南方熊楠

第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。
夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。

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  1. shinichi Post author

    巨樹の翁の話

    by 南方熊楠

    南方閑話

    南方熊楠全集 2

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     紀州旦高郡上山路村大字丹生川の西面導氏より大正九年に聞いたは、同郡竜神村小又川の二不思議なることあり。その地に西のコウ、東のコウとて谷二つあり。西のコウに滝あり、その下にオエガウラ淵あり。むかしこの淵にコサメ小女郎という怪あり。何百年経しとも知れぬ大きな小サメあって美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵辺へ来るを見れば、オエゴウラ(一所に泳ぐべし)と勧め水中で殺して食う。ある時小四郎なる男に逢って、運の尽きにや、七年通(とお)スの鵜をマキの手ダイをもって入れたらわれも叶(かな)わぬと泄(もら)した。小四郎その通りして淵を探るに、魚大きなゆえ鵜の口で噉(くわ)ゆるあたわず、嘴もてその眼を抉る。翌日大きなコサメが死んで浮き上がる。その腹を剖くとキザミナタ七本あり。樵夫が腰に挿したまま呑まれ、その身溶けて鉈のみ残ったと知れた、と。

     畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅(あたぎ)の方言アメノ魚をコサメと言う、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。七年通スの鵜とは七年通しの鵜で、すべてこの鳥陽暦の六月初より九月末まで使い、已後は飼い餌困難ゆえ放ち飛ばす。されど絶好の逸物は放たず飼い続く。しかし、七年も続けて飼う例はきわめて少なし。マキの手ダイはマキの手炬(てだいまつ)で、マキを炬に用ゆれば煙少なくはなはだ明るし。キザミナタは樵夫が樹をハツルに用ゆる鉈である。

     第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。

     夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。(以上、西面氏直話)

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