服部桂

いままで現場の手づくりの経験だけに頼っていた分野で、設計やデザインという思想が情報というかたちで抽出され、培養され、進化し、またモノに落とし込まれる。
それは生物学や医学が、DNAという生命の基本素子のもつ情報構造の表現と理解されるようになって、「外側」からではなく「内側」から情報操作によって扱えるようになったのと同じ流れだ。
こうした流れは、文明にひたすら破壊的な変化を起こすものなのか、破壊から持続的なものに変化しうるものなのか。市場の勝者は敗者を生み出し、新しい方法は旧来の方法に固執する人々を片隅に追いやる。
われわれが熱狂する現在のイノヴェイションは、人間の太古からの深い欲望を新しいツールによって再度解放しているだけの作業なのかもしれない。
現在の局面にだけ目をやって損得勘定で論じるより、もっと大きなパースペクティヴの元に、「イノヴェイション自体のイノヴェイション」を考えるべき時期に来ているのではないだろうか?

One thought on “服部桂

  1. shinichi Post author

    ぼくらはいま「イノヴェイション自体のイノヴェイション」を考えるべき時期に来ている

    https://wired.jp/innovationinsights/post/iot/w/dilemma-of-innovation/

    テクノロジーの発展は時代の光と影を生む。モノからコトへとシフトした現代において、思考のイノヴェイションはどこへ向かうのか。ジャーナリストの服部桂は、「イノヴェイション自体のイノヴェイション」を考える時期が来たと語る。

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    イノヴェイションはポジティヴな未来なのか?

    昨今巷で話題になるビジネス書で、「イノヴェイション」を語らないものは少数派だろう。そうした論のなかでそれが意味するのは、革新を伴う変化であり、ポジティヴな未来であり、神のごとく君臨するビジネスにおける生の賛歌だ。そしてそれに追随できず、破壊されていくのは、敗退者か時代遅れになった過去の遺物たちなのだ。

    しかし人類はいつも時代の変化をそう捉えていたわけではない。古代から中世、産業革命が近代の扉を開く前には、世界の出来事は周期的でほとんど変化らしい変化はなく、新しく起きることといえば、戦争や疫病などに代表される、社会の秩序を破壊するネガティブな影響を与える悪いものばかりだとみなされていた。

    そう考えると、昨今のイノヴェイションをひたすらポジティヴに捉える風潮は、少々特異に感じられる。この言葉を(ヨーゼフ・)シュンペーターが定義した100年ほど前は、産業革命以来の写真や映画、電信や電話、ランプに象徴される電気、ガソリンエンジンによる自動車などのテクノロジーが一般化し、ライト兄弟の飛行機や、アインシュタインの相対性理論など、世界を驚かす近代のイノヴェイションが開花していた時期だった。

    こうしたテクノロジーは大方、人間の行動や生活の基本となる時間や空間の認識をゆるがし、その上に構築された社会生活全般に根本的な変化をもたらすものだった。蒸気機関は労働を工場に集中させて家内工業を破壊し、電信や電話による通信の電子化や高速化は情報を集中させて近代国家の礎となって植民地化を引き起こし、世界標準時によって同期して動き始めた近代は、フランス革命後も社会の深い地層の奥に潜んでいた旧体制と軋轢を起こし、それが結果的に第一次世界大戦を引き起こしたとさえいわれている。

    テクノロジーのもたらした効率化やマス化の矛盾を批判するようになった1960年代から、イノヴェイションはモノからコトへとシフトし、世界の見え方を根本的に変えていった。
    さらに第二次世界大戦では、テクノロジーは人間の手に余るレヴェルにまで達し、核兵器や宇宙開発が冷戦を引き起こし、工業社会の到達点ともいうべきグローバルな生産流通システムが世界を支配する構図が語られるようになった。近代のイノヴェイションは、食料生産や医学を進歩させて寿命を飛躍的に伸ばしたものの、結局は都市の荒廃や環境破壊をもたらし、あげくの果てには核によって人類が滅亡する危機までが囁かれるという、利便性以上に害悪を批判される対象にもなった。

    そして大戦の傷が癒え始めた1960年代には、戦後世代が起こしたカウンターカルチャーが、それまでのテクノロジーのもたらした効率化やマス化の矛盾を、大学紛争やヴェトナム戦争反対の運動などを通して批判していくのだが、そのころからイノヴェイションの質は大きく変わり始めていた。

    それは(言い古されてはいるものの)、重厚長大なモノづくりから、眼に見えないサーヴィスやソフトというコトへのシフトだった。特に戦後に商用化が始まったコンピューターは、当初はただの膨大な計算を高速にこなす機械とみなされ、アウトプットの効率化を支援するオートメーションのツールとして注目されたものの、結果的にはその前提となるインプットとしてのモノづくりの思考の過程を情報化することで、世界の見え方を根本的に変えていった。カウンターカルチャーが、組織の管理ツールだった大型機を、個人が手に取れるパソコンへと変容させ、新しい手法を発想し開発するための思考のツールとして働くように変革していったのだ。

    情報化する思考のイノヴェイション

    よく知られているように、情報化の基底には、ムーアの法則という奇妙な経験則がある。インテルのゴードン・ムーアが50年前に、約2年ごとに半導体のサイズが半分になり、消費電力が下がり性能が向上し価格が安くなると唱えたものだが、それはいまだに続いている。その成果としてのコンピューターは、ここ50年で3000万倍程度の性能向上を成し遂げたと考えられるが、モノ自体の性能を向上させるのではなく、モノを考えるアイデアとしてのコトを進化させたから可能になった成果とも言えよう。

    巨大なモノをつくるのでなく、モノをより小さくしてコトに近づけることによるイノヴェイションはすさまじい。ブラウン管というアナログのモノでできたテレビの価格はずっと1インチ1万円程度だったが、液晶パネルというデジタルのコトに切り替えたとたんあっという間に価格が10分の1程度に下がり続け、大型パネルのイノヴェイションが起きた。

    しかし、小さくすることができず、巨大化し効率が良くなるモノにはイノヴェイションは起きにくい。もし飛行機に半導体と同じペースで小さくなることでイノヴェイションが起きていたら、現在既に、1機が500ドル程度になり、地球を20分で1周できたはずだともいわれる(しかしその結果、飛行機のサイズは靴箱程度になっている計算だが)。

    われわれが熱狂する現在のイノヴェイションは、人間の太古からの深い欲望を新しいツールによって再度解放しているだけの作業なのかもしれない。
    情報化した思考のイノヴェイションは、物質や社会の制約から距離を置き、ムーアの法則の上部構造として進化していく。それは際限のない論理的進化の帰結なのだ。いままで現場の手づくりの経験だけに頼っていた分野で、設計やデザインという思想が情報というかたちで抽出され、培養され、進化し、またモノに落とし込まれる。

    それは生物学や医学が、DNAという生命の基本素子のもつ情報構造の表現と理解されるようになって、「外側」からではなく「内側」から情報操作によって扱えるようになったのと同じ流れだ。情報空間での思考過程を自由に共有し、その結果を3Dプリンターで再現するような現在のメイカーズムーヴメントのようなモノとコトが逆転したような動きも、ある意味、時代の必然的な帰結なのだ。

    こうした流れは依然として、シュンペーターと同時代の哲学者(アルフレッド・ノース・)ホワイトヘッドが警告したように、文明にひたすら破壊的な変化を起こすものなのか、クリステンセンが説くように、破壊から持続的なものに変化しうるものなのか。そこにはまだ、イノヴェイションによって照らし出された光の部分と、それによってできた影が見え隠れする。市場の勝者は敗者を生み出し、新しい方法は旧来の方法に固執する人々を片隅に追いやる。それは結局ゼロサムゲームなのか、本当の意味でプラスとなる何かを見出すことができるのか。

    こうしたゲームの基本ルールは、いくら時代が変わり、モノづくりから情報によるコトに視点が移ったとしても、希少性を争う生物の生存競争と本質的には変わらないのではないか? そろそろゲームのルール自体に目を向けるべきときが来ているのではないか?

    メディア学者のマクルーハンは人類の歴史を振り返って、人々は太古からのアイデアという名の酒を、新しい革袋としての新規なテクノロジーの器に入れて味わうことに大きな喜びを見出していることに気付いた。そう考えると、われわれが熱狂する現在のイノヴェイションは、人間の太古からの深い欲望を新しいツールによって再度解放しているだけの作業なのかもしれない。

    そこには引き続き、歴史で繰り返されたイノヴェイションが本来持っているジレンマが見え隠れするが、コトにシフトした今回のイノヴェイションはそれを超えることができるのか。現在の局面にだけ目をやって損得勘定で論じるより、もっと大きなパースペクティヴの元に、「イノヴェイション自体のイノヴェイション」を考えるべき時期に来ているのではないだろうか?

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    KATSURA HATTORI|服部 桂朝日新聞社ジャーナリスト学校シニア研究員。1987〜89年、MITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者などを経て現職。著書に『メディアの予言者―マクルーハン再発見』〈廣済堂出版〉ほか多数。2014年には、US版『WIRED』初代編集長ケヴィン・ケリーの著書『テクニウム』〈みすず書房〉を翻訳。3月に、電子書籍「『テクニウム』を超えて─ケヴィン・ケリーの語るカ」〈インプレスR&D〉を刊行。

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