すべき自然でしょう。
    しかし、飛行機から見たとき、ゴルフ場も棚田も見た目に違いはありません。
    どちらも自然破壊そのものにしか見えません。どちらも自然を破壊しないとできないものです。
    それでも、棚田はいいがゴルフ場はダメ、という論理は、牛や豚は殺していいがイルカやクジラは殺してはいけないといった論理と似ているように思えます。
    つまり、どちらも人間の都合、好み、身勝手さだけが基準になっているに過ぎません。
    田畑は食糧を得るためで、ゴルフ場は遊ぶためだ。だから違う。という意見もあるでしょう。しかし、これも単なる人間の都合、好みの問題で、本質的な違いはありません。農薬などの自然に対する人工物質の負荷も大して違いがありません。むしろゴルフ場の方がクリーンなくらいです。

    おそらく自然保護系の人たちにとって、「里山の自然」といった言葉に対して、違和感を持たないでしょう。
    人間を「里山の自然」を不自然に思うか思わないかに分類することもできるかもしれません。
    いずれにしても、両者の間で議論がかみ合うことはおそらく永久にないと思われます。

    里山とは当然人間が入植するため、自然を破壊し、人間が暮らしやすいように改良し、植林をし、開墾して田畑を作り、住むための家を造り、それぞれに必要な材料を調達するために自然を破壊して道路を造り、そうした人間活動を通じて本来あった自然を壊すことによってできあがった人工的な場所であるはずです。
    そうであるなら、当然のことながら、このような土地は自然ではあり得ないはずです。
    ものごとを自然と人工に分けるのであれば、どうみても里山は人工そのもので自然な存在とはいえません。
    それでいて、「里山の自然」といって何ら違和感を持たないようであれば、このような人が語る自然保護、地球にやさしく、環境を守ろうといったスローガンをいくら唱えようと、むなしく響くだけでしょう。
    一体全体、守ろうとしている環境なり生態系なりは何なのでしょうか。
    どこにあるのでしょうか。

    里山から過疎で人がいなくなった。
    その結果起こることは、荒れ果てた自然、といわれます。

    これは本当に奇妙な言葉です。

    人が作った里山から人がいなくなると荒れる。
    どうやら人がいなくなった環境は自然に帰るわけではなく、人が手入れしなくなった荒れ地であるらしい。
    荒れ地と言うからには、荒れ地には負のイメージがあり、ダメな土地という意味があると思います。それは、なぜか自然ではないらしい。
    里山なら自然で里山から人がいなくなると荒れ地でダメな土地で自然でなくなる。
    変ですねぇ。

    外来種が海外からやってきた。
    もとの生態系が壊れた。
    元に戻すべきだ。
    自然も生態系も破壊してはならない。
    外来種を駆除すべきだ!!

    一見もっともらしいことに見えますが、では、生態系の乱れは人が介入した場合だけなのでしょうか。
    ちょっと考えればわかることであるが、自然の行いにより生態系の乱れや環境破壊はいくらでも起こっていますし、人間が関与できるよりはるかに強力に自然は環境破壊を引き起こすことができます。
    まして、地球誕生以来、地球が一切変化せず定常状態を保っていたことなどないわけで、つねに変化してきており、生物が誕生してからも、生物相、生態系はつねに変化し続けています。
    それにもかかわらず、人間の関与する生態系破壊だけが罪なのでしょうか。

    そこまで考えなくても、元々日本古来の生物なんていうのはいません。
    どうやってこれは日本古来の生物、これは外来種と区別するのでしょうか。
    一見簡単そうですが、生物の進化を考えるとなかなか単純ではありません。
    外来種といえば、ブラックバスやタイワンザルなどがやり玉に挙がります。
    タイワンザルとニホンザルが交雑し、ニホンザルがいなくなると騒いでいます。そのため、タイワンザルを捕獲駆除することまで行われています。

    でも、ほとんどの野菜や果物などの栽培種が外来種であることはなぜか問題になりません。栽培種と、日本古来の種(あればの話ですが)が交配することもあり得るわけで、何故か全国でかなり多くの面積を占めて栽培されている外来種の作物には、外来種問題のネタになりません。

    このように考えてみると、外来種問題は単に人間の好み、恣意的な問題であることがわかります。
    何も自然保護、地球を心配してのことではなく、自分の好みの種を守りたいだけのような気がします。サルの問題では、名前に「ニホン」と「タイワン」という文字が入っているだけに、なおさら恣意的、政治的な問題になっているに過ぎません。

    外来生物法で問題にしている外来生物は、渡り鳥などを除く海外から来た生物に限定されています。生物の世界にとっては、日本も日本以外もかわりありませんが、人間が勝手に決めた国境を越える生物が外来生物と規定されていますので、人間中心主義です。
    また、本州の生物が、本来いなかった北海道や沖縄や離島に持ち込まれても、それは外来生物に当たりません。
    時代も限定していて、明治時代以降に進入してきた生物が外来生物だそうです。
    ということは、明治以前に導入された栽培種などは外来種にはなりません。
    「侵略的外来生物」というのまであり、法律にするためにはしっかり定義しないといけないので、結構大変ですね。

  2. shinichi says:

    生態系の破壊 自然は守るべきか?2

    by 芦田嘉之

    http://yoshibero.at.webry.info/200707/article_13.html

    自然保護論者がいう守るべき生態系とはいったい何なのでしょうか。
    地球上のどんな場所であっても生物がいる限り単独で存在することはなく、種々の生物間でいろいろな相互作用の元で、すなわち食物連鎖や共生などにより生存しています。
    いかなる生物であっても、食物としては他の生物に依存しないと生きていけません。

    植物がエネルギー源として光を利用したり、大気中の成分を利用したりすることはもちろんあります。なにより、生物の大部分を占める水はもちろん環境などから摂取することになります。
    このような無機物を除けば、有機物はもとよりあらゆる元素は、他の生物から供給されないといけない仕組みになっています。

    この仕組みのため、ある一種の生物だけが単独で生きていくということは、共食いでもしない限り生きていけません。
    もちろん、共食いだけでは、種は存属も繁栄もできませんから、これは不可能です。

    生物相が貧弱であれば特定の生物に頼らなければならないこともあります。
    実際、多くの生物は特定の他の生物に依存して生きています。
    その相手となる生物もまた別の生物に依存して生きています。
    こうして、お互いに依存し合いながら別の言い方をするなら、殺し合いをしながら生きていることになります。
    生態系といっても、あるいは相互依存などといっても、結局は生物種どうしの殺し合いに他なりません。
    他の生物を殺さずに生きていくことは、残念ながらできません。

    人間とて例外ではありません。人間も生物の一種です。
    人間のような大型生物のなかでヒトは地球上で最も繁栄している種でしょう。
    それなりの大型化した生物を維持し繁栄させるためには当然多くの食料を必要とします。
    そのため、というか食料が安定して手にはいるからこそ繁栄したわけで、この安定した食材を手に入れるために農耕を始めました。
    そこには狩猟中心の生活とは大きく離れた生活が待っていました。

    食料を野生に依存するのをやめて、農耕・牧畜を始めたのがヒトが人になったきっかけかもしれません。
    はじめは農地を開墾するだけでも大変であったでしょう。
    収穫量も少なく、何より安定せず、収穫のある年とない年の差はかなり大きかったはずです。
    また、栽培するとしても何を栽培するかその選択を誤れば収穫を見込めません。
    実際、偶然の産物も大きいでしょう。
    野生の実を食べ、その種をかためておいておくと、芽が出てやがて育っていくことを偶然観察したこともあるでしょう。
    そのような比較的強く育つ作物から農耕が始められたのではないでしょうか。

    このように人にだけある重大な特徴、自分で食べるものは自分で育てるという行為を覚えて以来、食物連鎖からヒトは離脱したことになります。
    栽培するとはいえ、もちろん栽培植物は食物連鎖に組み込まれているわけだし、それを食べるヒトも連鎖の中に組み込まれているともいえます。
    しかし、ヒトが他の植物をターゲットにしたり、ヒト自身が他の生物の食料となってターゲットになったり、ということもあったでしょう。

    ところが、安定して食料が生産できるようになると、次の問題が出てきます。
    すでにある生態系を壊さないといけない点、新たな大規模な生態系を作ってしまう点などがあります。
    また、人口も食料に比例して増えていくわけですから、農地も住居も増やさないといけなくなります。
    そうなるとますます既存の生態系の破壊、新規生態系の拡大が起こることになります。

    さらには、単なる食糧の増産にとどまらず、林業にも手を出すようになり、いわゆる里山が誕生することになります。
    この段階まで来ると、人を中心とした大規模な新しい生態系が確立することになります。
    人が作る農産物などに群がる多くの生物も、またその中に組み込まれることになります。

    さて、ここまで考えて、環境問題として保護団体が取り上げる守るべき生態系とはいったい何になるのでしょうか。
    自然の、すなわち人間が関与していない生態系はもちろん含まれるでしょう。
    しかし、元々人間が関与しないのであるからには、これをことさら守らないといけないといった運動をする必要はなさそうです。
    実際、人間が関与していなければそれほど問題にはならないでしょう。
    しかし、人が一度も入ったことのない土地であっても、その環境は刻々とかわりますし、大災害にも見舞われやすいでしょうし、さらには人間が関与していなくても多くの種の絶滅も起こっているでしょう。
    しかし、環境保護団体にとって、自然による自然の破壊は問題にしていないようです。
    人間による破壊のみが問題のようです。

    実際のところ、この自然による自然破壊、といっても自然は破壊しようとしているのではなく単なる変化であろうが、この変化の方が、人間が関与する場合に比べてはるかに大きいでしょう。自然の前に立てば、人間の影響など微々たるもののはずです。
    しかし、とにかくこの点は自然保護論者にとっては不問です。
    先に行きましょう。

    ここで問題となるのは、人間の関与する環境でしょう。
    人間の手で守ろうとか優しくなどと甘言を弄してことさら強調しながら訴えるからには、人間が壊した生態系や人間が新たに作った生態系がふくまれるはずです。

    しかし、以上に見てきたように、人間が新たに作った生態系とやらは、純粋な自然の生態系ではないのであって、人間が勝手に作った生態系であろうから、これを守ろうというのはおかしなことになります。
    田園風景が減った、小川がなくなった、アメンボやメダカが減った、などといって環境が破壊されたといわれていますが、しかし、田園風景は元からあったわけではなく、あきらかに人間が作った人工環境でしょう。
    その人工環境の風景がさらに人間の手により変えられていくだけであって、別段自然との関係という点から見ると問題になるとは思えません。
    勝手に作ったのをまた作り替えただけであり、あるいは勝手に作ったのを必要なくなって破壊しただけであったりするわけで、守るべき自然・生態系には当てはまらないように思われます。

    一方、人間がまだ自然を破壊していない元の環境はどうでしょうか。
    新たに純粋な自然を破壊した場合、これは反対したり保護を訴えたり修復を呼びかけたりするのにある程度妥当でしょう。
    たとえば、前人未踏の奥地で木材の調達のためあるいはエネルギー源あるいは有用動植物の捕獲などを行った場合、たしかにその環境は崩れることになります。
    このことでしょうか。

    以上、環境・生態系を三つにわけで考えました。ひとつは前人未踏の地で、自然による破壊はあるがとりあえず無視する環境。
    保護しようにも人がわけ入るわけではありませんので関与しようがありません。

    ふたつ目は太古から人間が関与して開発してきた環境。
    これにはいわゆる里山もふくまれます。大規模な都市ができるまでの農村は世界各地にあったわけで、有史以来人が破壊しまくって作った環境です。
    その中には、農地のみの田園地帯もあります。
    田園地帯は一件自然に近いと思いがちであるが、そこで暮らしている多くの生物たちはもちろん人間が作り上げた新しい環境に適応した新たに参加した生物群であるはずです。
    もちろん、破壊して作ったからには、その前にあった生態系を破って作ったわけであるから、以前の生態系に組み込まれていた生物群もいたわけで、人の作った生態系にも加わっているものもあるであろうが、有史以来連綿と続けられた破壊された土地での生産活動によって、破壊する前の環境など跡形も残っていないわけであるから、以前の姿など想像することすらできません。

    そのような田園地帯であっても、この環境は守らないといけないのでしょうか。
    この環境というのは、人工的であるとの認識の元、守らなければいけないと唱えている人たちはこの人工環境を守ろうとしているのでしょうか。

    古き良き時代としてメダカのいる環境がいいという意見もあるが、それすら人工環境であるのであれば、何をがんばって守ろうとしているのでしょうか。
    私にはそれが何なのかさっぱり見えてきません。

    三つ目の環境として、新たに破壊した環境があげられます。
    山林の積極的な破壊、とはいっても多くの場合植林していてもとの環境はなくなっている場合もあるであしょうが、あるいは、海岸線の破壊などがあげられるでしょう。
    日本にあっては前人未踏の地などあまりないでしょうが、もしそのような環境を新たに破壊する行為は問題にされてもしかたがないかもしれません。
    そこで、この破壊行為と開発、環境保護とのかねあいが問題になるわけでしょう。

    以下、付け足しです。
    実は自然破壊の解決策はひとつあります。単なる笑い話です。
    ヒトは動物の一種です。自然の一部です。自然の一部であるヒトの行いすべては自然です。
    したがって、人工はありえない。人工がないのであるから里山も自然です。と。

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