家永遵嗣

こうして日野重子の所生子は義政を残して他は全て没してしまった。異母兄弟も、堀越御所政知と浄土寺義尋の二人だけとなった。義政にも政知にもまだ男子がいない。かつて義勝の死を聞いたとき、伏見宮貞成親王は「舎弟済済御座之上者、相続不可断絶歟」と記した。しかし、今や状況は変わった。義観の死没から八ヶ月後の寛正五年一二月二日に、義尋が還俗した。京都将軍家の断絶が危惧され、ために義視の還俗が決定されたと考えて良かろう。
古河公方征討という戦略課題があって、政知を京都に戻すことはできなかった。

足利義視と文正元年の政変(PDFファイル)

This entry was posted in records. Bookmark the permalink.

1 Response to 家永遵嗣

Leave a Reply

Your email address will not be published.