近藤祐

私たちは映画『マトリックス』のように、「世界一の都市東京」というヴァーチャルな白昼夢を見ているのではないか。幻覚の表皮を一枚めくれば、過剰消費社会という底なし沼が私たちをのみ込もうとしている。都市空間もまた消費対象であることを免れ得ず、昔ながらの町並みは呆気なく消え失せ、効率性・合理性を至上目的とする優等生的な空間が出現する。そこには歴史的な時間軸にそって蓄積した多様性や不整合性は存在しない。
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そのような時代状況にあって、私は『生きられる都市を求めて』において、現代都市の私たちを窒息させる合理性の網の目から逃れ、偶発的に「彷徨う」ことを提案した。しかしそれだけでは充分でない。都市空間のみならず、私たちの生の拠点となる居住空間もまた、限度なき商品化にさらされているからである。そのもっとも顕著な例である分譲マンションの広告は、私たちを「上質で豊かな」ライフ・スタイルへと勧誘する。そこには便利さ、快適さに加え〈広さ〉という絶対的な価値が孕まれる。実際に家は広いほどよいことを誰も疑わない。では〈広さ〉に対置される〈狭さ〉は、ただのデメリットでしかないのか。

3 thoughts on “近藤祐

  1. shinichi Post author

    執筆ノート

    『〈狭さ〉の美学
    ──草庵・茶室・赤ちょうちん』

    近藤祐

    三田評論 2017年 July


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  2. shinichi Post author

    〈狭さ〉の美学 草庵・茶室・赤ちょうちん

    by 近藤 祐 著

    日本文化における〈狭さ〉の価値とその魅力。

    〈狭さ〉とはただのデメリットなのだろうか?
    けれども日本文化史上には、鴨長明『方丈記』、
    千利休の茶室、池大雅・与謝蕪村の『十便十宜図』等、
    さまざまな〈狭さ〉の美学が存在する。
    また商店街などにある酒場の赤ちょうちんの
    〈狭さ〉には社会通念や物質信仰を超えた「自由」が
    宿っているのではないか。
    都市空間において排他的・敵対的な〈広さ〉に
    囚われ自閉する私たちに、
    〈狭さ〉はいかなるアンチテーゼとなりうるのか。
    前著『生きられる都市を求めて』に続き、
    「都市」に骨がらみの息苦しさを克服し、
    人が「生きられる」場所の復権を提言する。

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    <狭さ>の美学はその究極において、<狭さ>という「かたち」をも否定するのではないか。

    <狭さ>の美学とは、具体的に空間の創出や倫理ではなく、「私」が「私たち」であるための生き方であり、戦略なのであろう。

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  3. shinichi Post author

    生きられる都市を求めて
    荷風、プルースト、ミンコフスキー

    by 近藤祐

    かつて永井荷風が呪詛した個性なき大衆と、その貪欲なまでの消費欲、効率や機能を最優先する功利主義は、その後の一〇〇年を経て、現代都市のあらゆる風景を空疎な商品と化しつつ、私たちが「生きられる」場所性を見る影もなく消失させた。
    今、私たちに何が出来るのか? マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、ユージン・ミンコフスキーの『生きられる時間』を手がかりに平明かつ独自の論理で提言する!

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