八巻和彦

 通信技術の発達によって,われわれは好むと好まざるとにかかわらず,世界中の多様な情報にさらされている。しかし,人間にとって意味をもつ情報量,あるいは処理可能な情報量は限られているはずである。それを超えると,情報としての意味はなくなり,たんなる雑音(ノイズ)となる。だが,ノイズによってもわれわれの感知能力は消耗させられるから,その結果,感知能力がほとんど麻痺して,逆に自分にとって必要な情報にさえも適切な応答ができなくなるという状況が生じてくる。
 最近では IT 技術の進歩により,音声情報や画像情報もふんだんにわれわれに提供されるようになっている。しかし,文字情報に比べると,音声情報,さらに音声を伴った画像情報は,それをコンピュータに記憶するに際して必要とする記憶容量の増大に比例するような形で,より強くわれわれに作用するのであり,それに比例する形でわれわれは自分の感知能力を消耗させられているのである。
 さらに現代では,これらの大量な情報がコンピュータの同一の画面上に現われることによる問題も生じているということを指摘する必要がある。つまり,自分の前にある画面上に,多様な情報が次々と出現する。その情報は,一冊の書物のように一見して判明な順序をもって並んでいるわけでもなく,ましてや,新聞紙上のように一般的な重要性の順序に従って配列されているわけでもない。信憑性の不明な多くの情報源(発信源)に由来する多様な情報が,同じサイズの画面に現われるだけである。
 つまり,われわれが接する多様で大量な情報が自分にとってどれだけの価値があるのかということは,自分自身が判断しなければならないのである。これは大きな自由を手に入れていることではあるが,しかし,この事態はわれわれにとって常によいことであるわけではない。われわれは自分の判断力に自信をもてないことが少なからずあるからである。かつては,そういう場合のために「評論家」という存在が居た。彼らは,紙面上に登場し,その情報の価値を判断して読者に知らせてくれる特権的な読者であった。しかし,インターネットが卓越する現在の情報世界では,誰でもが発信者になりうるので,個々の情報の判定者の役割を果たしてくれる存在を適確に見つけることはむつかしい。その情報の信憑性を自身で判断しなければならなくなっているのである。これも大きな不安要因となる。われわれは,「ネットサーフィン」をすることによって,遊んでいるどころか,適切なナヴィゲーションの存在しないままに情報の「大海原」を漂流することになりかねない状況にあるのだ。
 さらにわれわれには,情報の洪水にさらされているうちに,本当は真相を知っているわけではないことを,あたかも知っているかのように錯覚する傾向が生じる。〈量〉の多さが〈質〉を決定するという,古典的なプロパガンダ技術によって生じさせられる深刻な誤解や錯覚である。

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