七つの回廊

これらは、すべて、義政の「無用な争い」を避けるための「戦術」であった。もし、義政が彼女たちと骨肉の争いをするようなことになっていたとしたなら、戦火はさらに激しいものにとなっていたことであろう。「押す」者たちばかりがぶつかっていた時代、義政のように「引く」者がいたからこそ、あれ以上の戦火にはならなかったのである。
このような戦術家であった義政が、単なる芸術家たちのパトロンとしてだけ、世間に伝わっている、というのも、おかしな話である。まぁ、もっとも、戦術家としての義政にとっては、「無能」というレッテルを張られたほうが、「動きやすかった」であろうけれども・・・・。
なるほど、これ(「無能」というレッテルを張られること)も、義政の戦術?

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1 Response to 七つの回廊

  1. shinichi says:

    足利義政は、本当に無能か?

    七つの回廊

    http://75922026.at.webry.info/201611/article_13.html

    ≪・・・・「日本史上最高に無能な将軍が、おもむくままに育てた文化は、後の日本人の美意識を決定付けた」(ドナルド・キーン)

     永亭8年(1436年)生まれの足利義政は、戦国の世を作り出した悪しき足利幕府の中でも、最低の将軍といわれるほど、評価はめちゃくちゃ低い。

     戦国時代に日本が突入することになったきっかけは、応仁の乱。その当時、将軍であったにもかかわらず、義政は、武士たちの戦いの場から数百メートルしか離れていない御殿から、一歩も外に出ることなく、庭園を眺めながら茶をたしなみ、山水画を鑑賞していたというから、驚きである。

     応仁の乱が始まる前は、忌々しき「寛正の大飢饉」があった。京の市中に死体が並び、悪臭が蔓延、鴨川は死体の山で流れが止まったとさえいわれているが、義政はなんら施政に手を打つことなく、民を見殺しにしている。

     その間でさえ、彼は自分の御殿の改築に熱心で、美術に凝った庭の造園に熱中していたそうだ。さらに新たな御殿の新築も計画していたというから、呆れる。

     しかし、幕府の弱体化にさらに輪をかけ、将軍としては失格だった義政も、東山の山荘に引っ込んで居を定めてからは、歴史家の彼への評価が180度、変化する。それを代表するのが、冒頭に掲げたドナルド・キーンの言葉だ。

     義政が世を憚るようにして引きこもったこの山荘から発信された「東山文化」こそが、日本の文化史上もっとも独創的で、美術史上もっとも豪華絢爛たるものを、後世の私たちに残しているからだ。

     義政自身が、秀でた芸術家であったわけではない。しかし、絵画、書画、歌など、芸術に秀でた者を見抜く眼力がずば抜けていた。また、身分に関係なく、そういう優れた才能の者は、どんどん召抱えて、思う存分作品を作らせ、しっかりと庇護した。

     応仁の乱を引き起こす原因は、義政後の後継者争いが原因であった。そして、この応仁の乱より、日本全国を戦火に包む戦国時代は幕を開けたのである。戦火に燃える町を、町民を、見捨てた施政。彼は、なぜ乱をおさめようと、行動しなかったのか。

    「我々は、義政が行動に出ようしなかったこと、つまり、一方に味方することを拒否したことに、一人の衰弱した暴君を見るのではない。むしろ、そこに見ていいのは、自分を取り巻く終わりのない紛争に解決を見つけることを断念した、一人の教養人の姿である」

     ドナルド・キーンをして、こういわしめる義政は、「無能将軍」のレッテルを張られながらも、死後、認められた「復活」の将軍といってよいだろう。・・・・≫

     ・・・・観るに観るに、いやいや、義政は本当に「無能将軍」か?

     まず、上述において、「義政は、武士たちの戦いの場から数百メートルしか離れていない御殿から、一歩も外に出ることなく・・・・」と、述べられているけれども、よくよく観れば、そりゃ、戦いの現場には直接、赴いてはいないけれども、しっかりと後方から戦略的な指示を出していた。

     また、「庭園を眺めながら茶をたしなみ、山水画を鑑賞していた・・・・」とあるけれども、これは戦っている最中ではなく、戦う直前の話である。戦う前であっても、これだけリラックスできていた、という話である。それらが、ごっちゃになって伝わって、あたかも、戦いの最中に、そのような鑑賞していたように言われ始めた、ということである。

     さらには、応仁の乱に伴う、戦火に燃える町や町民を見捨てた、とあるけれども、その頃には、もう、義政は将軍職を辞しており、隠居の身であったため、あえて、出しゃばることをしなかった、というだけのことであって、決して、「見捨てた」わけではなかった。

     町中をこまめに歩き回り、けが人の搬送や被災した人々の食事の手配など、「本当にこれが無能か?」と、思えるほどに、奉仕的な活動をしていた義政の姿が観える。当時の義政のこうした奉仕的な行為は、(意図的に、と思えるほど)伝えられていない。

     政治そのものに関しても、かなり消極的であったように伝わっているけれども、義政にしてみれば、「勝算のない戦いはしない」という、根本的な姿勢を貫いていただけである。側室やら、乳母らが、政治に強く介入しようという意図がみえみえであったため、ある意味、彼女たちには頭が上がらなかった義政は、無用な争いを未然に避けるために、政治に対して、消極的なように装っていた、というだけのことである。

     これらは、すべて、義政の「無用な争い」を避けるための「戦術」であった。もし、義政が彼女たちと骨肉の争いをするようなことになっていたとしたなら、戦火はさらに激しいものにとなっていたことであろう。「押す」者たちばかりがぶつかっていた時代、義政のように「引く」者がいたからこそ、あれ以上の戦火にはならなかったのである。

     このような戦術家であった義政が、単なる芸術家たちのパトロンとしてだけ、世間に伝わっている、というのも、おかしな話である。まぁ、もっとも、戦術家としての義政にとっては、「無能」というレッテルを張られたほうが、「動きやすかった」であろうけれども・・・・。

     なるほど、これ(「無能」というレッテルを張られること)も、義政の戦術?

    【参考文献】
    『起死回生の日本史』歴史人物発掘会著
    〔竹書房〕 P32~P35

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