2 thoughts on “John A. Alic

  1. shinichi Post author

    Beyond Spinoff: Military and Commercial Technologies in a Changing World

    by John A. Alic

    https://books.google.co.jp/books?id=nNCxkcKP1HUC&pg=PA43&lpg=PA43&dq=%22two+cultures%22+%22Military+and+Commercial+innovation%22&source=bl&ots=d_86K-uO6P&sig=zEpLpWZ_9biv_4Dn8mybT3CSyzQ&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjt9e79v6fRAhWJgrwKHYO7AD0Q6AEIGjAA#v=onepage&q=%22two%20cultures%22%20%22Military%20and%20Commercial%20innovation%22&f=false

    the systems, institutions, and motivations for applying technical knowledge — to produce marketed goods and services, to defend the nation, or to satisfy other public and private needs — do differ, often markedly. Most technology investments are made with a particular purpose in mind, by institutions with a specific mission.

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  2. shinichi Post author

    アメリカにおける軍民両用技術概念の確立過程
    スピン・オフの限界から軍民両用技術の台頭へ

    by 松村博行

    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/g-vol1/matumura.pdf

    **

    第二次世界大戦中のアメリカにおいて最も注目すべきは、この軍事用途の特殊な技術を、どのような方向へ発展させていくのかを決定する制度が明確に確立されたことである。なぜなら、技術変化の誘因ファクターはその技術をとりまく制度、その制度が持つ目標、そしてその組織文化によって異なるからである。

    一般的に軍事技術開発は、時代の最先端の製品技術を重視し、その手法としては巨大プロジェクト型の開発を重視する傾向にある。そして当然そこには、軍事戦略上要求される特殊な仕様が付与される。これは、市場のニーズに対応するための柔軟な製造技術、高い品質、そして低コストなどを重視する民生技術開発とは指向性が明らかに異なるのである。

    技術体系だけではなく、このような軍事特有の目標、組織文化をもった制度が軍事技術開発の基盤として民生技術基盤から分離、独立したことこそが、その後の軍事技術と民生技術の発展の方向性を大きく異ならせた非常に枢要な要因なのである。そしてこの技術基盤という制度的な差異こそが、軍民間の壁を厚く、そして高いものにしたのである。

    では具体的に、軍事技術基盤確立の過程を追ってみよう。アメリカの軍事技術基盤の確立は、政府の軍事技術開発への関与の深化、そして政府からの軍事技術開発契約、あるいは軍事生産契約に恒常的に大きく依存する企業群の出現という二つの側面から説明される。

    政府が軍事技術開発への関与を深化させた理由には二つある。一つは先に述べたとおり、第二次世界大戦を経て、軍事システムがますます技術集約的様相を強めた結果、政府にとって軍事技術の進化は国家安全保障上、最優先すべき課題となったためである。第二次世界大戦後に設置された大統領直属の科学研究委員会(PSRB)は、「戦争は組織化された科学の重要性と可能性をはっきりと立証した」と述べ、戦後も軍事技術 R&D を高い水準で維持すべきであるとの勧告を行った。第二には、このように軍事技術が高度化、複雑化するにつれ、その開発には莫大な資金が必要となった背景が指摘される。その規模はもはや一企業が自己資金で行える範囲を超え、R&D にはスポンサーとして、政府の関与が不可欠となったのである。その最たる例がマンハッタン計画であった。アメリカ政府は、このマンハッタン計画だけで実に 20 億ドルの巨費を注ぎ込み、世界に先駆けて原子爆弾を完成させた。このように、政府はその管轄下にある国立、政府系研究所を動員することで、自ら軍事 R&D の主体としても、そして民間企業に委託する R&D のスポンサーとしても、軍事技術開発への関与を強めたのである。この結果、1938 年には政府(州政府も含む)支出の R&D 予算は、連邦全体の R&D 支出のわずか 19%に過ぎなかったのが、1960年代には 66%にまで増加したのである。

    次に、軍需に大きく依存する企業群の出現という状況についても考察しよう。第二次世界大戦まで、アメリカにおいては恒常的に軍需生産を専らとする大規模な民間企業は存在しなかった。そもそもアメリカには巨大な常備軍という発想はなく、戦争のたびに民間企業が軍事生産に動員され、そして戦争終結と共にそれらは動員解除され、本業の民生生産に復帰するという制度がとられていた。すなわち、第二次世界大戦を迎えるまで、アメリカには軍需産業という企業群は存在しなかった、あるいはあったとしても、ごく限られた規模でしかなかった13。今日のような軍需産業が誕生したのは、第二次世界大戦前にフランクリン・ルーズベルト大統領がとった戦争準備政策、それにつづく大戦中の大規模な戦時経済体制に起源があると判断することが妥当である。不況回復策としてのニューディール政策に限界を見出し、アメリカ経済を軍需依存に切り替えることによって不況を克服しようとした 1937-38 年の政策転換が特に重要な転機であった。続く第二次世界大戦において、軍事技術開発、軍需生産を媒介とする政府と企業の関係はより強固なものとなる。新たな軍事システムの開発、そして大量の軍需品の生産を民間企業に依存せざるを得なかった政府は、軍事省内の補給局を通じて、必要とされる軍需品の調達を行った。後に「軍産複合体」の勢力拡大に警鐘を鳴らしたアイゼンハワーも陸軍参謀長の時代に、陸軍と民間の科学者、企業の技術専門家、そして大学とが密接かつ継続的な関係を樹立することがアメリカの国防にとって必要であると説いた。この見解の背景には、科学技術の進歩が兵器の性能を大きく左右し、これが軍事能力に大きな影響を与えるという軍部の認識があった。補給局を通じて支出された厖大な軍事費によって、巨大な兵器市場がアメリカに形成されたのである。この市場の誕生によって、それまで軍需生産に関わっていなかった企業が多数、軍需の領域に参入した。軍事生産だけではなく、もちろんその前段階の R&D に対しても企業は深く関わり始めた。その後、ソ連との緊張関係の高まり、そして朝鮮戦争を経ることで軍需産業はアメリカにおいて恒常化されたのである。

    これまで見てきたように、軍事技術基盤とは、第二次世界大戦を通じて形成された、民生生産から隔離された軍需企業、そして政府による軍事技術開発のための制度を指し示す。いわば、「軍産複合体」の中の、技術研究開発の部分をクローズアップしたものが、この軍事技術基盤なのである。

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