内井惣七

近頃はやりの考え方によれば、「科学」は社会制度や法律、文化や芸術作品と同じように、人間が社会的営みの中で作り出したものである。したがって、人間の社会的営みがあるところには必ず「倫理」の問題が出てくるので、科学といえども倫理の問題は避けて通れない、ということになる。このような答えは、当然のように見えて、ほとんど内容がない。なぜなら、先の問いの本質的な部分は、「なぜ倫理か」という部分だけではなく、「なぜ科学か」という部分にもあったはずだからである。

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  1. shinichi Post author

    科学の倫理学

    by 内井惣七

    http://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/Sci.Ethics/

    近頃はやりの考え方によれば、「科学」は社会制度や法律、文化や芸術作品と同じように、人間が社会的営みの中で作り出したものである。したがって、人間の社会的営みがあるところには必ず「倫理」の問題が出てくるので、科学といえども倫理の問題は避けて通れない、ということになる。このような答えは、当然のように見えて、ほとんど内容がない。なぜなら、先の問いの本質的な部分は、「なぜ倫理か」という部分だけではなく、「なぜ科学か」という部分にもあったはずだからである。したがって、「科学の倫理学」と看板を掲げたからには、真っ先に問題となるのは「科学とは何か」ということである。

    「科学の倫理学」と限定があるので、技術や技術者の倫理の話には、どうしても必要な場合以外には言及しない。科学と技術とがだんだん切り離しにくくなってきていることは事実であろうが、技術の場合には、例えば「一定の耐震強度」というような具体的に実現すべき技術的目標があって、それを満たすためにどういう材料を使うか、どういう構造的工夫を考えるべきか、という目的-手段関係があることがはっきりしている。これに対して、科学の場合には「この現象はどのようにして起きるのか」、「天体の運動はどのような規則性によって支配されてるのか」といった、「・・・を知りたい」という知識の要求が基本であろう。「知ってどうする」という目標や応用は、知識自体とは一応切り離される問題である。そこで、自然現象や社会現象も広く含めて、「・・・を知りたい」という要求を満たすための、ある程度組織的な営みを、さしあたっては「科学」と見なして話を始めることにしたい。

    抽象的に「科学の倫理」を論じるのではなく、本来、科学者の倫理を論じるべきではないのかという指摘もされよう。しかし、人間一般ではなく「科学者」の倫理を論じるためには、「科学」という営みの共通項でくくれる範囲での倫理が問題になるのだから、「者」を入れようが入れまいが、あるいは「科学者集団」を持ち出してことさら「社会学的視点」を強調しようがしまいが、問題の本質には影響がなかろうと見るのがわたしのスタンスである。もちろん、「科学者の倫理」にも意味があり、「科学の倫理」と密接に関係することは言うまでもないが、これは「科学の倫理」という基本から派生するものだというのが、わたしの見方である。

    「科学の倫理」と「科学者の倫理」の区別がわかりにくいという指摘を受けたので、わたしの意図を簡単に説明しておく。「科学」の特徴づけを「知りたいという知識の欲求を満たすある程度組織的な営み」としたが、第1章ですぐ明らかになるように、科学的知識の獲得者に伴う第一義的な価値は、誰が最初に発見したか、知ったかという「先取権」にある。そこで、先取権を守るためのルール、およびそれから派生するルールを総称して「科学の倫理」とみる、というのがわたしの基本的な考え方である。これに対して、「科学者の倫理」の方は、科学の倫理を守るために、個々の科学者に一般的に要求されることに加えて、科学の営みを「職業として」追究することから派生する付加的な義務も加える。簡単に言えば、商業や建設業ではなく、科学研究で生計を立てることによって、ほかの職種とは違うどのような義務が生じるかというのが「科学者の倫理」である。もちろん、科学者が職業として成立するためには、社会の側での制度的な整備も必要であり、社会にとって「科学知識」の価値があることも前提されている。

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  2. shinichi Post author

    科学者の責任を考えるために

    by 内井惣七

    http://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/resp.sci.html

    1. 原爆開発と科学者の責任

    科学者の社会的責任について論議を始めた草分けは、日本では、パグウォッシュ会議についての報告や所見を述べた湯川秀樹、朝永振一郎らの論文であろう。その経緯についてまず触れておこう。そもそもの始まりは、冷戦と核軍拡競争の激化を憂慮した「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955、湯川が署名、ビキニでの第五福竜丸の被爆も触れられている)であり、その精神に基づき東西の科学者たちによって1957年にカナダのノヴァ・スコシアの寒村で始められたのが(その地の名前をとって)パグウォッシュである。最近での論議はもっと広がりを見せ、唐木順三の遺著『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』(1980)をきっかけとして、武谷三男『科学者の社会的責任』(1982)、村上陽一郎『科学者とは何か』(1994)、あるいは藤永茂『ロバート・オッペンハイマー』(1996)などの著作が現れている。

    わたしがこの問題にかかわり始めたのは、村上の前掲著書の書評(内井1995)を頼まれ、書評の後もいくつか重大な疑問と不満が残ったからである。まず、村上は話のマクラに使った唐木の問題意識や議論とまともに対決しない。原爆を作り出した物理学の「罪」を糾弾し、物理学者の「罪の意識」を問題にする唐木の議論は傾聴に値するのかどうか。わたし自身の検討によれば、率直に言って、唐木の議論から「科学者の責任」の問題について学ぶべきものはほとんどない、と言い切れる。しかし、第一回のパグウォッシュ会議の報告に触発された唐木の問題意識と、湯川と朝永を比較して湯川を断罪した唐木の判断を紹介して話を始めるのなら、パグウォッシュ会議の問題意識とその活動の内実、およびこの会議の出発点となったラッセル・アインシュタイン宣言(1955年)の、あるいは原爆開発のマンハッタン計画の前後にわたる科学者たちの言動の検討は不可欠である。村上の本では、これが(わたしのような歴史には疎い)哲学者の目からみても不十分である。わたしが自分で調べてわかったのは、これらの動きの中に、実は、近年の「科学者の責任」の問題の源流があったということである。

    もちろん、村上ほどの鋭い感覚の持ち主がこれに気づかなかったはずはない。その証拠に、科学者集団の全般的な「無責任態勢」を厳しく論難した彼の本にあって、好ましい科学者像の一つの手本として賞賛されているのはレオ・シラード(1898-1964)である。核分裂の連鎖反応の可能性にいち早く気づいていた彼は、アインシュタインにルーズヴェルト大統領宛にナチス・ドイツに対抗するため原子爆弾開発を勧告する手紙(1939年)を書かせたという功績(?)により、核兵器の歴史が語られるときには必ず言及される、いわば「伝説的」人物である。彼は、また、マンハッタン計画に参加するかたわら対日戦争での原爆使用に対して最後まで「反対請願」を展開したことでも知られる。しかし、村上のシラード評価は、ある種の「伝説」をほとんど無批判に継承したとしか思えない。引用してみよう。

    このシラードの行動は、専門家としての知識(それは、当時の当該分野においてもっとも先導的な種類のものだったことは、明らかである)を十分に駆使しながら、しかも、国家や政府の行動原理、あるいは軍事的な環境からの圧力のもつ意味、あるいは国際軍事情勢についての基本的な、しかし正確な知識を組み合わせ、健全な推理力と洞察力によって、単に専門領域のなかの専門的知識における判断ではなく、より包括的な、人間個人やそのグループとしての社会集団に関する判断を造り上げた、希有の例のように思われる。(村上1994、126-127)

    このようなシラード賛美は珍しくないにせよ、その根拠が問題である。「希有の例」なら歴史的資料に基づくしっかりとした理由づけが必要なはずであるが、村上の本にはどこにもそれがない。この箇所に、わたしは「神話?!」という書き込みを入れておいたが、案の定このような評価に真っ向から反対する見解が現れた。それは、わたしがいままで読んだなかではもっとも感銘を受けたオッペンハイマー評伝、藤永(1996)のシラード評価である(同書226-238)。翻訳文献からの引用に終始する村上とは異なり、オッペンハイマーが結果的に公職から追放されることとなる「聴聞会」の記録を含む多くの一次資料を丹念に当たった藤永(彼の兄は長崎の被爆者である)の著書は、資料の扱いと全般的な信憑性において、村上の略式の「ケース・スタディ」とは比べものにならない。この半年あまりで入手できた資料については、わたし自身もチェックしたのでそう判断できる。

    その藤永の判断によれば、一言でいえばシラードは「堕ちた偶像」(同書226)である。むしろ、藤永の評価が高いのは、シラードと同じく、マンハッタン計画ではシカゴの冶金研究所で働いていた、そして大戦末期には原爆の対日戦での不使用を強く勧告する「フランク・リポート」を政府に提出した、ジェームズ・フランク(1882-1964)のほうである。世評に反してなぜ藤永のシラード評価が低いか、その一つの有力な根拠は、シラードの親友であり、やはり冶金研究所で働いていたウィグナー(1902-95)の証言からくるのであろう。村上の評価が妥当だと思う人は、一度ウィグナーのシラードに関する証言(歯に衣着せぬ直言と親愛の情とが入り混じっている。Szanton 1992, 222-229)に目を通して、その評価が変わらないかどうか試してみるとよい。シラードのある種の先見性や優れた行動力までも否定する必要はないが、わたしは村上よりは藤永の評価を支持する。


    2. 「フランク・リポート」

    さて、わたしの見るところ、この「フランク・リポート」こそ、科学者の責任についての近年の論議の一つの原点にほかならない。委員長フランクとシラードも含め七人のメンバーからなる委員会によってまとめられたこのリポートについては、すでに多くの研究がある(例えば、中沢1995、141-144、藤永1996、222-226)。このリポートは、現在ではウェッブ・ページでも簡単に読めるので一読すれば明らかなとおり、格調の高い立派な報告である。その内容は、簡単にいえば、核兵器の威力を最も早く認識した科学者たちによる、核兵器不使用の勧告、および世界平和に対する重大な危惧の表明と解決策の提言とを含んでいる。このリポートの先見性を理解するためには、リポートの日付けが1945年6月11日となっていることに着目しなければならない(ロス・アラモスのプルトニウム爆弾の実験が成功したのは7月16日である)。

    小論でとくに取り上げたいのは、このフランク・リポートから、科学者の社会的責任を考えるためのどのような示唆が得られるか、という一点だけである。おそらく、大多数の読者には、直ちに次のような疑問がわくであろう――「なぜ彼らはこのような報告書を政府に提出する必要性を感じたのか」。リポートでは次のように述べられている(I.序文)。

    過去においては、科学者たちは、利害を離れた科学的発見が人類によって利用されたことに対して直接の責任はないと主張することができた。われわれはいまや同じ態度をとることはできない。なぜなら、核エネルギー開発においてわれわれが成し遂げた成功は、過去のいかなる発明とも比べものにならない大きな危険を伴うからである。

    もちろん、現代の読者にとってはこれはもはや常識かもしれない。しかし、シカゴの冶金研究所は世界で初めて原子炉において核分裂連鎖反応の制御に成功した(1942年12月)ところであり、マンハッタン・プロジェクト自体も軍事機密であったことを想起しなければならない。フランクらは、こういった最先端の知識をもったひと握りの専門家集団であった(また、ロス・アラモスの研究者たちは、原爆の技術的な難問と格闘していて、おそらく原爆使用の倫理問題にまで考えを及ぼす余裕がまだなかった)。そして、この引用文では、そのような専門家によって「科学者の責任」がはっきりと言及されている。しかも、その「責任」の論拠も十分に明確である。すなわち、ある科学的発見(や発明)が人類の利害にとって重大な関わりがあると見なされるとき、それにいち早く気づいた科学者には、それを何らかの形で人びとに知らせ、適切な方策を模索するよう勧告する責任が生じる、という見解である。

    このような見解がフランク・リポート以前にはっきりと表明されたことがあったかどうか、わたしには現在のところ不明であるが、これ以後、ラッセル・アインシュタイン宣言、パグウォッシュ(この会議と長年事務局長を務めたロートブラットには、1995年のノーベル平和賞が贈られた)、そして湯川、朝永らによって実質的に同じ見解はくり返しくり返し述べられていくことになる。その具体的証拠は後にいくつかあげることとして、このような「責任」または「義務」がなぜ「科学者」に生じると言えるのか、その理由をもう少し突っ込んで考えてみたい。


    3. 専門家の義務

    責任や義務の根拠を一般的に考察するのは、哲学のなかでも「倫理学」と呼ばれる分野の課題であるが、ここではそれほどむずかしい理屈がいるわけではない。われわれ人間は社会生活を営んでおり、そのなかでいろいろな役割をこなさなければならない。大学教師には教師の義務が、建築を請け負った大工には請負人や職人の義務が伴う。例えば、わたしのような国立大学の教師には、明文化された法や規程で定められた「職務」に加えて、「そのような『職務』をできるだけ忠実に果たすべし」という倫理的義務がある。

    ここでは、責任あるいは義務の概念に二つのレベルがあることを注意したい。(1)ひとつは、法、規程、慣習などで内容をある程度決められた義務である。わたしの例では、「定められた講義を行ない、学生を指導すること」、「出張や研修に際しては所定の届を提出すること」という内容の義務がこれにあたる。しかし、いくらこと細かにこういった義務を規定しても、それを実行するかしないかは個人次第である。幸い、社会的動物である人間には「倫理」というインフォーマルな制度または性向が備わっており、個人は多くの義務を「そうすべきだ」と納得して実行する。そうでない場合は、仲間の人びとからの冷たい視線による制裁が伴うこともある。そこで、このレベルでの「すべきだ」という義務は(2)倫理的義務として個人によって承認され実行される。わたしの場合、講義を時間どおりきちんと行なうよう努力し、学生に宿題を課して添削し、遅刻、サボリに厳しくしているのは、「それが倫理的に正しい」と考えるからにほかならない。

    さて、少々堅苦しい話になってしまったが、フランク・リポートで言及されている「責任」は、基本的に倫理的義務のレベルの話であることが明らかである。(1)のレベルの「科学者としての職務」は、おそらくいまだかつて規定さえされていないであろう。しかし、だからといって(1)のレベルの話が無関係だと速断してはならない。大工やその他の職人の「職務」も(中世のギルドの場合はいざ知らず)別にあからさまに規定されているわけではないが、長年の慣習や、人びとの間で形成された当然の「期待」などによって、人びとの間である程度共通の理解がある。フランク・リポートでは、「原子爆弾以前の科学者については、この共通理解のうちに、科学的成果の現実的な帰結に対する配慮やそれについての報告義務などは含まれていなかった」と示唆している。そして、「それにもかかわらず、核エネルギー開発については、科学者は同じ考えを踏襲すべきでない」と主張し、おそらくは科学者の「職務」についてのこれまでの(1)のレベルでの共通理解にも改変が必要になってくる、と示唆しているのである。この「べし」は倫理的なレベルの話であるから、当然相応の理由づけが必要である。そこで、フランク・リポートでは、科学者の「職務」や「なすべきこと」を決める際の原則として、より一般的な「人びとに重大な被害をもたらさないこと」という基準をもちだし、それに則って考えるとリポートで提示するような勧告が出てくる、と主張している。

    要するに、自分の研究分野でそのような被害が予見できるときは、科学者にはそのことを知らせる義務がある。なぜなら、その分野の専門家である科学者をおいてそのような予見ができるものはいないからである。この理由づけは、言われてみれば、単純であるが十分説得力があり、科学者の責任や義務を導くための基本的理由づけである、とわたしは考える。前提とされている価値判断は、人類への被害を回避すべきであるという、誰でも同意できる価値判断である。また、科学者の義務や責任は、知識の専門家としての役割に即した内容になっていることに注意されたい。「知識の専門家」という役割を「建築の請負職人」とか「医療の専門家」という別の役割に置き換えれば、この理由づけの基本構造は、社会生活のなかでのほかの職能や職業にも当てはまる、いわば「職業倫理」の理由づけとしても通用する。


    4. 「ラッセル・アインシュタイン宣言」

    フランク・リポートには、これ以外にも、軍拡競争の的確な予見、「非人間性」という点での化学兵器と原子爆弾との比較、戦争を終らせるための手段としてなら無人島での示威実験でも十分ではないかという提案、核兵器の国際的管理の可能性についての考察など、数多くの傾聴すべき内容が含まれているが、これ以上は触れない。どうしても触れておきたいのは、このリポート以後の論議の展開である。機密文書扱いされたこのリポートが、直接的で多大な影響力をもたなかったことは致しかたがない。しかし、ラッセル・アインシュタイン宣言とパグウォッシュ会議などを通じて浮び上がってくる考え方は、科学者の責任については、このリポートのものと基本的に同じである。

    ラッセル・アインシュタイン宣言は、水爆の開発によりさらに破壊力の増した核兵器の現状を認識し、人類破滅の道を防ぐ方策を探るため、まず冒頭で科学者たちに会議に集まるよう呼びかけていることに注目すべきである。このことは、国籍や主義主張の違いをすてて「人類の一員として語っている」という有名な文句に劣らず重要である。さらに、宣言のいたるところで当時の最先端の専門家の知見あるいは見解が言及され、「彼らの見解が彼らの政治的立場や偏見に基づいているという証拠は見いだせない。われわれの知るかぎり、彼らの見解は専門家としての知識の深さのみに依存している。そして、最も深く知る者が最も憂慮していることがわかった」と主張されている。この論調がフランク・リポートのそれと親近性が強いことは、すでに明白であろう。また、この宣言に署名した11名の顔ぶれをみても、数人の核物理学者に加え、放射線医学や遺伝と生理学の専門家、化学者など、国籍の異なる多くのノーベル賞学者をそろえたことにも、宣言の内容に見合うメッセージが込められているようである。


    5. パグウォッシュ、朝永、ロートブラット

    さて、この宣言を受けて1957年に第一回のパグウォッシュ会議が開かれ、三つの議題が論じられた。第一は「原子エネルギーの利用の結果起こる障害の危険」、第二は「核兵器の管理」、そして第三は「科学者の社会的責任」の問題である。これらのテーマ自体、フランク・リポートで扱われた問題と見事な符合を見せていることに注意されたい。さて、第三のテーマを議論した第三委員会の結論は、科学研究の自由を守ることに加えて、これからは科学者がみずからの社会的責任も自覚しなければならないというものであった。唐木は、これを「研究の自由が第一、責任は第二」と誤解し攻撃したのであるが、責任の指摘がポイントだったはずである。この点については、実は朝永の行き届いた解説(1963年)が残されているので、それを援用しよう。朝永は、まず科学的発見とその技術的応用との距離が近年では著しく短くなったことを指摘し、次のように続ける。

    発見の多くは直ちに新技術の開発となり、その社会的影響は善悪いずれにせよ直ちにあらわれる。科学者はその目で影響を見うるし、しようと思えば、それを善の方に、また悪の方に向けることもできる。一歩ゆずって、善悪どちらの方に向けるかという決定は科学者以外の人がするとして、どういう使い方をすれば善になり、どういう使い方をすれば悪になるか、また、善用がどれだけ好ましいものであり、悪用がどれだけ破壊的なものであるかの正しい評価は科学者が科学上のデータに立って始めて行ない得ることである。したがって、少なくともここまでの作業の責任は、科学者が負わなければ誰も負うことのできないものである。(朝永1982、154)

    この考え方は、フランク・リポートが核エネルギー開発の問題に限定して提唱した原則をもう少し敷衍し拡張したものにほかならない。パグウォッシュの解説の文脈においてだけでなく、朝永みずからがフランク・リポートと基本的に同じ考えを踏襲していることは、次の文章(1960年)からも一目瞭然である。

    ・・・科学の発見が原子力の平和利用をもたらすと同時に核兵器をもたらしたという例からわかるように、科学の発見の人類社会に及ぼす善悪両方の影響が極めて大きいので、科学者には今までになかった責任がかかっているということである。すなわち、かつては科学者は自分の専門の研究だけをしていればよかったが、今では、その研究の成果が人類に何をもたらすかをよく見定め、善についても悪についても、世の人びとにそれを周知させ、警告する仕事を引き受けねばならない。科学者がこれを引き受けねばならない理由は、科学者はその発見のもたらすものを普通の人びとより、より早く、より深く知っているからである。(朝永1982、70)

    最後に、フランク・リポートとほぼ同じ路線をとっているもう一つの重要な例として、すでに触れたロートブラットのノーベル賞講演からの引用をいくつか付け加えて、わたしのこれまでの主張をさらに補強しておきたい。ポーランド出身のジョゼフ・ロートブラット(1908-)は、イギリスの科学者チームの一員としてマンハッタン計画に参加し、ロス・アラモスで働いていた物理学者である(詳しくは、藤永1996、220-222参照。NHK でロートブラットの活動を描いた番組も放映された)。しかし、ナチス・ドイツでの原爆開発が進んでいないことを知った彼は、ロス・アラモスを去ってイギリスに帰国し、その後ラッセル・アインシュタイン宣言の署名にも名を連ね、パグウォッシュ会議の活動に長く貢献した。ノーベル賞講演(Rotblat 1995)で彼は次のように述べている。

    年若いときから、わたしは科学に情熱をもっていました。しかし、人間知性の最高の力の行使である科学は、わたしの心のなかでは常に人びとの利益と結びつけられていました。わたしの見るところ、科学は人間性と調和していたのです。わたしの後半生が、科学によってもたらされた、人間に対する重大な危険を防ぐための努力に費やされることになろうとは、わたしは想像もしませんでした。

    言うまでもないことであるが、ロートブラットが、フランク・リポートと同じく、科学研究の価値の源として人類の福祉あるいは利益を前提していることは明らかである。しかし、原子爆弾に象徴される、科学の危険な成果に気づいた彼は、「いまや、科学者たちの倫理的な行為のガイドラインを、おそらくは自発的になされるヒポクラテスの誓いのような形でまとめる時がきたのです。これは、若い科学者たちがみずからの科学的キャリアを踏み出すに際して、とくに有益でありましょう」という提言に踏み込むのである。そして、講演のなかで彼が同僚の科学者に訴える部分は、次のように締めくくられている。

    社会生活のなかで科学がかくも強大な役割を果たし、人類全体の運命が科学研究の成果に依存するかもしれないこの時代には、すべての科学者にとって、科学のこの役割を十分にわきまえ、しかるべき行動をとることが義務として課せられるのであります。わたしは、同僚の科学者たちに、人類に対する彼らの責任を忘れないようにと訴えかけます。

    このような論調と議論の運びとが、まさしくフランク・リポートと軌を一にすることは、もう指摘の必要もないであろう。すでに述べたように、わたし自身はこのような見方を支持し、「知識の専門家」という科学者の役割と健全な常識的倫理判断とから、科学者の義務と社会的責任とは比較的容易に導き出すことができると考えている(詳しくは、Uchii
    1998, 8-11)。むずかしいのは、その義務や責任を実際に、個々の科学者がおかれた状況で実践することであるが、例えば、パグウォッシュそのほかでのロートブラットの後半生の活動は、一つの模範となるかもしれない(藤永1996、222冒頭に引用されたロートブラットの言葉も是非参照されたい)。

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  3. shinichi Post author

    遺伝と統計のはざまで──ゴルトンの優生学

    by 内井惣七

    http://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/Sci.Ethics/eugenics1.html

    遺伝と統計のはざまで──ゴルトンの優生学

    これまでは主として物理学者や化学者の事例を多く取り上げてきたが、近年では生物学系や生命科学系の分野で種々の大きな進展があり、科学の倫理もそういった方面に関わりがある問題を多く抱えるようになってきた。しかし、歴史的には核開発より前に、遺伝学や進化生物学がらみで大きな倫理問題が一つ現れていた。それが、19世紀後半に出現し、20世紀初めから中葉にかけてとくに盛んだった「優生学」をめぐる問題である。これも、科学の倫理や科学者の倫理を考える上で避けて通れない事例なので、以下で少々立ち入ってみたい。

    フランシス・ゴルトン

    優生学の創始者として有名なのは、イギリスのジェントルマン科学者、フランシス・ゴルトン(1822-1911)であるが、彼はまた統計学の分野で大きな貢献をしたことでも知られる。チャールズ・ダーウィンの父親とフランシスの母親とは異母兄妹だから、チャールズとフランシスはいとこに当たる。フランシス・ゴルトンは医学の修行を少し行なった後、ケンブリッジで数学を学んだ(彼は、何事にも数を数えるのが好きだった)が、1844年に裕福だった彼の父親が亡くなり、大きな遺産を相続する。彼に大きな転機が訪れるのは、1850年に、王立地理学協会の後押しだが自費で南西アフリカの探検に出かけ、まだヨーロッパには知られていなかったこの地域の地理学的データを集めて1852年にイギリスへ帰国した後である。この貴重なデータにより、彼は同協会の金メダルを授与され、会員に推挙された。ここから、彼の「科学者」としてのキャリアが始まるのである。1859年に出た『種の起源』はゴルトンにも大きな影響を与えたようである。1860年代には、ヘンリーと同じように気象予報の可能性を求めて、気象学の研究にも手を着けた。

    しかし、何といっても、ゴルトンの名を有名にしたのは1865年に『マクミランズ・マガジン』に二部に分けて発表された「遺伝的性質と才能」という論文である。この中で、後に彼が「優生学」と名づけた考え方の基本が初めて展開されたのである。この論文は、後に改訂されて『遺伝的天才』(1869)という書物になる。その後、彼の研究は、遺伝の法則を求めて、エンドウマメの栽培実験や、人間の身長(親子の身長の相関関係)の統計的な研究に向かう。かくして、遺伝の問題と、統計的な研究手法とが組み合わさるのである。生物の多くの形質がベル型カーブの分布(正規分布、図を参照)に従うことは19世紀の重要な発見の一つである。例えば、人間の身長あるいは胸囲の値を横軸にとり、特定の値をもつ個体数(人数あるいはパーセンテージ)を縦軸にとってグラフに描けば、調べた人数が多ければ多いほど、正規分布の曲線に近い形をとる。ゴルトンはこの正規分布がもついくつかの重要な性質を実験的に示すために、「クインカンクス」というパチンコ台に似た装置(1873-4年)を作ったのである。また統計的「相関」の重要性に気づいたのもゴルトンである。これらには追々触れていくとして、まず1865年の論文(二部に分かれているので、第一論文、第二論文と呼ぶことにする)の内容を見なければならない。

    動物の育種から人間の才能改善へ

    第一論文の冒頭の文章は暗示的である。

    動物に対する人間の力は、人が好むどのような形態の変種でも作りだせるという点で、きわめて大きい。将来の世代の身体的構造は、あたかも粘土と同じように可塑的で、育種家の意のままに管理できるかのように見えるであろう。(Galton
    1865)

    これは、もちろん、家畜の品種改良などの経験から来た一般化である。ただし、これは経験的一般化であるから、背後にある遺伝の法則についてはよくわからないままの話である。そこで、ゴルトンは、身体的構造について成り立つことが心的能力についても成り立つだろうと外挿し、動物について成り立つことは人間についても成り立つはずだと推測し、さらに人間の才能についても同じようなことが言える、とつないでいくという、きわめて野心的な論旨を展開するのである。当然、遺伝の法則がわからないままの話では説得力に乏しいので、その法則についての研究を、不正確な常識レベルから数量的なデータで裏づけられる統計的な規則性のレベルにまで高めて検証しようという新しい試みの第一歩を提示する。

    彼が最初に使ったデータは、人名辞典(サー・トマス・フィリップス編)からとられ、1453年から1853年までにわたる605人の著名人、才能や能力で名前を挙げた人々のリストである。これらのうち、102人が血縁関係にあることをゴルトンは見いだした。約、6に対する1の割合である。これに力を得て、ゴルトンは別のもっと大きな辞典に当たり、Mの項目に含まれる1141人を調べ、103が父子または兄弟であることを見いだす。これは11に対する1の割合である。こういった調子で、芸術家、科学者、法律家と分野を変えていろいろと統計をとってみても、多くの血縁関係が目に付くことを根拠にして、「才能には遺伝的影響が強くはたらく」ことは疑いがないとゴルトンは結論する。もちろん、この論文を練り上げて本にした『遺伝的天才』(1869)や、後年のゴルトンの研究は、もっと入念な分類に基づいた統計をとったり、このたぐいの調査をきちんとした形質を選んでもっと入念な統計的実験にかけ、統計的な相関の研究を洗練していくことに費やされる。しかし、この1865年の論文では、この予備的調査の後ですぐに次の「予想」が現れる。

    才能の伝達は父親の側だけでなく母親の側からも生じることが疑いないので、もし卓越した女性が通例として卓越した男性と結婚するということが何世代にもわたって行なわれるなら、・・・彼らの子孫はいかに大きく改善されることであろうか!

    いま紹介した、第一論文の推論の流れのうちに、ゴルトンの「優生学」のエッセンスは、荒削りだが、ほぼすべて含まれている。そして、同じメッセージは、第二論文の最初の段落最後でも別の言葉で確認される。

    わたしが明らかにした諸事実と類推により、才能のある男たちが、彼らと同じ心的および肉体的性質を持つ才能のある女とめあわされ、これを何代も何代も続ければ、人間の改良品種を生み出すことができよう。これは、競走馬や狐狩り猟犬の確立した品種で示されると同程度に、より劣った祖先種に先祖がえりはしないはずである。

    端的に言えば、家畜の品種改良と同じように、人間の品種改良も可能である。すでにふれた正規分布との関係でいえば、ある形質の平均値のまわりの山を、平均値より右側、数値の大きな方にずらせていく方策にゴルトンは強い関心を示した。平均値は彼にとって「凡庸」であり、優れた方の例外を目指したのである。事実、後の『遺伝的天才』では「平均からの偏差」の法則が言及される(Galton
    1869, 22)が、これは正規分布での偏差の話であり、別名「誤差の法則」という形で多くの人々によって論じられたものにほかならない。この本で、ゴルトンは知性や各種の才能を含む人間の多くの性質が(平均値を中心に、劣った程度から優れた程度まで)正規分布するだろうと予想したのだが、後にはもっと用心深くなっていく。なぜなら、例えば知性の程度を数量的にはかる手段など、ゴルトンは持ち合わせていなかったので、きちんと測れる形質から始めて、統計的な分布を実証していく必要があったからである。こういった点では、彼は知的誠実さを備えていた。こういった測定や統計的な研究は、後にもっと若い専門家、カール・ピアーソンやウォルター・ウェルドンらの協力を得て、「生物測定学」という専門的研究に結実していく(この学派のジャーナル『バイオメトリカ』創刊は1902年)。

    さて、人間能力の「改良」のための卓越性の基準は、ゴルトンにはおそらくはっきりしていた。肉体的に頑健で、知性が高く、芸術的感覚にも優れており、気質においても倫理的能力においても好ましい、国家や社会に大きく貢献できるような諸性質を備えていること。女には女にふさわしい形質も求められる。ゴルトンは、もちろん、これを人間の社会や国家にとって「よかれ」と考えて提唱しているのである。また、当時は「人種」についての考えも現代とは違っていたことを考慮しなければならない。現代では、「ホモ・サピエンス」は一つの種だと見なされる。しかし、「人種」という言葉が示唆するように、当時は人間にはいわば違う品種がたくさんあると考えられていたのである。


    科学と価値判断

    そういった事情はともかくとして、ここではっきりと確認しなければならないのは、「人間の卓越性の基準」は科学から引き出されたものではなく、ゴルトン個人の価値判断、あるいはゴルトンの時代のある社会階層で一般的だった価値判断から引き出されたものであるということである。これは、ほんの少しでも哲学的分析の訓練を積んだ者にはほとんど自明のことなのだが、近頃一部で流行の言説によれば、「科学と価値判断は切り離すことができなくなってきた」というたぐいの主張も見られるので、あえて角を立てて述べておきたい。わたしに言わせれば、「切り離すことができない」のではなく、そのような主張をする人たちが「切り離す努力をしようとしない」だけの話である。例えば、すでに見た「水爆開発」に際しての、オッペンハイマーらの判断で、科学的判断と人類やアメリカ国民に関わる価値判断とは切り離せなかっただろうか。そんなバカなことはない(わたしは関西人だから、「そんなアホな!」と言いたい)。彼らは、水爆開発をめぐる現状認識や予測と、水爆開発がもたらすであろう結果についての価値判断とを分けて考えていたはずである。「人類皆殺し」は誰にとっても「好ましくない」と見なされる──「好ましくない」というのは価値判断であり、これが「どうすべきか」という具体的指針を導き出すときの大前提となる。ところが、オッペンハイマーらの科学者としての予測によれば、水爆開発はこういった恐るべき結果をもたらす可能性がある。それゆえ、この好ましくない結果を避けるために、彼らは(ほかの事情も斟酌した上で)「水爆開発はすべきでない」と結論したのである。この結論は、価値判断と科学的予測とから導かれた派生的価値判断である。価値判断と科学的予測とをいったん切り離しておいても、具体的価値判断や実践のための指針はきちんと導き出すことができる。

    ゴルトンの「優生政策」の判断もまったく同じ構造をとる。大前提となるのは、「しかじかの性質を備えた人間が増えることが望ましい」という、科学の外から提供された価値判断である。そして、「かくかくの手段をとれば、そういった目標を実現するのに効果的である」という、科学的知識を援用した予測や判断が行なわれる。ほかの事情も斟酌した上で、その手段が適当だということになれば、「かくかくすべきだ」という実践的指針にたどり着くわけである。現代人にとって、すでに見たゴルトン流の考え方で一番気になるのは、育種、人為淘汰には付き物のもう一つの側面に十分に目がいっていないということであろう。家畜の品種改良の場合、人間が設定した「卓越性」の基準にあわない個体は淘汰される。では、人間の品種改良に際してはどうするのだろうか。この点に関して早くから危惧を表明したのは、トマス・ヘンリー・ハクスリーだった。


    ハクスリーの思考実験

    トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895)は、「ダーウィンの番犬」という異名で知られる進化論擁護者である。彼は、若いときに、ダーウィンと同じように海軍の調査船に乗船し、オーストラリア海域を探検し、博物学の素養をつんだ。帰国後は、比較解剖学で名を上げるとともに、科学の普及のために講演、執筆活動を行なった。ダーウィンの『種の起源』が出ると、ダーウィン擁護の論争をみずから買って出たので先の異名がついたのである。そのハクスリーは、晩年、ゴルトンの『遺伝的天才』の第二版(1892)が出た翌年に、オックスフォード大学で「ロマネス講演」を行ない、そのなかで当時流行していた優生思想と、スペンサー流の「進化論に基づく、自由競争の倫理」に厳しい批判を浴びせた。

    少し補足しておくなら、ハーバート・スペンサー(1820-1903)は、「最適者生存」のための競争を奨励して(経済的な)自由放任主義を擁護し、強い者が生き残ればよいのだとみなす「倫理」を唱えた、と理解されることの多い思想家である。実際は、彼の思想にはもう少し内容があり、通俗的に理解されるほど粗雑な内容の思想ではないのだが、通俗的な理解が「スペンサー主義」ないし「社会的ダーウィニズム」と称されて、一つの流行思潮となったことも事実である。彼の言う「進化」は、実は「進歩」を意味しているので(したがって、ダーウィンの「進化」とは意味が違う)、そこから「倫理的含意」が引き出されるという傾向が強い。それはともかく、ハクスリーは優生思想やスペンサー主義をどのように批判したのだろうか(以下ではかいつまんで解説するが、もっと詳細な議論は内井1996、2.8-2.14を参照)。

    彼の批判は、自然の変化を生み出す「宇宙の過程」と、それに対抗する人間の介入によって維持されている「人為の状態」、ないしそれを維持するための「人為の過程」の対比を設定した上で行なわれる。人為の状態の一例として、ハクスリーが頻繁に取り上げるのは、園芸家によって管理された庭や畑である。この園芸家のアナロジーは、後に植民地管理にまで拡張されるが、そのポイントは、二種の過程を支配する原理が異なるというところにある。

    宇宙の過程は無制限な繁殖を手段として使い、何百もの個体が一つの個体にふさわしいだけの場所と栄養を得るためにに争うように仕向ける。・・・ 他方、園芸家は繁殖を制限し、個々の植物に十分な場所と栄養を与える。・・・そして、他のすべての方法で、園芸家が思い描く有用性や美しさの基準に最も近い形態の植物が生き残るよう、生育の条件を整えようとするのである。(Nitecki & Nitecki 1993, 36-7. パラディス&ウィリアムズ1995の邦訳、96-7を参考にしたが、訳文は内井。)

    つまり、自然の状態を支配する過程では自然淘汰の原理が働くのに対し、園芸のような人為の過程では、人間の好みによる人為淘汰が働く。また、人間の技術などを通じた自然への介入によって、人間は文化や文明を作り出し、自然を部分的に支配することにさえ成功してきた。人為の過程は、ある意味では宇宙の過程に対抗できる力まで備えてきたのである。自然と文化、自然と文明との対比は、ダーウィンやゴルトンも含め、この時代の多くの思想家が取り上げた話題である。

    しかし、ハクスリーが次に言いたいのは、国家や社会を維持するための人為の過程では、社会の「あるべき状態」についての規範や価値判断が持ち込まれるが、やり方次第では人間にとって深刻な事態がもたらされるということである。かくして、明らかにゴルトン流の優生思想を念頭に置きつつ、ハクスリーは、人間をも家畜扱いできるほどの能力を備えた超人的な統治者が、ある野生の地で植民地作りを任されたという思考実験に読者を誘う。この統治者は、園芸家が自分の庭を管理するようにこの仕事を遂行するであろう。自然淘汰の過程に代わって、この統治者の基準に従って動植物が管理され、人間の生存闘争もできるだけ排除されて、法や統治者の理想実現に向けた手段で管理される。つまり、宇宙の過程は人為的な過程で置き換えられる。しかし、これで話が終わりではない。入植者にとって生存条件が改善されれば、人口増加が避けられない。これに対処するために、統治者が「純粋に科学的な考察」に従うなら、次のようになるだろう、とハクスリーは描いてみせる。

    治癒の見込みがない病人、老衰した者、虚弱な心身あるいは欠陥のある心身を有する者、過剰な新生児などは、ちょうど園芸家が欠陥のある植物や過剰な植物を間引きし、飼育家が望ましくない家畜を屠殺するように、取り除かれることになろう。強くて健康な者、それもこの統治者の目的に最も適応するような子孫をつくるために注意深く縁組みされた者だけが一族を残すことを許されることになろう。(Nitecki & Nitecki 1993, 40. パラディス&ウィリアムズ1995、102。)

    このように、ハクスリーは自然淘汰に代わる人為淘汰を人間が人間自身に行なうことの危険性をいち早く危惧していた。それだけではない。彼は、優生思想が政治と結びついた場合にどういうことが起こりうるか、ハクスリーの講演から数十年ほど後に生じることを予見していたかのような記述が見られる。

    宇宙的進化の諸原理あるいはそのように想定されたものを社会や政治の問題に適用しようという数多くの試みが最近現れているが、そのなかでもより徹底した試みのうちの相当部分は、人間社会にはわたしが想像したような統治者を内部の人材のうちから提供できるだけの能力があるという考えに基づいている、とわたしには思える。・・・個人からなるものであれ集団的なものであれ、一つの専制政府に、途方もない知性と、途方もなく残忍だと多くの人が見なす手段とが与えられることになる。淘汰による改善という原理を何らかの仕方で徹底して──この方法の成功はその徹底ぶりに依存する──遂行するという目的のためには、そのような残忍さが要求されるのである。(Nitecki & Nitecki 1993, 40. パラディス&ウィリアムズ1995、103。)

    さて、ハクスリー自身の立場はどういうところにあったのだろうか。彼は、人為的過程のうちでも、「倫理的過程」を重視した。これは、ヴィクトリア朝時代には当然だったかもしれない。人間には、反社会的な傾向性を抑制するための倫理的性向も備わっていて、これを行使して人間社会の問題を解決するよう努めるべきだというのがハクスリーの見解である。こういった努力が働く過程が倫理的過程にほならない。そこで、ハクスリーの提言は、自然の生存闘争を追認するのでもなく、また人為淘汰によってまねるのでもなく、倫理的過程によって、宇宙の過程が生み出す倫理的に望ましくない結果を改善するため、宇宙の過程を押さえ込めということになる(Nitecki & Nitecki 1993, 68. パラディス&ウィリアムズ1995、158)。


    人種改良はなぜ望ましくないか、またなぜ難しいか

    以上より、ハクスリーがゴルトンの提唱に反対であることは明白であろう。ゴルトンが人種改良の結果に着目し、その望ましさを強調したのに対し、ハクスリーはそのような結果に至る過程で何が生じるか、そのような過程を遂行するために何が必要かに着目し、結果の望ましさを打ち消してあまりあるほどの問題点があることを指摘したのである。ハクスリーの指摘は、次のようにまとめることができょう。(1)優生政策を成功させるためには、途方もない残忍な手段が要求されるので、これは倫理的に望ましくない。(2)人間に対する人為淘汰を行なうためには、人の性格や品性を、とくに幼年期のうちに見抜けるほど優れた観察力や知性を備えた判定者が必要であるが、そんな人間はいないので、適切な淘汰を行なうことが不可能である。さらに、(3)このような条件のもとで、つまり残忍な手段を用い、超人的な知性が要求されるという条件のもとで、このような政策を行なおうとすることは、社会の中で人々を結びつけている特有の絆を壊す危険性が高い、ということも指摘されている(Nitecki & Nitecki 1993, 41. パラディス&ウィリアムズ1995、104)。

    ゴルトンの名誉のために言えば、ゴルトン自身が1869年以後に行った遺伝と統計についての研究によっても、65年の論文あるいは69年の著書で構想したような「人種改良」の試みにはきわめて大きな困難があることが明らかになってきた。1870年代の後半にゴルトンが行なったスイートピーの育種実験によって、第一世代の平均より重い種(の一グループ)から得られた第二世代の種も、重さの分布は正規分布に従うことがわかっただけでなく、その平均値は、その重いグループの平均値ではなく、もとの世代全体の平均値の方へ近づくという「先祖返り」あるいは「退化regression」を示すことが明らかになった。さらに、1880年代に入って、ゴルトンは人体測定研究所を開いて人間のデータを集め始めたが、両親の身長と、成人した子供の身長を比較した統計データからも、まったく同じような「退化」の傾向があることが明らかになった。つまり、身長の大きな両親から産まれた子供の平均身長も、両親の平均身長よりは一世代全体の平均値の方へ近づく(「退化する」)のである。数学的解析の結果わかったのは、これは遺伝とは直接関係がなく、統計的な操作がもつ数学的性質の一つだということであり、ゴルトンが「退化の係数」と呼んだものは「回帰reversion係数」と名づけ直されることになった。『遺伝的天才』の第二版(1892)の前書きでも、これは次のように説明されている。

    ある集団でのある能力の分布は、もし子供が平均して両親に似るとすれば、一定に安定することは不可能である。もしそうなったとしたなら、巨人(心的あるいは肉体的形質のどれをとってもよい)は世代ごとにますます大きくなり、小人はますます小さくなるであろう。これに対抗する傾向性をわたしは「退化」と名づけた。子の中心は、親の中心より凡庸さの方に近い、つまり種の中心の方へ退化する。・・・

    すべての変種はこういったものであるから、一つの種の自然的性質が、単なる変種の淘汰によって永続的に変えられるということは不可能である。(Galton
    1892, xvii-xviii)

    かくして、ゴルトンみずからの見解においても、1865年当時の楽天的な考えは、「科学的根拠」に関する限り、大幅に後退するのである。このあたり、「科学者としての」知的誠実さに関しては、いくら「悪名高い優生学」の創始者であるとはいえ、ゴルトンを評価する際に忘れてはいけない事実である。そこで、ゴルトンは、「将来における人間の改良という大きな問題は、現在のところ、学術的な関心の域を超えてはほとんど進んでいないと自認しなければならない」(Galton
    1892, xx)、と認めるが、彼の理想を捨てるわけではない。人間の将来の形質が、間接的とはいえ、人間によって管理されうることはなお強調する(Galton
    1892, xxvi-xxvii)。いわば、彼の「優生的理想」と、彼の「科学的業績」とは独立なのである。ゴルトンは、優生思想を一つの動機として彼の遺伝学および統計学の研究を進めたかもしれない。しかし、その研究の結果、優生思想を変えたわけでも、捨てたわけでもない。また、彼の研究結果が(現代の知見からすればいくつかの誤りが含まれているにしても)優生思想に合うように故意にねじ曲げられたわけでもない。


    優生学と科学の倫理

    さて、初期の優生学をめぐるいくつかの事実をきちんと把握する必要があったので、長々と紹介してきたのだが、科学の倫理というわれわれの観点からすれば、この事例はどのように評価すべきだろうか。取り上げた科学者は、百年以上前のゴルトンとハクスリー二人だけなので、彼らの言動を冷静に分析し、評価してみよう。すでに述べたように、二人の主張は、(1)科学の外から持ち込まれた価値判断と、(2)科学的な研究や判断の二つの側面に分けることができる。(1)の価値判断が妥当かどうか、説得力があるかどうかは、科学的な判断と無関係ではないが一応切り離すことのできる、倫理一般の話である。これに対し、(2)については、「科学者としての」見識、判断や配慮の妥当性が問題となり、科学の倫理あるいは科学者の倫理が第一義的に適用されるはずである。

    まず、ゴルトンについては、彼が「好ましい人間像」について一定の見解をもっていたことが明らかであるが、その見解がわれわれ現代人が建前としてもっている見解と一致しないからといって、直ちに「倫理的に非難する」のは当たらない。とくに、現代社会では「思想信条の自由」は基本的人権の一つとして認められているはずである。ならば、ゴルトンの思想の自由も認められてしかるべきであろう。倫理的問題は、彼がそのような理想実現に向けて何らかの行動を起こしたときに生じる。例えば、政府に働きかけて「断種法」(好ましくない性質を持つ人の生殖を防ぐための手術を認可する)のような法律制定を画策する、一般向けの「啓蒙活動」を行なって優生主義を広めるなどの活動をする、とすればどうだろうか。こういった場合に広く認められているのは、ほぼ同時代のジョン・ステュアート・ミルが唱えた「危害原則」である。すなわち、「個人の自由が法的処罰あるいは世論による道徳的強制などの形で制限されてよいのは、他の人々への危害を防ぐ場合だけである」という原則である。そこで、ハクスリーの「優生学批判」は、この原則に照らしても十分に理解可能である。ハクスリーは、優生思想が広まることによって、ある基準からすれば「好ましくない」人々が差別を受け、不利益を被る(一種の危害である)ことを憂慮した。それゆえ、彼の時代には、まだ「断種法」などの動きはなかったが、先手を打って、こういった手段を示唆しかねない優生思想そのものを批判したのである。

    すでに指摘したように、ゴルトンには優生政策が含意するこの負の側面に対する配慮が希薄だったことが言えるだろう。これは、「科学者として」、ハクスリーと同様に予測できることだったはずである。それどころか、ダーウィンの『人間の由来』(1871)でもこの側面が指摘されている。ダーウィンも、文明(弱者保護、医療など)がもたらしうる「弊害」について、次のような懸念を表明している。

    かくして、文明社会での虚弱な成員はその数を増す。家畜の繁殖にたずさわってきた者なら誰でも、これが人類にとって大変有害であるにちがいないということを疑わない。(Darwin
    1871, vol. 1, 168)

    これは、生物学の見地から見た「有害」の判断であろう。そして、このたぐいの懸念が、多くの「優生学者」に共有されて、彼らを突き動かしている一つの顕著な動機だと考えられる。これは後に何度も形を変えて繰り返されるので、「ダーウィンの危惧」と名前をつけておきたい。これを、逆に楽天的な方向にひっくり返せば、ゴルトンの「人種改良」とつながることが明らかであろう。しかし、ダーウィンは、倫理的な観点からの判断を補うことを忘れない。

    外科医が手術のとき無情に振舞ってよいのは、彼が患者の利益になることを行なっていると知っているからである。しかし、もしわれわれが弱くて無力な人々を意図的に見捨てたとしたならば、これは不確かな利益のために圧倒的に大きな悪を現在に為すことでしかないことになろう。したがって、われわれは、虚弱な者が生き残って数を増やしていくということの間違いなく悪い結果を耐えなければならない。しかし、その悪い結果を抑制する要因が少なくとも一つ、常に働いているように見える。というのは、社会の中の弱い劣った成員は、健康な者ほど自由には結婚しない。そして、この抑制は、心身の虚弱な者が結婚を控えることによって、限界なく強化されるかもしれない。ただし、これは、当然期待すべきことというよりは、希望にとどまる。(Darwin
    1871, vol. 1, 169)

    このように、ダーウィンは倫理的見地に踏みとどまった。ゴルトンの科学者としての知的誠実さについては、一般的に問題はないと考えられるが、彼のどこに非難されるところがあるのかは、ダーウィンと比較すれば明らかであろう。フランク・リポートで表明された「科学者の責任」(一般の人々に対する責任)に照らして言えば、ゴルトンは専門家として、優生政策のたぐいが人々に危害を及ぼしうることを予見できたにもかかわらず、その危険性を指摘せず、優生的理想を追求することの方を重視した(これは、ゴルトンがそれと指摘できる実際の被害に対して責任があるという意味ではない)。科学者としての倫理に関わりがあるのは、とくに「予見と警告」の部分である。ダーウィンとハクスリーにはこの点で落ち度はない。とくに、ハクスリーはこの警告を明瞭に力強く行なった点が、いまでも高く評価されるのである。こういった判断ができるのは、われわれもダーウィンやハクスリーとともに、倫理的価値とほかの価値とが衝突する場合には、倫理的価値の方を上に置くからである。フランク・リポートやロートブラットとともに、科学研究の価値の源として人類の福祉あるいは利益を前提するなら、そうなるのは当然である。そこで、ゴルトンの理想のような、本節冒頭(1)に分類した、科学の外から持ち込まれた価値判断についても、少なくとも間接的な影響が及ぶことになる。すなわち、ゴルトンのような理想をもつことは、それ自体としては思想の自由の枠内で許されることだが、その追求が人々の利益を損なう場合には歯止めがかけられるべきである。この判断は、科学の倫理の上の、一般的な倫理の見地からでてくる判断である。

    しかし、いまから百年時代をさかのぼると、こういった判断は必ずしも多数の判断ではなかった(一級の科学者も含めて)ことを銘記しなければならない。二十世紀に入り、とくに20年代になると、優生思想は流行思想となり、欧米諸国で政策にも具体的に取り入れられてくるようになる。次章ではこれを見たい。


    要約

    • (1)優生学の創始者、ゴルトンは、家畜や競走馬の育種からアナロジーを得て、「人間の改良」を行なうというアイデアを提唱した。その発想を支えたのは、人間の心的能力も含む才能が遺伝的基盤を持っていると解釈できる統計的データである。
    • (2)ゴルトンは、このような粗い発想だけで人間の、いわば人為淘汰による改良を提唱したのではない。人間の肉体的形質や心的能力などの統計的分布をきちんと研究するために、もっと精密な実験や測定を行ない、その過程でいくつかの重要な発見を行なった。それらの結果は、優生学の初期の楽天的な見込みに反するもので、ゴルトンの見解もより慎重になってきた。
    • (3)優生学の提唱は、科学の外から持ち込んだ価値判断(どういう人間が望ましいか)を大前提とし、その望ましい目標を実現するために科学的知識を利用して具体的指針(手段)を求めるという構造のもので、すでに見た原水爆の例で「いかにすべきか」という実践的指針を求めたのと同じ推論構造で理解できる。
    • (4)問題は、その目標の望ましさを仮に認めたとしても、人為淘汰という手段に伴う不都合をどう扱うかというところに出てくる。ハクスリーは、一つの思考実験を提示し、優生学の目標を実現するためには、その過程でどれだけの倫理的悪が生じうるかを描いて見せた。また、ゴルトン自身の研究成果も、優生学の目標を実現することは当初の予想よりはるかに困難であることを指し示したのである。
    • (5)ハクスリーだけでなく、ダーウィンも人間に人為淘汰を行なおうとする試みがどういう悪をもたらしうるかを予見していた。彼らは、その「科学者としての」予見に基づき、倫理的見地からの価値判断を優先させることによって、優生学に対する反対、あるいは不支持を表明したのである。
    • (6)しかし、注意すべきことは、優生学の支持者を動機づけている懸念(その裏返しが理想となる)と、ダーウィンが認める「文明の弊害」とは根が同じということである。これを「ダーウィンの危惧」と名づけた。
    • (7)フランク・リポートで提唱されたような「科学者の責任」の考え方からすると、ゴルトンの「科学者としての」落ち度は、ダーウィンやハクスリーが示した予見や、それに基づく警告を行なわず、自分の理想のよいところしか見なかったということになろう。
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