三浦恵次

困ったことに、日本人には PR ということがわからない。「弘報」「報道」「情報」「渉外」「秘書」という字が当時 PR に充てられた日本語であった。
GHQ は、1949年の夏、CIEO 主催による日本で初めての広報講習会(PR 技術研修会)を開催し、政府がその活動についての情報をいかに円滑に国民に伝えるかということを示そうとした。この講習会の記録「広報の原理と実際 (Principles and Techniques of Public Information in Japan)」には、インフォメーションとしての広報が強調されている。しかしそこでの原理は、アメリカという社会を基礎としているものであって、それまでの日本における「天皇の官吏」としての政府・政府機関、あるいは国民を前提にしてのものではなく、更にはそれらを問い直すことも示されなかった。特殊な状況下にあった日本政府・国民という考えが抜け落ちたまま、アメリカの社会を前提にして、話が進められたのだ。そしてまた、日本側は、日本の特殊性の中でしか物事をとらえることができない状況、つまり「官」と「公」を認識できない状況だったのである

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1 Response to 三浦恵次

  1. shinichi says:

    三浦恵次

    http://www.kushima.org/is/?p=35056

    **

    GHQとPR

    行政広報戦後史 小山栄三と日本広報協会

    by 三浦 恵次

    月刊『広報』(1997年)

    http://www.koho.or.jp/useful/notes/theory/theory04.html

    5月号初出

    日本の非軍事化と民主化の実現を、連合国軍総司令部(GHQ)は、当初アメリカ軍の直接軍政によって断行しようと考えていた。しかし、予想よりも早く日本が降伏したことで、占領行政プランの立ち遅れが生じ、欧米とは全く価値観を異にする文化を有し、異質な社会構造を持つ日本に対する専門的知識、更に複雑・難解な日本語の専門家ともいうべき要員の不足などによって、少数の専門家と理解力を持った者を中心に占領担当官側のスタッフ・セクションを形成せざるを得ない結果となった(注1)。こうした理由で、GHQは当初の日本占領計画を変更し、日本政府を通しての間接統治を採らざるを得なかったのである。だが、この結果こそがPR(Public Relations)を日本に植え付ける絶好のチャンスになった。

    なぜなら、GHQは間接統治のための一連の対日政策、すなわち日本の非軍事化、民主化のための政策、それを遂行するチャンネルとしてのPRを考え、PRをもって日本の行政の民主的運営に乗り出す、つまり「行政の民主的運営のためのPR」をそのテコにしたからだ。一方でPRの原則と技術の啓蒙に努めるC・I・E・O(Civil InformationEducation Office)を早期に設置し、他方で日本の政治を動かす通路としてP・R・O(Public Relations Office)の設置を中央、地方官庁に示唆し、PR実践化を推進した。 しかしここでいう示唆は、当時の占領軍権力のもとでの示唆であり「当時のならわしは、単なる“示唆”ではなく、ほとんど指示・命令と同じように考えられていた」 (注2)。それは日本にとって歴史上、経験することのなかった対日民主化政策であり、日本はP・R・Oの設置という意向に即時添うように要求されたのである。しかし、「いわゆるオールマイティからの“示唆”だから、これは一議に及ばず設置しなければならないのだが、困ったことには、かんじんの“P・R”ということがハッキリしない」(注3)というのが事実であり、通訳に聞いてもあいまいで、「弘報」「報道」「情報」「渉外」「秘書」という字が当時PRに充てられた日本語であった。

    P・R・Oの設置を通してPR実践を推進したGHQは、1949年の夏、C・I・E・O主催による日本で初めての広報講習会(PR技術研修会)(注4)を開催した。この講習会は主として、政府広報関係者を対象として行われ、広告代理店業者なども招かれていた。まさにここでは、政府がその行動についての情報をいかに政府側から、円滑に国民に伝えることができるかという、情報を知らせる技術的問題に関して示されているだけである。事実、この講習会の記録「広報の原理と実際」(Principles and Techniques of Public Information in Japan )では、インフォメーションとしての広報が強調されている。しかしここでの原理は、アメリカという社会を基礎としているものであって、それまでの日本における「天皇の官吏」としての政府・政府機関、あるいは国民を前提にしてのものではなく、更にはそれらを問い直すことも示されてはいない。それは特殊な状況下にあった日本政府・国民という考えが抜け落ちたまま、アメリカの社会を前提にして、日本政府・国民はその対象とされたととらえられる。逆に言うと、日本側はそうした日本の特殊性の中でしか物事をとらえることができない状況、つまり「官」と「公」を認識できない状況だったのである。

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