芥川龍之介

 ――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利けない。体も杉の根に縛られている。が、おれはその間に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬しさに身悶えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。
 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

2 thoughts on “芥川龍之介

  1. shinichi Post author

    検非違使に問われたる木樵の物語
    男の死体の第1発見者。遺留品は一筋の縄と女物の櫛だけ。馬と小刀は見ていない。

    検非違使に問われたる旅法師の物語
    殺人が起こる前日に男と馬に乗った女を見かけた。

    検非違使に問われたる放免の物語
    男の衣服を着、弓矢を持ち、馬に乗った盗人・多襄丸を捕縛した。女は見ていない。

    検非違使に問われたる媼の物語
    死体の男の名は若狭国国府の侍、金沢武弘である。女はその妻の真砂で、自分の娘である。

    多襄丸の白状
    男を殺したのは私である。最初は男を殺すつもりはなかったが、女に請われたので男の縄を解き決闘して男を殺した。

    清水寺に来れる女の懺悔
    手中の小刀を使って夫を殺した。自分も後を追うつもりだったが死にきれずに寺に駆け込んだ。

    巫女の口を借りたる死霊の物語
    妻は盗人に私を殺すようにけしかけたまま、隙をみて逃げた。藪の中に一人残された私は妻が落とした小刀を使い自刃した。

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