しかし将軍義政はそれにもかかわらず、その八月二十五日には斯波義敏を三国の守護に任命するのだ。三国の守護職で命あり管領家でもある武衛氏の相続者が、女の口ぞえでくるくる変わるのだからひどいものである。
ところがそれからわずか十日も経つや経たずやの九月初旬、伊勢貞親は「足利義視が期波義廉に味方していますよ」と将軍義政に議言した。これを聞いた将軍義政はその議言を信じ、足利義視を殺そうとした。義視は将軍義政の弟であり、後継者とするために還俗させられていた人間である。そういう重要人物をすぐ殺す気になるのだから将軍義政も軽率だが、それだけ伊勢貞親の言葉は将軍義政に信用されていたことを示す。
義視は身の危険を知るや細川勝元のところにかけこんだ。「こうした騒動が起こるのも、ひとえに伊勢貞親が怪しからんことを言うからだ」と諸将は連署した文書を将軍義政に出して、伊勢貞親を殺するよう請願した。危険がかえって自分の身に及びそうだと悟った伊勢貞親は近江に逃げ、斯波義敏は越前に落ち、僧季増真薬もいずこにか遊走した。それで将軍義政はこの約十日後に、斯波義廉を越前、尾張、遠江三国の守護に再び任命した。
甦る日本史[3][戦国・織豊時代篇=応仁の乱から朝鮮出兵まで]: 頼山陽の『日本楽府』を読む
By 渡部昇一
**
渡部昇一の戦国史入門: 頼山陽「日本楽府」を読む
by 渡部昇一
頼山陽(1781年 – 1832年)
1822年に上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、1826年には代表作となる『日本外史』が完成し、1827年には江戸幕府老中・松平定信に献上された。
(sk)
頼山陽が、1826年に、1456年に起きたことを、まるで見てきたかのように書く。頼山陽に義政のなにがわかるというのだろう。
渡部昇一が、1996年に、頼山陽の書いたものをもとに、義政を悪く書く。義政のことをなにも知らないというのに。