末近浩太

イスラーム主義者たちは、独裁政治によって混迷する社会や国家を造り直すための「代替案」を提示しようとしたのである。イスラームに全幅の信頼を置きながらも、西洋的近代化の方法や成果を取り入れ、過去よりも未来、破壊よりも建設を目指した。だからこそ、多くの人びとの支持を得ることができたのである。
このイスラーム主義者たちの挑戦が実を結んだのが、1979年に起こったイラン革命であった。イスラーム法学者ホメイニーを指導者とする革命勢力は、親米の独裁王政を打倒し、イスラームの教えに基づく新たな国家の建設に成功した。
イラン革命は、政治と宗教を再び結びつけようとする前近代的な復古主義の試みと捉えられてきたが、革命後に樹立された「イスラーム共和制」は、実に先進的なものであった。それは、文字通り、イスラーム法による統治と18世紀の米国やフランスに生まれた共和制を融合する試みであった。

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  1. shinichi Post author

    「アラブの春」とは何だったのか?〜革命の希望はこうして「絶望」に変わった

    あれから5年、メルトダウンする中東

    by 末近 浩太

    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47972

    あの熱狂から5年が経った。

    2011年の中東における非暴力の市民による民主化運動「アラブの春」。長年にわたって続いてきた独裁政権がドミノのように次々に倒れていく様子は、世界史に残る大事件として、また、市民が政治の主役となる新時代の到来を告げるものとして歓迎された。世界にとって、中東は希望の象徴となった。

    ところが、それから5年。中東は今、未曾有の混乱のなかにある。民主化の停滞はもとより、独裁政治の復活や内戦の勃発、そして、「イスラーム国(IS)」の出現と、中東の状況は「春」以前よりも確実に悪くなっている。

    独裁、内戦、テロは、中東にとって何も目新しいものではない、との見方もあるだろう。だが、今日の中東の混乱は、これまで経験したことのないようなスケールで起こっている。米国の中東専門家アーロン・ミラーの言葉を借りれば、何もかもが「メルトダウン(融解)」するような極めて重大な事態が生じている。

    さらに深刻なのは、グローバル化の進んだ現代世界においては、この「メルトダウン」が中東だけの問題にとどまらないことである。

    「イスラーム国」に代表される過激派によるテロリズムの世界的な拡散、難民・移民の大量発生、そして、それにともなう世界各地での憎悪、不寛容、暴力の再燃。今や中東には希望ではなく絶望が蔓延し、その絶望は中東を越えて世界を覆い尽くそうとしているように見える。

    希望から絶望へ――。なぜ「アラブの春」はわずか5年で暗転してしまったのか。中東ではこの5年間で一体何が起こったのか。それは、中東を、そして世界をどのように変えたのだろうか。

    独裁政治の「最後の砦」

    「アラブの春」前夜の中東は、1980年代末の「東欧革命」から20余年、世界の各国が次々に民主化へと向かうなか、独裁政治の「最後の砦」とも呼ぶべき地域であった。

    中東における独裁政治は、形式上は選挙で選ばれた大統領や首相を有する共和制の国々であっても(エジプト、シリア、チュニジア、リビア、イエメンなど)、王や首長を戴く君主制の国々(サウジアラビアをはじめとする湾岸アラブ諸国、ヨルダン、モロッコなど)であっても、大きな違いはなかった。

    これらの国々では、政治的な自由や権利が制限されていただけではない。腐敗した権力の下では社会・経済発展が停滞し、国民の暮らしを圧迫し続けていた。また、政権のとりまきと一般市民のあいだの貧富の格差は年々開いていた。

    こうした状況が何十年も続くなかで、国民の不満が蓄積されていったのは自然なことであった。しかし、これに対して、独裁政権は、「アメ=ばらまき」と「ムチ=軍や秘密警察による監視や弾圧」を使い分けることで巧みに権力を維持し続けた。

    イスラーム主義の盛衰

    独裁政権が最も警戒していたのは、イスラーム主義者であった。イスラーム主義とは、イスラームに依拠した社会改革や国家建設を目指すイデオロギーのことである(かつては、イスラーム原理主義とも呼ばれていた)。中東諸国において、独裁政権に対する反体制派を主導していたのがイスラーム主義者たちであった。

    このようなかたちの体制/反体制の対立構図が生まれた背景には、第2次世界大戦後に独立を果たした多くの中東諸国が多かれ少なかれ西洋的近代化、とりわけ政治と宗教の分離を是とする世俗国家の建設を目指してきたこと、そして、それが1960年代末には、独裁、低開発、他国との戦争、内戦といったかたちで行き詰まりを見せたことがあった。

    つまり、イスラーム主義者たちは、独裁政治によって混迷する社会や国家を造り直すための「代替案」を提示しようとしたのである。イスラームに全幅の信頼を置きながらも、西洋的近代化の方法や成果を取り入れ、過去よりも未来、破壊よりも建設を目指した。だからこそ、多くの人びとの支持を得ることができたのである。

    このイスラーム主義者たちの挑戦が実を結んだのが、1979年に起こったイラン革命であった。イスラーム法学者ホメイニーを指導者とする革命勢力は、親米の独裁王政を打倒し、イスラームの教えに基づく新たな国家の建設に成功した。

    イラン革命は、政治と宗教を再び結びつけようとする前近代的な復古主義の試みと捉えられてきたが、革命後に樹立された「イスラーム共和制」は、実に先進的なものであった。それは、文字通り、イスラーム法による統治と18世紀の米国やフランスに生まれた共和制を融合する試みであった。

    具体的には、高位のイスラーム法学者が最高指導者として君臨しながらも、三権分立や選挙による政権交代が実施されている。これを共和制本来の姿の歪曲と見るのか、それとも、イスラーム文明と西洋文明との接近と捉えるのかによって、イランへの評価は180度変わってくる。

    しかしながら、イラン革命の成功は、中東の独裁政権にイスラーム主義者へのさらなる警戒心を抱かせる結果をもたらした。

    イスラーム主義者と目された市民に対する厳しい取り締まりや弾圧が実施され、その結果、独裁政治がより強化されただけでなく、「もはや武装闘争やテロしかない」と考える過激派が増えていった。

    独裁政権と過激派とのあいだで繰り広げられた暴力の連鎖、とりわけ、2001年の9.11事件以降の「テロとの戦い(対テロ戦争)」とアル=カーイダなどによる「イスラームの戦い(聖戦・ジハード)」の衝突は、中東諸国の政治と社会を荒廃させるだけでなく、市民をイスラーム主義や革命から遠ざけることとなった。

    一般市民の支持を持たないイスラーム主義の過激派に、もはや独裁政権を倒す力はなかった。

    革命をもたらした「緩さ」

    こうしたなかで、ついに市民が自ら独裁政権に対して抗議の声を上げ始めた。それが、「アラブの春」であった。

    むろん、2011年以前にも市民を主体とした抗議行動は存在していた。しかし、それは、独裁政権を転覆させられる規模にはほど遠いものであった。

    だとすれば、なぜ、「春」では革命をもたらすほどの大勢の市民が路上へと繰り出したのだろうか。その答えは、「緩さ」にある。

    20世紀の革命には、確立されたイデオロギーや組織、カリスマ的な指導者、その運動に身も心も捧げる人びとといった、「熱い(緩くない)」イメージがつきまとった。余程の覚悟がなければ、革命運動に参加することはできない。

    しかし、21世紀に起こった「アラブの春」では、かつてのイスラーム主義者のように反体制派を組織的に牽引する者たちもなければ、カリスマ的な指導者の姿も見られなかった。

    このつかみどころのない「緩さ」こそが、組織やグループの違い、イデオロギーの違い、性別や年齢の違いを超えるかたちで、大規模な市民を動員できた要因であった。

    詳しく見てみよう。「アラブの春」の「緩さ」には3つある。

    第1に、動員を主導する組織や指導者が不在であったことである。その役割を担ったのが、匿名性の高いツイッター、フェイスブックといったSNSであった。

    第2に、革命後の国づくりの青写真が不在であったことである。その代わりに独裁政権の打倒という単純なスローガンだけが繰り返されたことで、抗議行動を主導した若者たちだけでなく、不満を抱く幅広い層の国民の共感を得た。

    第3に、武装闘争やテロといった暴力を用いなかったことである。その代わりに平和的なデモが徹底されたことで、「誰もが気軽に」参加できる運動を生み出した。

    こうした「緩さ」は、2001年の9.11事件から「アラブの春」までの10年間、中東の政治と社会を荒廃させたを暴力の連鎖に対するアンチテーゼであったと見ることもできる。

    「アラブの春」は、こうした暴力の連鎖が飽和状態に達したときに生まれた、選挙や対話を希求する一般の市民による新たなかたちの変革のうねりであった。そこには、確かに自由と寛容の空気が生まれつつあった。

    暴力による非暴力の管理

    しかし、そうした自由と寛容の空気は長く続かなかった。中東各国で再び暴力が再燃したためである。

    ただし、その暴力を行使したのはイスラーム主義の過激派ではない。実際には、各国の独裁政権と「アラブの春」への外部介入を推し進めた諸外国であった。

    市民による大規模な抗議デモに直面したリビア、シリア、バハレーンの独裁政権は、激しい弾圧でこれに対応し、国内の治安は急激に悪化していった。

    欧米諸国や湾岸アラブ諸国は、リビアとシリアでは反体制派への支援を打ち出す一方で、バハレーンでは独裁政権を政治と軍事の面から徹底的に支えた。その結果、リビアとシリアでは体制派と反体制派のあいだで内戦が勃発し、他方、バハレーンでは独裁政権による激しい弾圧によって抗議デモは鎮圧された。

    「アラブの春」における欧米諸国や湾岸アラブ諸国の「二重基準」は、突き詰めればパワーポリティクスの産物と見ることができる。これらの諸国は、一般の市民の台頭という想定外の事態に際して、自国の利益の保護・拡大にとって有利な同盟者への支援を行った(それぞれの国益に忠実という意味では、各国は「単一基準」にしたがって「春」に外部介入を行ったともいえる)。

    このような外部介入の結果、「アラブの春」において、ある国では民主化が促進され、別の国では反対に独裁政治が強化されるという事態となった。

    だが、より大きな問題は、どちらもが非暴力ではなく暴力によって推し進められたことであった。こうして、中東に再び暴力の嵐が吹き荒れ始めた。

    外部介入のモラルハザード

    国益を振りかざす独善的な外部介入は、そもそも内政干渉に他ならず、今日の世界ではタブー視されていたはずであった。

    だが、それも、特定の人間集団の「保護」や「テロとの戦い」の名目で、なし崩し的に正当化されていった。つまり、「アラブの春」では、外部介入のモラルハザードが広がったのである。

    皮肉なことに、その先例となったのが、2011年3月の国連安保理決議に基づく米英仏主導のリビア介入であった。

    一般市民に対する「保護する責任(R2P)」を掲げたリビアへの軍事作戦は、実際には独裁政権を率いていたカッザーフィー(カダフィ)大佐が殺害されるまで続けられた。そのため、実際には政権転覆をにらんだ恣意的な外部介入であったとの疑念が中東の内外から寄せられることとなった。

    その後、2011年3月の湾岸協力会議(GCC)の「半島の盾」軍によるバハレーン派兵、2014年8月に開始された「有志連合」によるイラクとシリアのIS実効支配地域への空爆、2015年2月のエジプト軍によるリビア空爆、2015年3月のサウジアラビアなどによるイエメン空爆、そして、イランによるシリアとイエメンへの軍事的関与など、中東のあらゆる場所で外部介入が多発するようになった。

    不当な暴力は必ず連鎖する。

    外部介入を行った国々が暴力を用いたことで、独裁政権や反体制派までもがさらなる暴力に手を染めるようになった。外部介入のモラルハザードは、暴力をめぐるモラルの崩壊をも助長したのである。

    再燃する暴力と不寛容

    以上見てきたように、「非暴力の市民による民主化運動」としての「アラブの春」は、暴力によって押しつぶされ、市民の手を離れ、そして、その民主化の希望の輝きを失っていった。

    これに輪をかけたのが、2013年7月のエジプトにおける「反革命」とその後の軍政復活であった。

    「春」後の選挙に勝利した穏健なイスラーム主義者たちはテロリストの烙印を押され、当局から治安取り締まりや弾圧の対象となった。もとよりイスラーム主義者による政権誕生を歓迎していなかった欧米諸国と湾岸アラブ諸国は、こうした民主化に逆行する事態を黙認した。

    希望に満ちていたはずの「アラブの春」は、振り返ってみれば、あまりにも短い春であったと言わざるを得ない。2011年初頭からのわずか数ヵ月で、非暴力の市民による民主化運動は行き詰まった。そして、中東諸国の国内政治の対立構図、国と国とを分かつ国境線や主権、そして、自由や寛容を支えるモラルが、次々に「メルトダウン」を始めた。

    その後の中東に生まれたのは、暴力と不寛容に満ちた政治であった。民主主義への幻滅、市民のあいだの相互不信、欧米諸国に対する怨嗟の念。絶望が果てしなく広がっていくなかで、それを糧として急拡大する勢力が現れる。他ならぬ、「イスラーム国」である。

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