現代國語への處方箋

私は康煕字典の字體を如何なる場合も用ゐるべきだなどとは考へてをりません。多分、正統表記を主張する方々も多くは同じ考へではないかと思ひます。手書の場合には、「為」「来」「体」などの略體を用ゐることに何の疑問も持ちません。誰かが手書で「鴎外」と書いても差支へありません。私は鷗外への尊敬の念から敢へてさういふことはしませんが、それは許容さるべきだと考へてゐます。しかし、從來「略字」であつたこれらの書體を「正字」に格上げして活字の世界にまで持込むことには反對なのです。コンピュータ・フォントを含む活字の世界では、これらは「爲」「來」「體」「鷗外」と正しく表記されなければなりません。「正字」といふ既に完成した體系がある以上、それを廢棄して、似て非なる新體系を作る必要が何故あるのでせう。それをすることによつて、どういふ便益があるのでせうか。却つて、言葉を混亂させるだけです。「鴎外」といふ表記が許容されるためには、「鴎外」と書いた原稿が、必ず「鷗外」の字形となつて活字になるといふ約束がなければならないのです。

2 thoughts on “現代國語への處方箋

  1. shinichi Post author

    正字について

    現代國語への處方箋

    http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/Seiji_ni_tuite.html

     和田さんと私とは、傳統的書體で統一された文書を「美しい」と思ふ點において感性を共有してゐるやうです。現代表記は正統な表記と崩れた表記とが混在するために、醜惡にならざるを得ないのです。また、漢字には時と所により様々な字體があり、どれか一つを唯一絶對として、他を否定する意見に與しないといふ考へも多分共通するのではないかと思ひます。私は、「當用漢字字體表の字體を唯一絶對のものとして、如何なる場面でもそれを用ゐよ」、或いは、「その表の範圍から逸脱して漢字を用ゐ、または定められた音訓を超えた表現をすることはけしからん」といふ現代日本の一部の風潮を否定します。
     私は康煕字典の字體を如何なる場合も用ゐるべきだなどとは考へてをりません。多分、正統表記を主張する方々も多くは同じ考へではないかと思ひます。手書の場合には、「為」「来」「体」などの略體を用ゐることに何の疑問も持ちません。誰かが手書で「鴎外」と書いても差支へありません。私は鷗外への尊敬の念から敢へてさういふことはしませんが、それは許容さるべきだと考へてゐます。しかし、從來「略字」であつたこれらの書體を「正字」に格上げして活字の世界にまで持込むことには反對なのです。コンピュータ・フォントを含む活字の世界では、これらは「爲」「來」「體」「鷗外」と正しく表記されなければなりません。「正字」といふ既に完成した體系がある以上、それを廢棄して、似て非なる新體系を作る必要が何故あるのでせう。それをすることによつて、どういふ便益があるのでせうか。却つて、言葉を混亂させるだけです。「鴎外」といふ表記が許容されるためには、「鴎外」と書いた原稿が、必ず「鷗外」の字形となつて活字になるといふ約束がなければならないのです。

     世の中には「正しい」こと、「在るべき姿」といふものが必要だと私は考へてゐます。しかし、萬民が「正しい在り方」を墨守する必要は無いのです。無知や怠惰から正しい道を踏外す事もあるでせう。あるいは意圖的に、それに反した行ひをする事もあるかも知れません。しかし、間違ひを犯すことがあるからといつ
    て、「正しい」といふ概念が無用なわけではありません。「正しいこと」といふ概念が世の中に嚴然として存在してをり、皆それを氣にしながらも、時にはそれを踏み外すことを許容する。さういふ在り方が、最も望ましいのではないかと私は考へてゐます。(鷗外の「假名遣意見」参照せられたし。)

     假定の話ですが、もし日本で使用する漢字の字體を所謂擴張新字體で統一することができたとします。さうして作成された完全擴張新字體による文章は傳統には反しますが、一應ある種の體系に則つてゐるかもしれませんし、小さな活字で文庫本に印刷するのには都合が良いものかもしれません。しかし、假にその言語改造に百年かかつたとしませう。百年後の日本人も現代の私と同じやうに、電車の中で文庫本を讀むと言ひ切れませうか。何か、もつと輕くてかさばらなく、難なく数萬の正統な漢字を美しく表示できる道具が實用化されてはゐないでせうか。タイプライターといふ「文明の利器」のために漢字廢止論にはしつた、假名文字論者の轍を踏むことになりますまいか。言葉が道具のためにあるのではなく、道具が言葉のためにあるのです。確か、福田恆存がさういふことを書いてゐたはずです。

     現代人の多くが鷗外を本來の表記で讀むことができなくなつたやうに、所謂擴張新字體しか知らない世代には、現代普通に流通してゐる本を讀むことすら困難になるに違ひありません。しかし、さういふことを論ずるまでもなく、それは不可能なのです。そのことについて少し考えて見ませう。
     當用漢字(常用漢字)の体系では龍、瀧を「竜」「滝」に改めたのに、襲ふは從前のままですし、表外字は正字を用ゐるしかありません。結果として、現代表記の漢字の體系は非常に混亂してゐます。籠は當用漢字、常用漢字に含まれてゐませんから、本来籠の字形を使ふべきですが(實際多く現代でも籠の字形が使はれてゐる)、奇妙なことにコンピュータ用のJIS字體で「篭」の字形が採用された。「冒涜(冒瀆)」、「鴎外(鷗外)」、「潅水(灌水)」といふ正統性を缺く表記が罷り通るやうになつたのです。「桧(檜)」「侭(儘)」「薮(藪)」なども使ふことが憚られる字體であります。

    (正統表記の體系)龍/瀧/襲/ 籠 /聾/朧/寵/ 壟/礱/龐/巃/曨/蘢/瓏/嚨
    (現代表記の體系)竜/滝/襲/(篭)/・・・
     
     しかし、朧などの字は今のところ(多分これから先も)「竜」を含む字體で統一を図る事は不可能です。これは、小生が少し調べてみた限りですから、龍の形を含む字は他にもたくさん在ると思ひます。これらの全ての字體に対して、「拡張新自体」を用意し、またそれを普及させる事は事實上不可能でせう。戰後あんなことが出來たのは、日本全体が無理な戰争の遂行のせゐで疲弊しきつてゐたことに加へ、米國の占領統制下で一部の人間の意志で、或る意味何でも出來たからではないでせうか。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    「現代國語への處方箋」は変だ。変なだけでなく、いろいろと矛盾している。

    まるで、ドンキホーテのようだ。

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