小田嶋隆

日本人が過去を美化する時、われわれは、いつも同じ間違いを犯す。わたしたちは、軍隊を美化し、特攻隊を美化し、白虎隊と忠臣蔵と楠木正成を美化する。そして、二・二六事件を美化し、爆弾三勇士を美化し、なんであれ盲目的に目標に向かって突っ走った若者たちの純粋さと、その彼らの死と破滅と悲しみと切なさを美化することになっている。必ずそういう手順で話が進むのだ。だからこそ、私は、そのバカげた手順と結末に懸念を抱かずにはおれないのである。
日本を取り戻そうとしている人たちは、必ずや、五輪を通じて、日本人が一丸となって生きていた遠い伝説の時代を取り戻そうとする。そして、その運動は、ほぼ間違いなく、同じ失敗に帰結する。
**
当時大松監督がチームのメンバーに言ったとされる「俺についてこい」というセリフは、国民的な流行語になった。言葉だけではない。「鬼の大松」と呼ばれた大松氏の指導方針や、人間観や、物腰やしゃべり方のすべてが、国民的な歓呼を持って迎えられたと言って良い。
あの、「大松ブーム」の広範さと影響力の大きさは、いまの人には、わかってもらいにくい部分を含んでいる。というのも、あれは、単純な流行というよりは、日本陸軍的な何かへの郷愁と揺り戻しを含んだ、明らかに反動的な国民運動に似たものだったからだ。
大松ブームの具体的な内容は、大松氏が、全日本女子バレーチームならびに、その代表にほとんどの主力選手を供給していたニチボー貝塚という企業のバレーボール部の監督として実践していた「シゴキ」という指導法のブームでもあった。

One thought on “小田嶋隆

  1. shinichi Post author

    二度目の東京五輪は喜劇として

    by 小田嶋隆

    http://www.dailyshincho.jp/article/2015/10090845/?all=1

     前回の東京オリンピック(以下「五輪」と表記)が開催された1964年、私は小学校2年生だった。

     いまとなっては、実際に自分の目で見たのか、それとも報道や映像から後付けで捏造したものなのか、はっきりしないのだが、ともあれ、私のアタマの中には、晴れ渡った秋の空に5つの円の軌跡を残して飛ぶジェット機の映像が、鮮やかに録画されている。私は、その映像を、随時、脳内再生することができる。

     かように、五輪の記憶は、私の世代の者にとって、輝かしく、美しく、なつかしい、ほとんど夢自体と区別のつかない体験に連なっている。

     しかしながら、2020年の五輪を東京で開催することに、私は、招致運動がスタートした時点から、一貫して反対の意向を表明してきた。理由はおいおい述べる。2013年に招致が決定した後でも、反対の気持に変化はない。開催決定以来、私は、五輪をめぐるメディアの空騒ぎに食傷し、五輪をあてこんだ商売のあざとさを憎み、五輪をネタに何かを企む五輪ゴロの暗躍に間断なく心を痛め続けている。そんな私にしてからが、心の奥底では、どこかしら、五輪を待望していたりする。それほど、幼年期の記憶というのは、度し難いものなのだ。

     私と同世代の人間は、誰でも、ある程度、同じ気持ちを抱いていると思う。

     もっとも、誰もが同じ記憶を共有しているわけではない。記憶へのスタンスの取り方も、人それぞれで、少しずつ違っているはずだ。

     が、ひとつだけ共通しているのは、誰にとっても、過去の記憶は美化されがちだということだ。子供時代に経験したあれこれは、貧しさやひもじさや悲しみも含めて、すべてが、なつかしい思い出に化けることになっている。柿の木の枝先にとまった蝉を取ろうとして転落したことや、道路脇のドブ川で泥だらけになったことも、その悲劇から50年を経過した年寄りにとっては、宝物のような思い出に変貌している。ぞっとするほどマズい脱脂粉乳のミルクが供される給食や、アメリカシロヒトリの幼虫を踏みつぶした時に出る薄緑色の体液さえもが、だ。

     そんな中で、東京五輪にまつわる記憶は、ひときわ鮮やかに輝いている。これはどうしようもない。

     私が懸念しているのは、私と同世代か、それより上に属する年齢の人間たちが、「日本が若くたくましかった時代」「日本人がひとつになっていた時代」というニセの記憶を呼び覚ますためにイベントとしての五輪を消費する近未来だ。

     それは、間違っている。

     というよりも、狂っている。

    ■日本人が過去を美化する時

     日本人が過去を美化する時、われわれは、いつも同じ間違いを犯す。わたしたちは、軍隊を美化し、特攻隊を美化し、白虎隊と忠臣蔵と楠木正成を美化する。そして、二・二六事件を美化し、爆弾三勇士を美化し、なんであれ盲目的に目標に向かって突っ走った若者たちの純粋さと、その彼らの死と破滅と悲しみと切なさを美化することになっている。必ずそういう手順で話が進むのだ。だからこそ、私は、そのバカげた手順と結末に懸念を抱かずにはおれないのである。

     日本を取り戻そうとしている人たちは、必ずや、五輪を通じて、日本人が一丸となって生きていた遠い伝説の時代を取り戻そうとする。そして、その運動は、ほぼ間違いなく、同じ失敗に帰結する。

     誰もがそれぞれのスマホ画面を見つめて黙り込んでいるように見える21世紀の日本人の閉じこもった精神のあり方を、あるタイプの日本人が憎んでいるところまでは理解できる。実際、バブル崩壊からこっち、われわれの気持ちは、変なふうに縮こまっているのかもしれない。

     とはいえ、五輪がその平成の日本人の心をひとつにするのかというと、そんなに都合よく話が進むとは思えない。

     五輪は、日本人を熱狂させるかもしれない。が、われわれが熱狂することは、必ずしも望ましい未来にはつながらない。というのも、熱狂している時の日本人は、熱狂していない時の日本人に比べて、どちらかといえば下品だからだ。 

     1964年の東京五輪が輝かしい記憶としてわれわれの胸の中に残っていること自体、それが本当に素晴らしく、美しい大会だったからというよりは、われわれ自身が、自分たちの幼年期や青春を美しい思い出として永久保存したいと願っているからなのであって、本当の話をすれば、前の東京五輪が開催され、その大会に全国民が熱狂していた時代、わたくしども日本人は、今現在より、ずっと野蛮で、下品で、貧乏で、無神経だった。少なくとも私はそう思っている。

     東京五輪における最大のヒーローを挙げろと言われたら、即座にいくつかの名前が浮かぶはずだが、後の時代への影響力や、幅広い層への国民的人気という点から考えれば、最もふさわしい人物は、おそらく、全日本女子バレーボールチームを金メダル獲得に導いた、大松博文監督ということになるはずだ。

     当時大松監督がチームのメンバーに言ったとされる「俺についてこい」というセリフは、国民的な流行語になった。

     言葉だけではない。「鬼の大松」と呼ばれた大松氏の指導方針や、人間観や、物腰やしゃべり方のすべてが、国民的な歓呼を持って迎えられたと言って良い。

     あの、「大松ブーム」の広範さと影響力の大きさは、いまの人には、わかってもらいにくい部分を含んでいる。

     というのも、あれは、単純な流行というよりは、日本陸軍的な何かへの郷愁と揺り戻しを含んだ、明らかに反動的な国民運動に似たものだったからだ。

     私は、その国民運動の被害者だった。そのように申し上げて差し支えないと思う。大松ブームの具体的な内容は、大松氏が、全日本女子バレーチームならびに、その代表にほとんどの主力選手を供給していたニチボー貝塚という企業のバレーボール部の監督として実践していた「シゴキ」という指導法のブームでもあった。

    「シゴキ」は、子供たちの間でも大流行した。イジメの火付け役にもなった。

     われわれは、足の遅い同級生をシゴき、登下校中の下級生をシゴき、野良犬をシゴき、バッタとカマキリをひとつの虫カゴに閉じ込めてシゴいた。

     が、そこはそれだ。子供たちのイジメのネタになったからといって、ただちにそれがけしからぬ流行だということにはならない。どんな時代であれ、子供は、あらゆることをイジメに応用する。彼らが何かを使って別の子供をいじめるのは、単に、それが面白いからに過ぎない。つまり、ガキにとって、権力的で暴力的で物騒であぶなっかしいものは、なんであれ魅力的だというだけのことだ。

     話を戻す。「シゴキ」は、当然、教育現場にも盛大な形で導入された。頑固者で知られる年配の教師や体育担当の顧問教師は、自分が大松信者であることを明らかにしつつ、様々な「シゴキ」を子供たちに向けて発動していた。

     われわれは、それの実験台になった。

     60年代当時、担任の教諭が子供たちを竹の棒で打擲するようなことは、珍しいことではなかった。が、その暴力教師たちの体罰にお墨付きを与えていたのは、実は、大松日本の金メダルだったわけで、そういうふうに、当時のわが国では、結果として金メダルをもたらし得るのであれば、どんなに理不尽に見える教育方針であれ、歓迎されたものなのである。

    「シゴキ」は、言葉のうえでも「シゴく」「シゴきまくる」「シゴき抜く」「シゴキ番長」「シゴキ練習」というふうに様々な形で活用され、現場に適用された。それゆえ、小学校低学年のチビに過ぎなかった私は、教師にシゴかれ、兄にシゴかれ、兄の友人たちにシゴかれ、なんだかんだで、一日中シゴかれていた。

     ここで大切なのは、「シゴキ」という言葉のブームの中で、幼児虐待や、体罰や、労働強化や、サービス残業といった、様々な暴力と人権抑圧が許容され、推奨され、推進され、美化されていたことだ。

     わが国の集団や組織に根付いてしまっているこの体質は、帝国陸軍以来ほとんど変わっていない。

     それもそのはず、大松博文氏は、当時自らが著書やインタビューの中で明らかにしていた通り、帝国陸軍の生き残りであり、なおかつあの苛酷なインパール作戦から生還した奇跡の兵士だった。

     だからこそ彼は、「極限状態の中でこそ、人間は真の力を発揮できるようになる」 ということをあらゆる機会を通じて強調してやまない人物であったわけで、つまり、なんというのか、大松氏は、五輪という祭の中で召喚された、帝国陸軍の亡霊みたいな人物だったのである。

     結局のところ、終戦からまだ20年を経ていなかった1964年という時代において、人々は、充分になまなましい「戦争」の記憶とともに暮らしていたわけだ。

     無論、過ぎた時代の人物の言動や考え方を、現在の基準で裁くのは、公平な態度とはいえない。歴史上の出来事を、現在の見方で評価することについても同様だ。歴史上の出来事は、あくまでも、当時の時代背景を加味した上で、その意義を解釈せねばならない。

     たとえばの話、江戸時代のお歯黒が女性虐待だとか、仇討ちが殺人賛美だと言ってみたところで仕方がない。そんなことを手柄顔で指摘したところで、歴史が書き換わるわけではないし、教科書の中の人間が反省するわけでもない。

     とはいえ、大松氏の言動や指導法は、64年当時のスタンダードで評価してもなお十分に戦前的であり、軍隊的であり、封建的であった。

     もっとも、大松氏の提示した「シゴキ」と「根性」と「全員一丸」と「連帯責任」と「命令一下」の精神は、それが軍隊臭横溢の反動形成だったからこそ、戦後民主主義と一緒にやってきた「民主的」で「ものわかりの良い」「公明」で「寛大」で「アメリカ的」な戦後教育の拡大と普及に反発を抱いていた人々の心をとらえたという面はある。

     いずれにせよ、帝国陸軍由来の軍事教練を彷彿とさせる苛烈な指導と鞭撻の様相が、当時の一般大衆に大歓迎されたことは、動かしがたい事実だ。

     古い時代の人間が、古い考えで行動し、古い道徳を信奉していたことそのものは、われわれがどうこう言うべきではない。言ってどうなるものでもないし、いまさら変えられるわけでもない。

     ただ、過ぎた時代の美意識やノスタルジーをそのまま現代に再現しようとする人間がいるのだとしたら、それは、なんとしても阻止しなければならない。

     なぜなら、過去の亡霊を召喚することで現在の閉塞状況を打開しようというのは、現代の規範意識で歴史時代の出来事を裁くこと以上に不毛であり、有害だからだ。

     2020年を期して東京に五輪を招致しようとしていた人たちが、64年の東京五輪の時代に思いを馳せているに違いないことは、当時から、明らかだった。

     そもそも五輪招致の運動に、彼らの「昭和回帰」への熱い思いが、赤裸々な形で露呈してしまっていた。

    《今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。/オリンピック・パラリンピックは夢をくれる。/夢は力をくれる。力は未来をつくる。/私たちには今、この力が必要だ。/ひとつになるために。強くなるために。/ニッポンの強さを世界に伝えよう。/それが世界の勇気になるはずだから。/さあ、2020年オリンピック・パラリンピックを日本で!》

     以上は、2013年当時、招致委員会のホームページに記載されていたポエムだが、これを見ても明らかな通り、彼らが目指している当のものは、「五輪」そのものでもなければ、「スポーツ」の普及でもない。

     ひとえに「ニッポン」の「団結」と「力」と「夢」。彼らは、五輪をひとつのテコとして、21世紀の日本人をもう一度あの1964年の東京五輪時点の、勤勉で、献身的で、自己犠牲的で、集団主義的で、従順で、我慢強い、高度成長仕様の日本人に似た人間たちに作り変えることを夢見ている。薄気味の悪い目論見ではないか。

     その兆候は、既にあらわれている。

     つまり、われわれが「ひとつ」になる傾向は、五輪の本大会を待つまでもなく、その準備段階の「国家的」ないくつかの仕事を見つめる視線の中に、はやばやと露呈しはじめている。

    ■良くない意味の「ひとつ」に

     私の見るところでは、エンブレムをめぐる騒動がそれに当たる。われわれは、あきらかに「ひとつ」になりつつある。それも、良くない意味で。

     佐野研二郎氏による公式エンブレムのデザインが、例の騒ぎになったベルギーの劇場のロゴデザインの模倣であるのかどうかという点に限って話をするなら、あれは、「シロ」だと思う。

     ただ、今回、五輪組織委員会が、公式エンブレムを取り下げざるを得なくなったのは、エンブレム自体の瑕疵や不出来というよりは、そのエンブレムのデザインを担当した佐野氏に集中したスキャンダルに屈したからだと見るべきだと思う。作品はともかくとしても、作者の評判があまりにもひどいので、委員会として擁護しきれなくなったというわけだ。

     一連の騒ぎを見ていると、確かに、佐野氏の作品の中には、本人が自ら認めているものも含めて、複数の模倣や剽窃が存在する。デザイナーとしてあり得ない態度だ。が、それでも、私は、今回のエンブレム取り下げ騒動は、異常だったと思っている。何が異常だったのかというと、人々が、五輪に関わる関係者に一点の曇りもない清潔さを求めたことだ。

     佐野氏の過去の仕事を検証するネット上の運動は苛烈を極めた。

     そんな中で、いくつかのトレースやコピペが発覚したわけだが、私は、明らかなトレースが発覚した後でも、なお、佐野氏を全面的に責める気持ちにはなれなかった。なぜなら、あのネット民を挙げての画像検索作業は、そもそも集団ヒステリーであって、彼らが成し遂げた仕事としての「佐野研二郎パクリ疑惑ライブラリー」そのものも、これから先、仔細に検討すれば、おそらく、大きな部分は、集団ヒステリーの結果による、リンチ記録ということになる気がするからだ。

     あの種の運動に熱中する人々は、「正義」の感情に駆られて個々の作業に従事している。「インチキ野郎」であり「コピペ人間」であり「カネとコネとマネの結晶」であり、「おいしい」ところを「うまうまと」いただくことだけで生きてきて、パクリの指摘にも居直った「盗人たけだけしい」稀代の悪人たる佐野研二郎を断罪し、彼の社会的生命を断つのに貢献できるのであれば、どんな小さなものでも見逃さない決意を胸に、彼らはデータを収集している。

     だからこそ、またたく間にあれだけのライブラリーが完成したわけだ。

     が、あのライブラリーは、たとえひとつひとつのネタが、「事実」を含んでいるのだとしても、総体として、佐野氏に不利なネタだけを集めている点で、非常に悪質な印象操作だし、そうでなくても、不公平なデータではある。

     よく似た例に、「フジテレビ韓流ゴリ押し疑惑」のデータ集というのがある。

     これは、ある日、フジテレビの番組に韓国寄りの内容が目立つことに気づいたネトウヨと呼ばれる人たちが、過去の放送を含めて、フジテレビ系列で流された番組の画面を虱潰しにして、その中から韓国を賞賛していたり、韓流アイドルの美しさをたたえていたり、韓国料理のヘルシーさを宣伝していたり、あるいは韓国と比べて日本の現状をクサしているように見える部分を大量に収集した画像集だ。これを見ると、フジテレビの韓流推しの凄まじさに驚愕する。はじめて見た人間は、実際に、韓国のさる筋とフジテレビが裏で繋がっているという彼らの説を信じてしまうかもしれない。

     が、これは、何十万時間という放送データの中から、韓国賛美の部分のみをピックアップしたからこういうデータ集ができたということに過ぎない。

     たぶん、日本賛美の画像を集めればそれなりのものが出来ただろうし、アメリカ賛美の画像だって、本気で集めればとんでもない質と量のデータが収集できたはずだ。つまり、大勢が一丸となってとりかかれば、かなりとんでもないことができる、ということだ。

     しかも、うちの国の人間は、一丸となって何かに取り組むと、ほとんどの場合、道を誤ることになっている。

     愛国を叫び団結を謳っているうちはまだたいしたことはない。が、じきにそれは、「非国民」を吊し上げる運動に発展し、団結に与さない人間を村八分として排除する心性に結実する。

     佐野研二郎氏に対して発動されていたリンチは、そういう成分を含んでいたと思う。この先、五輪の本大会が近づくにつれて、公式キャラクターが決まり、開会式に関わるメンバーが発表され、聖火ランナーが内定することになる。

     と、われわれは、その場所に名を連ねた人間のあら探しをするようになる。で、何か不都合なネタが見つかるや、その人間は吊し上げに遭うことになる。

     大事件は二度起こる。

     ということはつまり、翻訳すれば、われわれはまたしてもやらかすだろう、ということだ。

     大事件は二度起こる。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として……とは、ヘーゲルとマルクスの「合作」だが、私たちは、誰も笑えないと思う。

     まあ、私は片頬で笑うつもりだが。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *