福嶋聡

三田氏は、図書館が著作者の権利を制限することによって成り立っていることを指摘、作家の窮状を訴え、諸外国の例にならって「公共貸与権」の重視のもと、具体的な作家への保障を求める。図書館側の人たちは、争点となっている「複本」(予約者数の多いベストセラーを何冊も買い込むこと)も指摘されるほど多いわけではなく、自分たちは限られた、しかも削減されつつある予算の中で必死に頑張っている、と主張する。
どちらの言い分も、もっともである。双方とももっともだから、最後には「お互いいがみあっている場合ではない。作家も図書館も連帯して、国から予算をぶんどろう。」、表現が荒っぽすぎるかもしれないが、つまるところこういう結論になる。
ところが、現実には国も自治体も台所事情は火の車である。経済状況も相変らず悪い。だとすれば、先の結論は余り生産性を期待できるものではない。
明らかに読者の視点が欠落している。あるいは、利用者の視点が。
読者や利用者のことを忘却しているわけではない。欠落しているのはその視点なのである。

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1 Response to 福嶋聡

  1. shinichi says:

    本屋とコンピュータ(『希望の書店論』)

    福嶋聡(ジュンク堂 池袋店)

    人文書院

    http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/crmaf2002.htm

    **

    (25)

     いま、図書館問題が、熱い。ただし、その熱さは、どちらかというと建設的でない議論によるものである。本が売れない、作家が食えない。図書館が無料で本の貸し出しをしていることも、その一因ではないか。日本書籍協会や日本文芸家協会は、そう疑っている。図書館は図書館で、資料費の削減や司書数の不足など、総じていえば予算不足をかこつ。

     11月20日(水)に、東京国際フォーラムで行われた第4回図書館総合展のフォーラムの一つ、「どうする?作家・図書館・公貸権」を聴講した。パネリストは、作家三田誠広氏と図書館職員2名であった。三田氏は、図書館が著作者の権利を制限することによって成り立っていることを指摘、作家の窮状を訴え、諸外国の例にならって「公共貸与権」の重視のもと、具体的な作家への保障を求める。図書館側の人たちは、争点となっている「複本」(予約者数の多いベストセラーを何冊も買い込むこと)も指摘されるほど多いわけではなく、自分たちは限られた、しかも削減されつつある予算の中で必死に頑張っている、と主張する。

     どちらの言い分も、もっともである。双方とももっともだから、最後には「お互いいがみあっている場合ではない。作家も図書館も連帯して、国から予算をぶんどろう。」、表現が荒っぽすぎるかもしれないが、つまるところこういう結論になる。(「論座」2002年12月号に三田氏の論文が、2003年1月号に図書館司書の前田章夫氏の反論が掲載されている。そちらを参照していただければ、問題の所在と議論の構造は大体把握できる。)

     ところが、現実には国も自治体も台所事情は火の車である。経済状況も相変らず悪い。だとすれば、先の結論は余り生産性を期待できるものではない。

     明らかに読者の視点が欠落している。あるいは、利用者の視点が。

     読者や利用者のことを忘却しているわけではない。欠落しているのはその視点なのである。だからこそ議論が、「図書館で本を借りることができなかった利用者がその本を買うか?」という次元の低いところに留まっているのだ。買う人もいるだろうし、諦める人もいるだろう。同じ人でも、場合によって買う時諦める時があるかもしれない。そんな流動的な因果性について、単に議論の上で黒白をはっきりさせようとしても、意味はない。

     利用者の視点とは、「図書館にどうあって欲しいか?」である。自分にとって利用しがいのある図書館とは、あるいは応援しようと思う図書館とはどのような図書館なのか、必要なのはそのことを利用者の視点に立って具体的に見てみることではないだろうか。その時、悪いけれども(悪くはないか?)、さしあたり、図書館予算の問題だとか、作家の生活のことは、視野に入ってはいない。

     利用者の視点に立った時、「図書館は無料貸本屋か?」という問い方は、「図書館利用者はただで本を借りることができることだけを望んでいるのか?」という意味になる。その問いに対して図書館利用者の一人が「自分はそうだ。」と答えることは、アリである。だが、図書館側の人間が、あるいは作家、出版社、書店という書籍を市場に提供する側の人間が「そうだ。」と答えることは、全称判断になってしまうから、偽である。

     2002年7月に上梓した「劇場としての書店」のあとがきにあたる部分で、ぼくは次のように書いた。

     「気になっている本を片っ端から買っていては、やはり経済的にもしんどい。それ以上に、すぐに置き場所に困ってくる。本が自宅の書棚から溢れるたびに、あるいは転勤による引越しのたびに、知り合いの古本屋に送るのも面倒である。何よりも、「買う」という時には、書店人といえども吟味する。言い換えれば、逡巡する。「気になった」からといって、それだけの理由で「買う」ことはできない。

     そんな時、図書館はとても便利なのだ。少し読んで期待外れなら、それ以上読まずに返せばいい。参考になる部分があれば、それをメモしておいて返却する。部屋は狭くならないし、必要ならまた借りればよい。」

     そう、ぼくは「図書館を利用する書店人」なのだ。そして、図書館を利用する理由は、タダで借りることができるから、だけではない。買った本の置き場所に困ることがないからだ。

     最新号の「本とコンピュータ」には、こう書いた。

     「検索に必要な書誌データは、書店に勤めているからほぼ完璧である。蔵書にない本をリクエストする時も、ISBN番号を含めてすべて記入できる。本の置き場に困っていたぼくとしては、巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」

     書店に勤めながら、(一部そのことを利用して)図書館で本を借りる「けしからん書店人」であるぼくは、図書館を、自分のための「巨大な書庫」にしたいと思っているのだ。それは、実は図書館の本を無料で利用したいと思うことと同値ではない。読みたくて自分で買った本を収納しておいてもらうという手もあるからだ。ついさっき言ったように、ぼくが図書館を利用する大きな理由の一つは、「買った本の置き場所に困ることがないから」なのだ。

     こうしたぼくの個人的な事情を共有する「図書館を利用する人」は、少なからずいるのではないだろうか。だとすれば、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、有効ではないだろうか。本の引き取りは有償であってもいい(もちろん定価である必要はない)し、何らかの特典を与える方法でもいい。不必要と思われるものは、図書館の方で拒否してもいい。

     この一見突飛な策は、運用できれば、実は色々な立場の人に同時にメリットを与えることができる可能性を持っていると思うのだ。その可能性は、意外なところまで広がって行くかもしれない。この策は、いわば図書館に「ブック・オフ」の役目を一部担ってもらうこと、とも言えるからである。

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    (26)

    「『ブック・オフ』を否定するためには、本を棄てることができなくてはならない。」「ブック・オフ」についてコメントを求められた時に、ぼくがいつも言う台詞である。これは決して「ブック・オフ」を擁護、応援するための台詞ではない。新刊本屋の書店人として、ぼくにはそうした動機はない。ただ、「ブック・オフ」の存在と興隆に脅威を感じる新刊本屋や出版社の人たちのヒステリックな弾劾からは距離を措きたいと思う。自らの既得権が犯されることを理由とした弾劾は、外部の共感を得ることが難しいからだ。考えるべきは、何故「ブック・オフ」という業態が業績を伸ばしているのか、そのことの理由なのである。

     「安く買えるから」、それが、読者というわれわれの業界の顧客が、「ブック・オフ」に流れる大きな理由であることは間違いないだろう。だが、それだけでは「ブック・オフ」が業績を伸ばすことはできない。「新古書店」といわれるこの業態は、その名の通り古書店のニュータイプであり、そこに「売る読者」の存在がないと成立し得ないからである。「売る読者」は、「買った読者」であり、まさにわれわれの顧客でもあるのだ。彼らは何故「売る」のか?

     「ブック・オフ」の買い取り価格設定を見る限り、それが経済的な理由であるとは思いにくい。投機的な本の売り買いをする人ならば、従来の古書店に売るであろう。むしろ、「棄てられないから」売る人たちが多いのではないだろうか。買った本を家には置ききれない、だが棄てることもできない、そうした人は「売る」しかない。二束三文かもしれないが、「ブック・オフ」は買ってくれる。大した額ではないが、棄てるよりはまし、というより、棄てなくて済む、それが「ブック・オフ」に本を売りに行く読者の動機なのではないだろうか。

     実は、棄てたっていいのである。読み終わり満足を得た瞬間、本という商品の享受は終了している。何度も読み返したいと思うほど「溺愛」してしまった本、繰り返し参照すべき情報が載っている本は、そう多くない。それ以外の、限りある書棚を埋めて埃を積もらせていくだけの本は、棄ててしまっても何の損もないはずなのだ。それでも、何故か、本は棄てられないという人が多い。

     「図書館に『ブック・オフ』の役目を一部担ってもらうこと」という前回の締めの言葉は、こうした状況を背景にしている。別に何がなんでも「ブック・オフ」を駆逐したい、いわばその補給路を断つための作戦、というわけではない。ただ、本を棄てられない、という読者の気持ち、実はぼく自身も共有しているその思いを、例えば図書館に利用してもらう、あるいはそうした読者が図書館を利用する方途もまたあるのではないか、そしてそこには「ブック・オフ」に売りにいくのとは違ったメリットが、生じうるのではないか、と思うのである。

     図書館のサイトで、読みたい本を検索してみる。人気の高い本だと、「貸出中」であり、かつ何人もの予約数があったりする。(「東京都の図書館蔵書横断検索」のサイトで見ると、「半落ち」は2月2日現在、豊島区では8館で9冊の蔵書がすべて貸出中で、予約者が144名いる。)そうした時、どうしても読みたければ、書店で買う人もあろう。少なくともぼくはそうなる。そこで逡巡するとすればその理由は、経済的な問題というよりも、読んだあとのことである。そもそもぼくが図書館を頻繁に利用するようになったのは、読んだ本が手許に残らないからである。もしも、読んだあとで図書館に引き取ってもらえれば、その逡巡はなくなる。読み返したければ改めて借りればよい。それまでの間、無駄にわが家の狭い書棚を埋めることはなくなる。図書館を利用することによって「巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」と書いた所以である。

     少なくともこうしたケースでは、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、図書館にとっても有意義であろう。現に何人もの予約者が待ち構えているのである。引き取った本は、すぐに貸し出しに回せる。いつ誰が借りるか判らない本を購入したり、寄付として受け取ったりすることと比べて、こんなに効率のいいことはない。いい悪いは別にして、貸出率が図書館の評価のひとつと指標となっているのである。待っている予約者にとっても、それだけ早く順番が回ってくるわけだから、ありがたい。

    すぐに読めないが故に書店で本を購入する図書館利用者は、そもそも「読んだ本を手許に残さない」ことを第一義としているのだから、図書館に引き取ってもらうときに、 さして高額の対価を要求することはない。有償が難しければ、後々使える「貸出優先権」でもよいかもしれない。それでも、図書館利用者には充分嬉しい。それで済めば、図書館側としては、利用希望者が殺到している資料について、厳しさを増す予算を切り崩すことなく、手に入れることができる。さっき言ったように、他の予約者にとっても嬉しい話で、その提供者に「貸出優先権」を与えても、誰も文句は言うまい。

     「三方一両得」ではないだろうか。

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