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35歳の釈迦は、ガヤー地区を流れるリラジャン川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け、悟りを開いた。
この後7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して、法の方法論、四諦と八正道を彼らに実践的に説いた。

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  1. shinichi Post author

    釈迦

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    https://ja.wikipedia.org/wiki/釈迦

    釈迦は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教の開祖である。

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    縁起とは、仏教の根幹をなす発想の一つで、「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す。

    開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。

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    十二因縁は、仏教用語の一つ。苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法をいう。この因果関係を端的に表現したのが「此縁性」である。

    『阿含経』では釈迦が自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したとあり、人間が「苦」を感ずる原因を順に分析したものであることを説いている。

    古い経典では、釈迦の成道は十二因縁の順観と逆観によると説いているが、これは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであり、この十二因縁が迷の事実を示している。

    無明 – 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
    行 – 志向作用。物事がそのようになる力=業
    識 – 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
    名色 – 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
    六処 – 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
    触 – 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
    受 – 感受作用。六処、触による感受。
    愛 – 渇愛。
    取 – 執着。
    有 – 存在。生存。
    生 – 生まれること。
    老死 – 老いと死。

    老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実であり、生もまた生まれることである。しかし、これは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。これは無常苦の中を行き続ける自己を見つめることで、喜と楽による幸福の儚(はかな)さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味する。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものとされる。

    「老死がなぜあるか、それは生まれてきたから」では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。

    経典は、この愛について三を説いている。
    有愛 – 存在欲。生きることを渇望する心。
    非有愛 – 非存在欲。有愛がはばまれる時に起こる、死を求める心。
    欲愛 – 刺激欲。感覚器官からの刺激を求める心。思考やイメージなど、自分の心(意根)で生み出す刺激も含む。

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    四諦とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である「苦・集・滅・道」のこと。「此縁性」を実践的観点から言い換えたもの。

    苦諦 – 一切は苦であるという真理
    集諦 – 苦には原因があるという真理
    滅諦 – 苦は滅するという真理
    道諦 – 苦を滅する道があるという真理

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    八正道は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。この「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから「聖道」と言う。

    正見: 仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。

    正思惟: 正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。

    正語: 妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。

    正業: 殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。

    正命: 殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。

    正精進: 四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。

    正念: 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」である。

    正定: 正しい集中力を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。

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