島尾敏雄

私はぐらぐらと赤土の崖からころげ落ちる頼りなさに襲われて来る。問題はそのような所にはないのだが、私はもう十箇月の間固着した同じような質問に答弁することを強いられ、それがもつれて行き、私の過去は白々とあばかれ、収拾がつかなくなることを繰返している。ああはじまって行く、はじまって行く。そう思うと頭はくらみ、妻の顔にも憑きものだけが跳梁し、私ののどもとには身勝手なむごい言葉が次々とつき上って来る。そしてそれをとどめることができずに口に出してしまう。

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    島尾敏雄

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    『われ深きふちより』

      《私と妻とはその頃半年もの間殆ど、お互いが片時もそばを離れることができなかった。そのために務めていた教師の職は放棄し、物を書く余裕もないので生活は目に見えて逼迫した。私には既に世間というものがなくなってしまった。ただ、妻の神経の表面にメタン瓦斯のように限りなくわき上がってくる疑惑のいらだちに、寝ても覚めてもいや真夜中でさえもお互いが顔をまともにつき合わせて、その日その日が移り変った。》

      《私はぐらぐらと赤土の崖からころげ落ちる頼りなさに襲われて来る。問題はそのような所にはないのだが、私はもう十箇月の間固着した同じような質問に答弁することを強いられ、それがもつれて行き、私の過去は白々とあばかれ、収拾がつかなくなることを繰返している。ああはじまって行く、はじまって行く。そう思うと頭はくらみ、妻の顔にも憑きものだけが跳梁し、私ののどもとには身勝手なむごい言葉が次々とつき上って来る。そしてそれをとどめることができずに口に出してしまう。》

      《いやこのような言い方は当を得ていないかもしれない。私は私の生まれつきを解体したい! いやそのように感傷をぶちまけてみたところでどうなるものでもあるまい。私はやはりこのまま腐肉をついばまれていなくてはなるまい。宙ぶらりんのままで、どこに手足を支えよう術もなく。》

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    『のがれ行くこころ』

      《妻は私を一刻も傍から離せないという疑惑の地獄の中におちこんでいる。たとえば私が厠に立ってさえ私の喪失を不安に思う。その不安は底知れずに重なり、私を獲得するために、あくことのない要求を続けなければ安堵できないしかし求めれば求めるほど渇きはいや増し満足はできない。そのために心は荒れて狂暴に、要求は苛酷になったが、それはいっそう自分をいらだたせ不安を深め疑惑を雲のように湧かせるだけだ。私は反応になやむ妻にひたすら奉仕する。一箇の機械と化することを心掛けたが、それは砂漠に打ち水をするたよりなさに打ちのめされるばかりに見えた。果てしない妻の渇望を埋めることは到底できそうもない。しかも妻のそばを離れられない。》

      《反応の誘因は私なのだから次第に私というものが嫌悪の反面を伴っていることに、妻は気づきはじめるが、といって私を失うことには堪えられない。その状態は私をますます不利な立場に追いこめる。発作にまきこまれると私は自分を底知れぬほどに嫌悪した。醜怪な肉塊にも思えた。むなしき奉仕の姿勢など悪臭を放って感じられる。そして蛇が鎌首をもたげるふうに自我のいきぶきが押さえようもなく噴き出して来た。》

      《妻は一切の外界の刺戟を恐れる。私がどのように醜くても、妻は私をそばに引き寄せて置いて、暗い穴蔵の奥深い処にひそんでいたいと願った。それが次第に愈々深くそうなった。》

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    『島の果て』

      《トエは部落がすっかり寝静まってから頃合を見て浜辺にでました。だが中尉さんは潮汐の図表の見方をあやまっていました。部落に近い浜辺では何ほどのこともなかったのですが岬の鼻近くなるとだんだん行手は険しくそそりたって潮はみなぎって居りました。トエは山際の崖を難儀して歩かなければなりませんでした。そしてそれはあの毒へびに対しては一層危険でした。そのうち山際がそそり立っていてどうしても歩けない場所がありました。そんなときにトエはすべる岩をつかまえて海の中をこしました。白月に向かった月はもう沈んで居りました。海の底はとがった岩やそそけ立った貝がかくれていて、あしを傷つけました。夜光虫がトエの着物に一ぱいまとわりついて光ったり消えたりしました。なまぐさい潮の香が鼻をつきトエは泣きました。誰をうらむでもなく、ただ自分の生まれ合わせを泣きました。ガジマルの生えた下を通るときはトエもヨチと同じようにケンムンが怖かったのです。夢中で通り過ぎました。沖の方から時々櫂の音がきこえてきました。こんな夜更けに誰が通るというのでしょう。それはきっと亡霊に違いないと、トエは思いました。風がヒュウヒュウと吹いているところもありました。トエは眼をつぶり岩のかげにうずくまって祈りました。もうれが通り過ぎると、いためてびっこになった足をひきずって又山際の岩の間や海の中を歩きました。

     一方朔中尉は、眼がさめました。枕もとの夜光時計を見ると針は十二時の十五分前を示して居りました。もやもやとした布切のようなものが溯中尉の頭の中にはいってきて起こしたのでした。それで寝ずの番に、私は塩焼小屋の所で夜の海を見ているから用事ができたら躊躇なく大声で呼ぶように、そうすると塩焼小屋に居る私はその声ですぐとんでくるからと言い置いて、塩焼小屋の浜辺にやってきました。トエの来る方の闇をすかして見ますと潮がひたひたと山際まで来ているのを発見しました。しまった! と中尉さんは思いました。でもトエは来る! きっと来る。しかしひどい難渋をしてくるだろう。つと胸がつきあげられ、トエがいとしくてたまらなくなりました。じっとしておれないのです。しかしじっとつっ立っていました。やがてためらい勝ちに浜辺の砂をふむ足おとが近づいてきました。思わず岩のかげにかくれました。その足おとが浜のところに来て、ぎくりと立ち止まると、中尉さんは静かに岩かげから出て、その人かげをしっかり胸に抱きました。トエは黙って抱かれました。汗でむれて髪の毛のにおいがしました。中尉さんはトエの顔を胸から離して闇の中でながめようとしました。ほの白くほつれ毛が汗で額にくっついていました。中尉さんが両手でトエの目もとをさぐると指が濡れました。そしてにわかにあついしたたりを指先に感じました。何だかズボンのあたりがつめたいので、トエのからだをさぐると腰から下がびっしょり濡れているのを知りました。びっくりしてよく見ると、腰のあたりに海草がくっついていました。トエがどんなにしてここまで来たかがよく分かりました。胸がしめつけられるように痛みました。足もとを見るとトエははだしになっていました。そしてあちらこちらに血がにじんでいました。中尉さんは自分のからだでトエをあたためてやろうとしましたが、トエのからだはなかなかあたたまりませんでした。トエは着物の手首と紋平の足首の所にゴムひもをつけてからだをきつくしめていました。それでそこがゴムひものせいでくびれました。中尉さんは何も言いませんでした。トエも黙って自分の胸の鼓動を数えました。対岸のウ島のキャンマ山の頂がうっすら明るくなりました。それはあかつきの金星が出て来る前ぶれでありました。》

      《トエは中尉さんに気付かれないようにあの小さな飾りのっいた短剣を白い布に包んでしつかり持ってきていたのです。 それを今、十字架のように胸に押しいただいているのでした。すっかり夜があけてしまうまでトエはそこに居ようと思いました。もし何かが海に浮んでそれが五十二の数だけトエの眼の前の入江を外海の方に出て行ってしまったときには、そのときもうトエもたくさんの石ころをたもとに入れて短剣をしっかり胸に抱いたまま海の中にはいって行こうと思いました。》

      《「トエ」
     ぽつんと中尉さんが呼びますと、
    「え」
     それまで眼を落していたトエは中尉さんの眼を見ました。 そして彼女の運命をよみとったのです。
    「私は誰ですか」
    「ショハーテの中尉さんです」
    「あなたは誰なの」
    「トエなのです。」
    「お魚はトエが食べてしまいなさい」
     トエは笑いました。トエは娘らしく太っていました。いたずら盛りの小娘のように頑丈そうでした。 ただ瞳がいくらかななめを見ていてたよりな気でありました。 その瞳を見たときに中尉さんは自分が囚われの身になってしまったことを知りました。》

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    『死の棘』

      《「あなたはあいつと池袋に行ったことがあるか」
     とまず最初の尋問がはじまると、次々に疑問が湧いてきて、終末の見当のつかないゲームが続く。食事はそのままになり、伸一は
    「カテイノジジョウ、カテイノジジョウ」
     とマヤに目くばせして白い目をつくり、親たちに、「カテイノジジョウはやめろ!」
     とことばを投げつけるが、もうとどめようがない。湧きあがってくるききたいだけの尋問を妻は口にし、その釈明を求め、とどのつまり、
    「あなたのきもちがどういうものかよくわかりました。あたしはあなたへの愛を失ったとしか思えないから、どうか死なせてほしい」
     と言う。》

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