安岡正篤

我々の生活を支配しておる、あるいはその内容を成しておるこのエネルギーの作用には、潜在エネルギーと顕在エネルギーの二種があるのであります。
我々の体格とか肉づき、栄養といったようなものは、これは現われておるエネルギーであります。ところが、そのように現われ、明らかに外面に出ておるエネルギーは、その人に存する全エネルギーの極めて一小部分でありまして、むしろ顕在エネルギーよりも潜在しておるエネルギーの方が遥かに強い力、大きな存在であるのであります。それはちょうど氷山と同じことで、水面に現われておる部分はごく一小部分であって、水面下に潜在しておる部分の方が、少なくとも水面に現われているものの八倍くらいはある。そこでうっかりしてよく氷山にぶつかって船が沈没するそうであります。それだけ潜在面が大きい。我々の潜在エネルギーも、このような非常に強い力を持っておるのであります。
ところが、見かけはまことに弱そうに見えながら、何かやらせると非常に精力的な不屈不撓の人もおります。これは顕在エネルギーは貧弱であるけれども、氷山みたいに潜在エネルギーが旺盛なのです。どうも人間は自然の物質よりも複雑で、どちらかというと、見てくれのいい人よりも、見てくれのさほどでない人に潜在エネルギーの旺盛な人が多いものであります。「柳に雪折れなし」などというのも、そういう意味において相通ずるものがあります。
歴史を見ましても、英雄とか哲人とかいわれる人に、案外見てくれのそれほどでない人が多いものであります。

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2 Responses to 安岡正篤

  1. shinichi says:

    活眼活学

    by 安岡正篤

    [1] 活眼・活学

    1-1 肉眼と心眼

    1-1-1 潜在エネルギーと顕在エネルギー

    「肉眼と心眼」というような意味をもって、日本の内外の大切な問題をお話し申し上げましょう。

    人間は特に目が大切であります。即ち物が見えなければなりません。それも単なる肉眼では目先しか見えません。それではすこぶる危険であります。我々は外と同時に内を見、現在と同時に過去も未来も見、また現象の奥に本体を見なければなりません。仏教の方でも「五眼(ごげん)」ということを説いております。肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)、仏眼(ぶつげん)と申しますが、とにかく肉眼(にくがん)以上のものを心眼といたしておきましょう。それで見ますと、我々の生活も宇宙の活動も結局一つのものでありまして、宇宙をよくマクロコズム macrocosm と申しますが、我々の存在、我々の生活は、それに対して申しますればミクロコズム microcosm(小宇宙)であります。マクロとミクロと、つまり大と小との違いこそあれ、その本質においては共に同じコスモス cosmos(宇宙)であります。もしこれに科学的解釈を与えますならば、いずれもエネルギーの運動であり、変化であるということもできるのであります。

    ところが、このエネルギーというものが我々の身体に発動しておることについては、随分誤解があるようであります。優れた新しい科学者の話を聞きますと、我々に意外な感じがするほど、しかもこの非常に新しい研究が、非常に古い、従来我々が親たちから聞かされておったことの新しい証明になる点において、限りなく興味があることでありますが、我々の生活を支配しておる、あるいはその内容を成しておるこのエネルギーの作用には、潜在エネルギーと顕在エネルギーの二種があるのであります。

    我々の体格とか肉づき、栄養といったようなものは、これは現われておるエネルギーであります。ところが、そのように現われ、明らかに外面に出ておるエネルギーは、その人に存する全エネルギーの極めて一小部分でありまして、むしろ顕在エネルギーよりも潜在しておるエネルギーの方が遥かに強い力、大きな存在であるのであります。それはちょうど氷山と同じことで、水面に現われておる部分はごく一小部分であって、水面下に潜在しておる部分の方が、少なくとも水面に現われているものの八倍くらいはある。そこでうっかりしてよく氷山にぶつかって船が沈没するそうであります。それだけ潜在面が大きい。我々の潜在エネルギーも、このような非常に強い力を持っておるのであります。

    そこで案外、顕在面で、いわゆる見てくれにおいて堂々たる体格をしておる人間が、それに相応して潜在エネルギーも旺盛であるとよいのでありますが、人間は氷山と違って、見てくれは堂々としながら、この潜在エネルギーの面においては案外貧弱な人があるものです。こういう人はえらく立派な体格をしておって、どんなに丈夫かと思うと、いやに病気をし易かったり、頓死をしたり、「へえ、あの男が参ったかね」というようなことをやったり、乃至は図体にも似合わず、ちょっと働くとすぐフウフウいったり、精力が続かなかったり、「大男総身に知恵が回りかね」ということもありますが、知恵ばかりでなく精力も回りかねる、だらしのないのが多いのであります。これはその潜在エネルギーが貧弱なのであります。

    ところが、見かけはまことに弱そうに見えながら、何かやらせると非常に精力的な不屈不撓の人もおります。これは顕在エネルギーは貧弱であるけれども、氷山みたいに潜在エネルギーが旺盛なのです。どうも人間は自然の物質よりも複雑で、どちらかというと、見てくれのいい人よりも、見てくれのさほどでない人に潜在エネルギーの旺盛な人が多いものであります。「柳に雪折れなし」などというのも、そういう意味において相通ずるものがあります。

    歴史を見ましても、英雄とか哲人とかいわれる人に、案外見てくれのそれほどでない人が多いものであります。この間も久し振りに「忠臣蔵」の映画を見たのでありますが、あの大石内蔵助などという人も、劇などではまことに堂々たる風格の人のように扱われておりますが、実際は歴史家の話によりますと、実は案外それほどでない。貧弱といっては悪いかも知れませんが、あまり風采は上がらなかった人のようであります。しかし見る人が見たならば、それはすぐ分りましょう。つまり心眼でみればすぐ分りましょう。

    このごろいろいろ小説家の作品で有名になりました『三国志』。あの中に立役者の曹操という英雄がおります。皆さんの中にも『三国志』の愛読者がありましょうが、当時、今の四川の方に勢力を秘めていたのが劉備と諸葛孔明、北支一帯を支配したのが曹操であります。曹操などは、中国史四千年の歴史上大英雄といわれる人物であります。それが今の話で、そんなに風采が上がらない人でありました。

    そこでこの英雄、英雄というものはとかく虚栄心の強いもので、いつの時代でもそうですが、ムッソリーニでもヒットラーでもスターリンでも、なかなか虚栄心が強かった。曹操もやはり虚栄の強い人でありまして、殊に自分の風采の上がらないということを苦にして、ある時、彼に服従した一勢力の使者が参りまして、初めて謁見いたしました時に、彼はわざと、自分の家来の中から一番風采の立派な人物を自分に化けさせて、自分はその侍従になって、傍について謁見式をやりました。その使者がなかなかの人物でありまして、謁見式が終わって引き下がったその控室で、接待の家来が「どうですか、今日君公にお目にかかった御印象は」と聞きましたところが、「さすがに曹公は御立派な方にお見受けしましたが、しかしあの曹公の傍におられた侍従は、ありゃ偉い人ですなあ」と言って感心いたしましたので、びっくりしてそのことを報告いたしましたら、曹操がニヤリと笑って「それはなかなか容易ならん奴じゃ。そういう奴を無事に帰せば大変なことになる」と言って、捕えてしまったという話がございます。

    見る人が見れば分かるのでしょうけれども、見てくれと内実、顕在面と潜在面とは案外釣り合わないものでありまして、肝心なことは、その潜在エネルギーが顕在的なものより遥かに旺盛である、充実しておるということであります。人間の健康から申しましても精神から申しましても、あるいはまた植物の栽培から申しましてもそうでありまして、やはり根を培養することが深くないと、フラフラと麦が徒長したようなものになってしまっては、これは駄目であります。だから、優れた栽培家は、常に枝を剪定したり、花や実を間引いたりして、根の力を強くし、根の培養を深くするよう苦心するものであります。我々も、常にこの潜在エネルギーを培養するように留意しなければなりません。

  2. shinichi says:

    [1] 活眼・活学

    1-1 肉眼と心眼

    1-1-6 近代科学文明と人間の自己喪失

    この機械文明、都市生活のために人間生活が集団化・大衆化して、群集心理なるものが横行し、個人などの主体性、生活内容を失っていくということは、おそろしいことであります。だんだん集団が全部になって、個人がゼロになる傾向が強い。つまり文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。この恐ろしい事実が、あらゆる学者、批評家、芸術家、文学者等によって、さまざまに描かれ、警告されておるのが、今日の思想界や評論界の痛ましい事実であるということができましょう。

    事実、仮に皆さんが日曜に家にでもおられて、朝から晩までラジオやテレビに対しておられたら分かると思います。例えばラジオは、朝から夜までなり続けておって少しも休む暇がない。初めから終りまであのラジオを聞いておったなら、頭が変になるでしょう。それから新聞・雑誌などというものも、我々、1週間ほど旅行しますと、ゾッとするほど机の上にたまりますが、そんなものを仮に皆さんが5つも6つも購読されて、それを毎日全部読むとしてごらんなさい。恐らく、ものを考える余裕などは全くなくなるでしょう。自分の思考力なんていうものはゼロになる。そういうものに全部頭を支配されてしまう。

    家庭にラジオとテレビと面白そうな新聞・雑誌も揃えてごらんなさい。子供はほとんど勉強できないでしょう。暇さえあればラジオとテレビに齧(かじ)りつき、雑誌を操るでありましょう。大体、そういうことで毎日を暮らしたら馬鹿になってしまいます。自分の思考力だの判断力だの批判力だのというものが全然なくなってしまいます。

    それから、まだそれくらいの年齢なら宜しいが、東京とか大阪、あるいはニューヨークとかロンドンとかへ行って、あの宣伝と広告と各種の刺激、それも強い感覚的な刺激、あれを毎日受けていると、刺激だけに圧倒されて、本当の個性というもの、内面的自己というものがなくなってしまうのであります。

    全く、新聞とラジオと雑誌とテレビに映画、それにダンスだのスポーツだのというものをほしいままに享楽してごらんなさい。皆さんはすぐに、自分の内容というものをなくしてしまいます。朝からラジオを聞いて、新聞を見て、それから事務所に出て雑務に追い回され、終わったら競輪とか競馬とか野球とかを見て、そうでなければ映画館へ入って映画を見、帰ってラジオを聞き、テレビを見、雑誌を読んでいったなら、もう何の某(なにがし)というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関になってしまいます。

    だから、物質文明、享楽文明が発達するほど、文明人、都市人、知識人は無内容になるのであります。そうして皆、何ほどか肉体的・精神的に病的になる。気の弱い者は神経過敏、神経衰弱になり、精神分裂になり、だんだん異常人格になっていくのであります。その弱い者がアドルムとかヒロポンとかに走って、そういう禍が民族的・社会的大問題になりつつあるという現状であります。

    そこで、そういうことをしておると、戦争などのためでなく、その機械的・享楽的文明そのもののために文明人が滅んでしまう。みんなが慢性的病人、精神異常者になって、健全な判断力も思想力も道徳力も何もかもなくなってしまう。つまり肉眼は開いても、心眼が寝付いてしまう。少し心眼の開いた人間は、どうして文明をこの滅亡の悲劇から救おうかということで、本当に心配しておるのであります。が、それは単なる政策や宣伝では駄目なものでありまして、やはり個人がその生活、その自己を回復するために、その人々が自覚してやらなければならない。どうしても、他人の力や政策の如きではいけないのであります。

    個人が私生活や内面的自我というものを喪失してしまったら、やがて自己のすべてを失ってしまいます。肉体も人格も崩壊します。各細胞が無内容になり、死滅する時には、いかなる大きなマンモスのような体でも、たちまち滅亡してシベリアの土を肥やすようになってしまうのと同じことでありまして、文明人というものも、やがては地球の土を耕すだけのものになってしまう。そうなったら、20世紀までせっかく文明を発達させたものが、もろくも再び野蛮人の世界に帰ってしまう。

    その野蛮人がまた急速に文明の没落の後を追って、人類が滅亡した後は一体どうなるか、そんなことまで心配しておる学者があります。多分その後は鼠の世界になるだろう、なんていうことを言ったり、いや、そうでなくて猫の世界になるだろうという説もあります。それは猫が鼠を取るからというような意味ではなく、猫というものは、いくら手を掛けて優生学的改良を加えても、どうしても種の改良ができない。せっかくいい猫と猫を掛け合わせて新種をつくろうと思って苦心をしても、三代目か四代目になるとまた原種に戻ってしまって、どうしても文化的にならぬ奴が、この猫なのだそうであります。

    人類が証明しつつあるように、文化的になるということは、やがて滅びるということなのでありますから、今後人類の一番の大問題は、文明の進歩ということが、人間生命の進歩ということにならねばならないということであります。不幸にして、過去の人類の歴史は20幾つかの文明の滅亡史である。このままいくと、現代文明も遠からず、過去の文明と同じように、世界史の中の一つの物語、歴史学・考古学等の材料になるに過ぎないということが、決して杞憂ではないのであります。

    どうしても、文明が進歩すればするほど、我々は心眼を開いて、我々の生活、自己というもの、我々の内面的自我というものを、もっと健全にしながら、その上に本当に理性的な、道徳的な、堅実な社会生活、集団生活、組織を持つようにせねばなりません。それを各人が、各人の責任において努力しなければならない。これが恐らく今日の文明の一番根本的な課題でありましょう。世界を挙げて、あまりに目先のことに追われて、だんだん今まで申しましたように心眼が衰えてきております。こういう現代は危機でありますから、そこで今度は「肉眼と心眼」という題で、こんなお話をした次第でございます。

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