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    慈照寺

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    https://ja.wikipedia.org/wiki/慈照寺

    東求堂

    東求堂は一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年(1486年)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。

    平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも襖とする。

    仏間は正面奥に須弥壇を設け、阿弥陀如来立像を安置。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は狩野正信筆の十僧図があった。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 – 40年(1964年 – 1965年)の解体修理時に復元したものである。『蔭涼軒日録』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を連子窓に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。

    東北に位置する4畳半(同仁斎)は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院(出文机)を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである。

    解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。 茶道史では江戸時代以来、同仁斎は四畳半茶室のはじまりと伝えられおり、堀口捨己は『君台観左右帳記』に描写される同仁斎の座敷飾りを論拠として義政時代の同仁斎茶室説を支持している。

    「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする。現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている。

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