かなり綿密な「美のデータベース」が、普遍的な共有財産として存在しないと、「見立て」は成立しない。これが成立するというのは、かなりハイブローな文化性の証左と言っていい。 卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そうした共有財産がないと成立しない。 ところが、最近はこの財産の共有性が薄れてきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりする。
かなり綿密な「美のデータベース」が、普遍的な共有財産として存在しないと、「見立て」は成立しない。これが成立するというのは、かなりハイブローな文化性の証左と言っていい。 卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そうした共有財産がないと成立しない。 ところが、最近はこの財産の共有性が薄れてきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりする。
娘への遺言
雑学の世界・補考
日本の美意識 [1]
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den037.htm