森田秀二

恋愛物語とは、本来相手との絶対的一体化の願望である<愛>が、空間的距離(すれ違い)、情報的距離(嫉妬)、制度的距離(不倫)などの障害によって妨げられる物語。

4 thoughts on “森田秀二

  1. shinichi Post author

    <愛>の外在的障害
    ・家/名誉:ロミオとジュリエット、ウェストサイド・ストーリー、野菊の墓
    ・別離/すれ違い:シェルブールの雨傘、ひまわり、哀愁、君の名は
    ・死:慕情、ある愛の歌、めまい、タイタニック
    ・犯罪者:望郷、郵便配達夫は二度ベルを鳴らす、異邦人
    ・性:同性愛:蜘蛛女のキス、クライング・ゲーム、モーリス、悲しみの天使
    ・類:非人間:人魚姫、死霊の恋、ブレード・ランナー

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  2. shinichi Post author


    物語とは何か(4):恋愛物語以前

    物語は<愛>に満ちています。例えば、

    1. 英雄志願者がたまたま訪れた村では怪物に毎年人身御供をせねばならない。今年は村長の娘の番である。そこで英雄は見事に怪物を退治し、娘と結婚する。
    2. 娘は不幸な境遇にある。しかし、清らかな心とたぐいまれな忍耐力によりそれを堪え、やがて王子さま(長者の息子)と出会い、結婚する。
    3. 若者が信じられないほど美しい娘と出会う。娘はなぜか若者の家まで付いてきて、そのままいっしょに生活し始める。子供にも恵まれ、順風満帆というところで夫は妻との約束を破ってしまい、妻はもとの場所(異界)に戻ってしまう。

    (1)はすでにとりあげた男の子の物語、いわゆる英雄冒険物語です。(2)はやはり以前に分析したシンデレラ・ストーリーにその典型がみられ女の子の物語です。(3)は異類婚の話です。(3)については日本でも「鶴女房」「雪女」の話などがありますが、西洋でもケルト系の話をはじめとして多く見られます。日本の羽衣伝説は異類婚の悲恋物語ですが、羽衣をアザラシの毛皮に置き換えれば、映画「フィオナの海」(ジョン・セイルズ監督、1994)で語られる挿話になります。西洋のメリュズィーヌ伝説では、土曜日には見てはならない妻の姿を夫レモンダンが見てしまうと妻は龍の姿で飛び去ってしまいます。このように(3)も世界中に拡がる物語パターンと言えます。

    それでは<愛>に満ちた物語群において、<愛>は実際にはどのように記述されているのでしょうか?ここで驚くべき逆説に遭遇します。物語で愛は実は記述されることはあまりないという逆説です。例えば、冒険ものでは愛は男の主人公が怪物退治をしたご褒美に与えられます。しかし、それは結婚という儀式の形をとるだけで感情としての愛は描かれません。シンデレラ・ストーリーは女の主人公がやはり結婚という儀式に到達するまでのプロセスを追うだけです。結婚は忍耐の、あるいは善意の対価に他なりません。冒険(あるいは忍耐)の目的あるいは結果として置かれた結婚が愛の形式(うつわ)なのであり、うつわの中身が問われることはないのです。今日の冒険物語(例えば、007シリーズ)では褒賞はさすがに結婚という形はとらないかもしれません。その代わりをするのが女性の性的所有であり、これが古典的な結婚と物語構造上は等価です。愛の内容が問われない点では伝統的冒険物語と同じです。こうした物語においては、<愛>は交換を司る経済的な媒体だということができます。

    男の子の物語、女の子の物語についてはすでに紹介しましたので、ここでは異類婚の物語についてくわしく見ていきたいと思います。以下に挙げた民話は日本の代表的な異類婚の話です。まず、物語の基本的図式をあてはめてみました。異類婚の主人公はここでは男性であり、彼は貧しく、独身であるという点で二重の欠如状態にあると想定することができます。この欠乏状態はふつうはある試練(やさしさチェック)を経て、異類の女性との出会いにより解消されます。魔法の小道具により富を得、さらに異類の女性との結婚にいたるわけです。民話の世界ではあらゆる富は異界からやってきます。財宝は天、山、地、海といった異界から村にもたらされます。あるいは英雄物語ならば、異界へ英雄自ら獲得にゆきます(「桃太郎」「スタンド・バイ・ミー」)。女性も異界からやってきます。さらに子宝すらも「桃太郎」、「かぐや姫」のように異界からもたらされます。

    異類婚の話に戻りますと、せっかく獲得した二つの富(財宝と女房)を主人公は女性から課せられていた「見るな」あるいは「開けるな」の禁止を破り、失ってしまいます。異類の女性は異界に戻ってしまい、男は富の源泉も失います。以上を4つの民話についてみますと、次表のようになります。



    ここで「浦島太郎」のふつうの物語は玉手箱を得るだけで女性との結婚は生じませんが、御伽草子版では死後の世界(異界)で乙姫と結婚したというエピローグのつくものがあるようです。「浦島太郎」のバージョンとしてはそのユニークに驚かされますが、一般に恩返しものでは助けられた動物自らが嫁になるというパターンが多いわけで、御伽草子版「浦島太郎」はこのパターンに素直にしたがっただけにすぎないと考えることもできましょう。なお、表中でMTとあるのはS・トンプソンのモチーフ・インデックス番号です。

    英雄の誕生は洋の東西を問わず、しばしば異類婚が介在します。英雄は異類を祖とすることが多いのです。「古事記」も英雄の誕生を説明する説話にあふれていますが、豊玉
    姫の挿話にその典型が見られます。豊玉姫は海神の娘ですが、山幸彦はこれを連れ帰り、彼女は子を産みます。この出産が「見るな」の禁忌の対象になるのですが(「あだし国(異界)の人は、産むときになれば、本つ国(もとの国)の形をもって生むなり。願わくはあ(妾)をな見たまいそ」『古事記』)、物語の統辞論にしたがい山幸彦はこれを見てしまいます。これは上表の「魚女房」と同じ、男が女房を異界から連れ戻るパターンです。これに対して、「鶴女房」、「母の目玉
    」などのように恩返しに女房が押しかけてくるパターンもあります。

    天人女房型(「天降り乙女」)は女房連れ戻り型の話です。映画「フィオナの海」の中のエピソードでは女房は天女ではなくアシカの精霊であり、羽衣の替わりにアシカの皮が同じ物語機能をもちます。このパターンの物語は女房が衣を発見し、異界に戻ってしまうという悲恋で終わるものと思いがちですが、ヨーロッパではこの後に「失踪した女房を探す男」(MT400)のモチーフがあらわれ、さらに女房との再会後、女房の父親が婿に難題を課し、これに対して女房が男を助ける(「婿の逃走を助ける女」MT313)というシークエンスが続くロング・バージョンが多いようです。

    なお、上では女性が異類である異類婚のパターンを扱いましたが、男性が異類として登場する物語は英雄物語以外にも実は多くあります。この二つの異類婚パターンについての詳細な分析として、小松和彦による構造分析があります(「神霊の変装と人間の変装」『神々の精神史』(伝統と現代社)所収)。レヴィストロースの用語法の影響を色濃く受けながら、構造分析を日本の民話に応用した希有な先駆的研究といえましょう。以下は小松の記述を参考に我が国の異類婚の民話を図式化したものです。



    AとBは同じパターンで、性を入れ換えたものとみなすことができます。超自然的存在(水神さまの申し子)「たにし長者」

    動物「猿の婿どの」[岩波�]

    水田:蛇婿入り、乾田(焼き畑、山村):猿婿入り

    別バージョン「僕の知っているその話[足尾]は、一年後に猟師が娘に会うんですよ。そうしたらその娘は猿の格好になっていて、体中毛が生えて、しっぽが生えて、仲の良い猿の夫婦になっていました。それでまた楽しそうに山の中に入っていったという話なんです。」小松/立松『他界をワープする』122

    魔法の介在→人間中心的世界観の反映?:「かえるの王様」(グリム)「美女と野獣」(ボーモン夫人)「キューピッドとプシケ」(アプレイウス)

    人間→動物→人間

    トリックスター

    やつし:聖なる存在となるための変装

    異人の両義性:排除されるべき悪、愛されるべき善

     

    西洋の民話について同様の構造分析を試みたものが以下の表です。



     

    異類婚の物語では主人公たちはいつの間にか結婚しており、愛は幸福な家庭生活の素描により間接的に描かれます。そして、最後にはその幸福が失われるわけですから、悲恋物語の原型をそこにみることもできます。それでも愛がテーマ化されているわけではありません。

    課題:

    異類婚の物語のうち、男が異類である物語を3つ、女が異類である物語を5つ挙げなさい。日本、西洋を問わない。また、民話以外の媒体でもよい。解答例

     

     


    恋愛物語とは何か?

    恋愛物語はマクガフィンを必要としている

    恋愛物語ではどうでしょうか。古典的な恋愛物語では<愛>は英雄的行為のご褒美(結果
    )というより、それ自体が目的として機能します。その目的に到達しないかぎり物語は続きますから、<愛>は恋愛物語という名のドッグ・レースのラビット(囮)の役を果
    たすということができます。その囮に到達すると同時に幕が閉じられますから、やはり<愛>はその意味を問われることはありません。恋愛物語はこのようにたえず<愛>を指さしながら、その意味を与えることはないのです。ヒッチコックは冒険物語の目的となる対象物を「マクガフィン」と名付けました。この大切な何かを探し当てるために、あるいはそれを敵の手から守るためにヒーローたちは命がけの冒険に挑みます。しかし、それほどの冒険を動機づける「マクガフィン」とは果
    たして何なのでしょうか。国家の命運がかかっている秘密文書でしょうか?あるいはポオの『盗まれた手紙』にあるような恐喝の道具なのでしょうか(「書類の所有者は、名誉と平安が危険にされされているさる有名な方に対して、有利な位
    置に立っている」)。ヒッチコックならばこう答えることでしょう。それはすべてであり、なんでもないのだと。要するにそれは内容(シニフィエ)のない記号(シニフィアン)なのです。物語全体がそれを指さしています。しかし、指先に何があるかは結局明らかにされません。たとえ、マルタ騎士団の秘宝だといういわく付きのものであっても「マルタの鷹」もマクガフィンにすぎません。悪魔の手形のようにそれを手にとってしまうと手の平には枯葉が残るだけなのです。恋愛物語における不可欠な要素、最も大切な要素<愛>もまた「マクガフィン」、つまり物語を導く空虚な記号なのです。以下ではこの空虚な記号の振る舞いを見てゆくことにしましょう。


    古典的恋愛物語(モデル1)

    恋愛物語では出会いがあり情熱恋愛(amour-passion)が生まれますが、その情熱の充足を妨げる障害が用意されています。逆に障害があるからこそ、情熱(恋愛物語のエネルギー)が持続するわけです。そして、本来無定形な情熱が形を得るのも、この障害という作用に対する反作用として自らを形成するからに他なりません。この意味で、恋愛の情熱は与えられた障害(凸)のネガ(凹)として自己形成をとげるということができます。

     



    主人公たち
    出会いがあるためには当然ながら、男女が登場しなければなりません。出会うのは古典的恋愛物語では若くて美しい男女です。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」ではロミオは15歳、ジュリエットの14歳の誕生日前に物語が始まります。フランスの17世紀古典演劇の主人公たちも極めて若く、舞台上では「相手の気を害さずに、14歳のお嬢さんに愛を告白しても」よかったといいます。その代わり老いるのも早く、「女性は30才を過ぎれば醜い」という言葉も残っています(J. Sch屍er, La dramaturgie
    classique en France
    , p.20)。

    現実の結婚は年齢差があったようです。伝統的な結婚が個人同士の結びつきよりも家と家との結びつきを目的としていた点を忘れてはなりません。さらに、産褥などによる死亡率が高かった上に寡婦の再婚率が寡夫の再婚率よりもはるかに低かったことなどを考えれば、かなり年上の男性(寡夫)と若い女性の結婚が多かったことも納得ゆきます。14,15世紀のフランス農村社会では再婚する寡夫、あるいは寡婦に対し、村の若者組が儀礼的な喧噪行為[シャリヴァリ]をおこなう習慣があった点もこれを裏付けています。しかし、恋愛物語の世界では若い女性と結婚しようとする年輩の男性は嘲笑の的であり、若い男女の間に障害としてわけ入っても所詮は排除される障害にすぎないのがゲームルールということになります。モリエールの喜劇にそのパターンがしばしば見られますが、特に『女房学校』の主要テーマがこれです。コキュ(女房を寝取られた夫)恐怖症から孤児をもらいうけ、その子アニェスが大きくなったところで結婚しようと企むアルノルフ老人を主人公とするこの戯曲では、アニェスは老人の親友の息子と恋に落ちて結ばれることになりますから、喜劇の世界では年齢差は認められないことがわかります。無知・無垢の女子を自らの妻にふさわしい存在に育てあげるというピグマリオンのテーマがここにすでに見られますが、20世紀に入ってジードは『田園交響楽』でこのテーマをふたたび取り上げます。結末でその女子ジェルトリュードが愛するのはやはりピグマリオン役の牧師ではなくその息子ジャックで、ジェルトリュードはジレンマのうちに自殺してしまいます。

    当然のことですが、若い男女の役を演じる役者は必ずしも若かったわけではありません。役者によって役どころはある程度決まっており、小津安次郎の映画でおなじみの笠智衆のように若いときから老人役専門の人もいれば、逆に年とってからも女性にもてる役を続ける俳優もいます。ヒッチコックの「めまい」をとったときに、主演のJ・スチュアートは50歳、K・ノヴァクは25歳。映画を見たひとは恋人同士を演じているのが実は親子ほども年齢の離れた役者だとは思わなかったはずです。「ロミオとジュリエット」などは14,15歳という年齢ですから、当然、これを演じる役者は何歳も下の役を演じていたはずです。もっとも、F・ゼフィレリ監督の「ロミオとジュリエット」(1968)では当時16歳のL・ホワイティングをロミオに15歳のO・ハッシーをジュリエットに据えて話題をよびました。

    また、古典的恋愛物語の男女は美男美女でなければなりません。

    「公の姿をはじめて見た場合はだれでも目を見はるのがふつうである。とくにこの夜は身支度に念をいれてあっただけ容姿の美しさは格別だった。一方クレーブの奥方の美しさもはじめてみる人間を呆然とさせるほどのものであったのは言うまでもない。」『クレーブの奥方』

    現代の読者が、女性の美しさが描かれるのには何ら不自然さを覚えないにしても、古典期の恋愛物語で女性の美と同様に、あるいはそれ以上に男性の美が言及されるのにはいささか奇異な感じがするはずです。この点については注釈が必要でしょう。貴族社会では男性が女性以上に見られる存在だったのです。ルイ14世がよくその例に出されますが、一般の貴族もそうでした。革命後でも、19世紀前半はダンディズムという男性の表象モードがはやり、異性を魅惑し堕落させるのは「宿命の男」だったといいます(M・プラーツ)。「宿命の女」の登場は19世紀後半を待たなければなりません。

    話を古典時代にもどしましょう。言うまでもないことですが、外面的な美しさだけがすべてではありません。ペロー自身、「シンデレラ」の教訓で次のように言っています。

    「美しさは女性にとってまれな財産、みな見とれて飽きることはない、しかし善意と呼ばれるものは値のつけようもなく、はるかに尊い。」

    外面の美よりも内面の善の方が大事だというのです。しかし、内面の善を支える象徴的価値として外面の美に言及しない物語は少なくとも古典的恋愛物語にはありません。結局のところ、読者がお伽話の数学として受け止めるのは美と善の等式に他ならないのです。この点でボーモン夫人の『美女と野獣』は法則を証明する例外のように一見みえるかもしれませんが、最後には魔法が解けて野獣が美しい若者に変身するわけですから、野獣の姿でいる間はむしろ美女の心の優しさをテストする試練のときと考えるべきでしょう。

    20世紀の映画でも事態はそれほど変わりません。映画に登場する善意の人々は俳優の顔がそれを表徴しており、恋愛物語の主人公たちは相も変わらず美しい男女であり、それを強調するカメラ・アングル、メイク、照明などはすべて計算づくで選ばれているのです。

    E. Scola 監督の「パッション・ダモーレ」Passione d’amore(1980)や
    B. Blier 監督の「美しすぎて」Trop belle pour toi (1989)
    は正に「恋愛物語の主人公たちは美しくなければならない」という古典法則を破ることによって、その物語としての新しさを出している一方、その新しさの根拠をやはり暗黙の古典法則に依っている作品といえましょう。「パッション・ダモーレ」の最後で醜女を愛するようになった主人公は「美しくない女を愛するのは自然に反するとでもいうのですか」と問うていますが、その答えはイエス、やはり「恋愛物語の自然法則」には違犯しているということになるでしょう。


    出会い

    求愛行動としての出会い

    それでは若く美しい男女はどのように出会うのでしょうか?
    舞踏会はそもそも男女を出会わせるという社会的機能をもっていましたから、「シンデレラ」から「クレーブの奥方」「戦争と平和」に至るまで舞台装置として頻繁に使われています。舞踏会で誰にもダンスに誘われないことをフランス語では
    faire tapisserie [壁の花となる]という表現で残っているぐらいですから、舞踏会がもつ出会いの場としての重要さとそこで誘われないことへの女性の不安の大きさも想像に余りあります。

    異類婚の物語「雪女」では巳之吉と雪子の出会い(雪子の視点からは再会)が次のように語られます。

    「翌年の冬の、ある夕暮れのことであった。巳之吉が家にかえる途中、たまたま同じ道を歩いてゆく一人の娘に追いついた。背の高い、ほっそりした、たいへん器量のよい娘で、巳之吉が挨拶すると、まるで小鳥の歌のように快い声で答えた。それから、彼は娘とならんで歩き、二人は話をしはじめた。[・・・]巳之吉は、すぐにこの見も知らぬ娘に、ひどく心をひかれて、見れば見るほど、ますます美しく見えてきた。で、巳之吉は、もう約束した人があるのか、と娘に尋ねた。娘は笑いながら、そんなものはない、と答えた。」「雪女」

    田舎道ももちろん男女の出会いにふさわしい場所です。この出会いの場面では、民話的な話線のなかで、実に雰囲気に富んだ描写が施されています。笑いながら答える娘の色気は西洋人ハーンの目に映った若い日本女性の色気なのでしょうか。

    異類婚の物語における出会いの場としては、この他に森や海といった異界があります。森は異類婚に限らず、17世紀の牧歌的な恋愛物語でも重要な場です。ペロー童話の一つ「グリゼリディス」もやはり王子が森で道に迷い、奥深い森のなかで羊飼いの娘グリゼリディスに出会うところから始まります。羊飼いの娘もまた異界の女性のように超人的な力をしばしば付与されれていました。

    吸血女の物語『死霊の恋』も一種の異類婚の物語と申せましょう。ここでは出会いの舞台は叙階式で、主人公ロムアルドはこれから司祭になろうする若者です。

    「それまでじっと伏せていた顔をヒョイとあげたとたん、私は眼前に見たのです。手でさわれそうなほど間近に、とはいっても実際はかなり離れて手すりの向こう側にいたのですが、世にも稀な美しさをそなえ、王族のように美々しく着飾ったうら若い女性を。まるで瞳から鱗が落ちた思いでした。不意に視力を回復した盲人といった感じを味わいました。[・・・]何という眼でしょう!キラリとひらめく一瞥で、男の運命を決めてしまうのです。人間の眼には絶対に見たことのない生命力、深さ、熱気、うるんだ輝きをたたえています。」

    しかし、『死霊の恋』で重要なのは再会の場面の方でしょう。司祭になった私がある女性の臨終に立ち会うことになります。相手はすでに息絶えています。ところが、主人公の司祭はその死体に妖しく惹きつけられるのです。

    「その完全無欠の身体つきは死の影によって純化され聖化されながらも、あやしいまでに私の欲情をかき立て、その安息は眠りと見間違うほどでした。[・・・]世がふけてゆき、永別のときが迫ったのを感じた私は自分が一途に愛したひとの死の唇にキッスするという、あの悲痛だが最高の喜びをわが身に禁ずることができませんでした。ああ、何たる不思議ぞ!かすかな息が私の息に混じりあい、クラリモンドの口が私の押しつけた口に答えたのです。眼が開いて幾らか輝きを取り戻すと、彼女はため息を一つついて腕を解き、言いしれぬ恍惚の面もちでその腕を私の首の後ろに廻しました。「まあ!あなたなのね、ロムアルド」」

    吸血鬼は予め死んだ者のことですから、クラリモンドにとって死は何ほども意味をもたないのです。実際、この再会を契機に二人の愛欲の生活が始まります。やがてクラリモンドに本当の死がおとずれ、二人の愛に終止符が打たれます。主人公がエクソシストであるセラピオン師とともに悪魔払いを施すやいなや、クラリモンドの美しい身体は粉々に砕け散ってしまうのです。これなど吸血鬼ものの最期の典型ですが、少し視点をずらしてみますと、ある禁じられた行為をおこなったため(この場合はセラピオン師への密告)に異界の女性を失う異類婚(例えば「雪女」)の最期を思わせる場面
    でもあります。しかもロムアルドは最後にこうつぶやくのです。

    「魂の平安を得るのに何と高価な犠牲を払ったことでしょう。神の愛も彼女の愛に取って代わるほど大きくはありませんでした。」

    吸血鬼の死が平安をもたらすという通常の吸血鬼物語とは明らかに異なります。これは真の恋愛物語なのです。

    現代の恋愛物語では、出会いの場も多様化しています。旅先での出会いは恋愛映画がもっとも好むものでしょう。異国情緒のある風景はそれだけで映像効果
    をもちますし、それに何よりも旅行者の心持ちは日常性の楔から解き離れた自由に満ちていますから、冒険心の混じった恋愛願望の素地がすでにあります。イタリア旅行での出会いを描いた恋愛映画は多くあります(「終着駅」「旅情」「旅愁」「ローマの休日」)。やはり、南の国が旅の恋愛にふさわしいのでしょうか。ギリシャ(「シャーリー・バレンタイン」)、バリ島(「南太平洋」)。駐留軍人の現地女性との恋愛(「サヨナラ」など)。とこうみてくれば、旅先(駐留先)というのは世間の眼差しから解放された一種の異界であることがわかります。さらに言えば、伝統的な出会いの場である舞踏会や村祭りも日常(ケ)をカッコに入れたハレの世界であるわけで、これも現世に導入された異界的時間ということができるでしょう。恋愛物語での出会いには異界という空間もしくは時間が必要なのです。

     

    出会いの技法

    映画は出会いの場面を演出する技法を練り上げてきました。クローズアップされた男女の顔はすでに出会いが運命的なものであることを語っています。画面いっぱいに映し出されたM・ディートリッヒを見るのは観客ではなく、観客はG・クーパーの視線を通じて彼女を見ているのです。かすみフィルタにより幻のように浮き上がったディートリッヒの顔はクーパーの熱い眼差しを暗示しています。後へ引くことのできない決定的な出会いであることが観客にはすぐにわかります。中世の恋愛物語では媚薬が宿命的な情熱を生み、それが熱病のように主人公たちの脳裡にはびこるのですが、フランス語で「雷の一撃」(un
    coup de
    foudre)と呼ばれるこの眼差しの交換も媚薬と同様の効果を主人公たちの脳裡に残すことになります。

    「雷の一撃」のパロディであるポオの「眼鏡」は一目惚れが視覚による体験であり、それを越えるものでないことを痛烈に皮肉った作品ですが、そこでは出会いの場面
    が次のように描かれています。

    「たとえ千年生き延びようとも、この人物を見つめた際の強烈な感動は忘れることが出来ない。かって目にしたもっとも美しい女性の姿であった。[…]この時の私の感情は、これまでいかに高名な典型的な美女たちを前にしても、ついぞ覚えた例しのないものであった。一種名状しがたいー磁気的と呼ばざるを得ない魂と魂との交感が、私の視力のみならず思考と感情の全能力までも・・」

    伊達男の主人公はド近眼であるにもかかわらず決して眼鏡をかけないためにある女性に一目惚れしてしまうのですが、この女性が実は彼の曾曾祖母であったというオチがつきます。

    ここでの眼鏡の欠如は一目惚れ、さらには情熱恋愛一般に不可欠なフィルタの存在と等値です。



    このフィルタをスタンダールは「結晶作用」crystallisation
    と名付けました。

    「恋人に会うごとに、あるがままの彼ではなく、自分でつくった甘い映像を楽しむでしょう。」「恋をした瞬間から、最も賢明な男も対象をあるがままに見ない。」

    恋は盲目とはよく言ったものですが、本人がそれでもなお相手を見ていると信じて疑わないのはこの主観的フィルタが本人にのみ見えないものだからです。よく考えてみますと、フィルタにより理想化(審美化)された相手のイメージとは恋する人が自分で作り上げたイメージに他ならないことになります。恋する人はそのイメージに恋するわけで、相手の存在は場合によってはイメージを描くためのカンバス程度なのです。ポオの「眼鏡」が描いているのはまさにこうした情熱恋愛がもつ自己愛的側面
    と申せましょう。恋愛物語の考察とは少し離れますが、この眼差しの病に対するワクチンをモンテーニュが紹介していますので、引用しておきます。

    「本当に、その道の大先生方が、欲情を抑えるには、求める相手の身体をくまなく見よと教え、恋愛を冷ますには、愛するものをじろじろ見さえすればよいと教えていることも、一考に値する。」

    もっとも、まさにじろじろ見えなくなるのがこの病の症状なのですから、そう簡単にことが運ぶわけもないのですが。

    最後に、出会いを準備する映画技法であるパラレル・アクション(カット・バック)についてふれておきましょう。J.
    ドラノワ監督の「賭はなされたLes Jeux sont
    faits
    (1947) (脚本サルトル)は階級を異にする男女が別々の状況で殺され、死者の世界で出会うまでを二人の間を行き来するカメラが同時進行的に追います。ここで本来無関係に起こっているはずの二つのシークエンスが予め運命により結びつけられていると感じさせるのがパラレル・アクションと呼ばれるモンタージュ技法です。見るものは二人の出会いが宿命であることをパラレル・アクションのおかげで強く感じます。ただ、「賭はなされた」では死者は身体性がないために真の出会い(ふれあい)はないとされています。そこへ二人の死が「役所」のミスであることがわかり、生還(蘇生)を認められることになります。したがって、ドラマ進行上は二人が現実世界に戻ってはじめて、再会を出会いとして演じることになるわけですが、観客にとっては出会いはすでにパラレル・アクションにより死の世界でなされていたのです。→「賭けはなされた」の分析

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  3. shinichi Post author

    外在的障害

    それでは障害にはどのようなものがあるでしょうか。お互いに愛し合っているカップルが登場する恋愛物語では障害はふつう外在的なものです。「ウェストサイド・ストーリー」の恋人R・ベイマーとN・ウッドは敵対する不良グループ(ジェット団とシャーク団)に属しています。ベイマーは両グループの抗争に積極的ではありませんが、仲間が殺されたことで激情し、ウッドの兄(G・チャキリス)を殺してしまいます。愛を貫くためにどこか別の土地へ旅立つことに二人が決めたとき、ベイマーはシャーク団の復讐の手にかかり死んでしまいます。所属する集団が敵対関係にあるために愛し合う二人の<愛>が妨害されるという話はもちろんシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をその嚆矢とします。アメリカの移民問題を背景とした「ウェストサイド・ストーリー」は「ロミオとジュリエット」の現代版なのです。


    家と家の対立

    フランスの演劇ではコルネイユの「ル・シッド」がやはり家と家の対立を障害に据えています。ロドリーグとシメーヌは愛し合っていますが、ロドリーグの父がシメーヌの父に侮辱を受けたため、ロドリーグはその侮辱をはらさなければならない立場に追い込まれます。相手は恋人の父です。愛をとるか名誉をとるか、この二律背反(ジレンマ)こそ悲劇に不可欠な文法要素です(ジレンマのない「ロミオとジュリエット」は厳密には悲劇ではありません)。しかし、このジレンマは実は偽りのジレンマです。なぜなら、コルネイユの倫理学では愛と名誉は等価値のものではないからです。愛はそれに値する英雄的行為(選択)の結果
    に対し与えられるのであり、ロドリーグがはじめから愛を選んだとしたら、シメーヌはそんな安っぽい愛には答えなかったことでしょう。ここでは愛は選ばれない限りで価値を持つのです。名誉を選んだロドリーグは決闘によってシメーヌの父を殺してしまいます。ロドリーグは名誉を選ぶという英雄的選択により愛に値する存在(英雄)となったのですが、同時にシメーヌの父の仇ともなってしまうわけです。さて、シメーヌの方ですが、彼女に残された英雄的な選択とはロドリーグの愛を受け止めることではなく、逆に父の復讐を選ぶことです。それがまた唯一シメーヌを愛に値する存在にするわけです。そこで有名なシメーヌの台詞がでてきます。

    「あなたは私の怒りを招いて私にふさわしい男となった。私もあなたの命を奪ってあなたにふさわしい女となろう。」『ル・シッド』

    シンメトリーへのすさまじい欲望です。ロドリーグとシメーヌは相補的な男女というよりも、左右対照的(シンメトリック)な位
    置関係に置かれ、それを是が非でも維持しようとする相似的存在なのです。このように、愛に値するために選んだ英雄的行為が愛の妨害となり、愛をある意味で純化・抽象化する、これが「ル・シッド」の基本構造ということになります。この後、物語は外的状況の助けを得てハッピーエンドを迎え、悲喜劇として終わります(ハッピーエンドで終わるものは喜劇ですが、トーンが悲劇調のものに限ってフランス古典時代は悲喜劇という名称をあてました)。→「賭けはなされた」の分析参照。

     


    戦争

    愛を妨害する外的状況として戦争があります。恋愛物語において障害として機能する戦争は、何よりも愛する二人の間に空間的距離を設定します。物語の結末で片方を戦死させた場合、二人は永遠に引き離され、愛は超越的な不可侵の価値(永遠の愛)を得ます(「グレン・ミラー物語」「慕情」)。

    戦争はまた、愛が芽生えたときに愛する二人を空間的に引き離し、両者の間のコミュニケーションを遮断することもできます。「シェルブールの雨傘」(J・ドゥミー監督)では恋人が戦争へ行った後、C・ドヌーヴは妊娠していることに気がつきます。相手との音信が途絶え、ドヌーヴは理解ある金持ちとの結婚という現実的な選択をせざるを得なくなります。「ひまわり」(V・デシーカ監督)は反対に戦地で行方不明になった男を女(S・ローレン)が捜す物語です。男(M・マストロヤンニ)は現地で別
    の相手と結婚生活を営んでいることがわかります。「哀愁」(M・ルロイ監督)でR・テイラーはロンドン空襲時に出会い、愛し合い、再会を約束した女性(V・リー)を戦後になって探しますが、彼女が生活のために娼婦になっていたことを知ります。

    保護者である男性が家を離れたとき、女性は世の中の攻撃性に対して、まるで子山羊のように無防備(vulnerable)になり、愛を取り逃がしてしまうというのがこの種の物語の基本的パターンということになります。

     


    犯罪者

    犯罪者にとっても愛は不可能な贅沢です。犯罪者は警察、あるいは他の犯罪者に常に追われる存在だからです。「望郷」(J・デュヴィヴィエ監督)のジャン・ギャバンはアルジェの貧民街カスバに潜む犯罪者です。カスバにいる限りは警察も手を出せません。しかし、愛する女性がフランス本国へ出航すると知ったとき、ギャバンはカスバを離れて見送りにゆき、待ち伏せている警察につかまります。彼女を乗せる船の出航を見ながら自害してしまいます。『郵便配達夫は二度ベルをならす』(J・M・ケイン)や『異邦人』(カミュ)の主人公たちも明日に迎えた処刑のために愛の物語を中断せざるをえません。一人称の物語では死は語られる行動だけではなく、語る行為そのものを終焉させるからです。


    同性愛

    <愛>を妨害する外在的障害には、愛する二人の性の同一性が挙げられます。「モーリス」「アナザー・カントリー」「悲しみの天使」はともに寄宿制度から生じた若い男性同士に芽生える愛情を描いたものですが、これは社会規範に反する関係ですから社会の眼差しが常に二人の関係を隔てる障害となります。時代背景を考えると二人の出会いは文字通
    り密会以外ではありえないのです。最近の映画(「蜘蛛女のキス」「クライング・ゲーム」)の中には、同性愛者と異性愛者を登場させ、前者の後者に対する一方向的な困難な愛を描いたものがあります。この場合、後者には規範が内在化されていますから本来は愛情関係は生じないはずなのですが、濃密な人間関係のなかで、異性愛者がその規範から解放されるプロセスが生じます。

    また、愛する者と愛される対象は人間でなければならないというのも恋愛の規範です。恋愛物語ではこれに反すると外在的障害が生じます。

    異類婚の話では女性が自分の真の姿を隠していますが、それが暴かれたときに二人の関係は終わります。「人魚姫」の場合は、王子との愛を目指すために自分の声と交換に人間の姿になる必要がありました。『死霊の恋』の最大の障害はクラリモンドが吸血女であったことです。また、SFの「ブレード・ランナー」では主人公(H・フォード)はレプリカントと呼ばれる人造人間たちを「解体」する仕事を引き受けます。彼が愛するようになる女性(S・ヤング)は人間として育てられ、本人も自ら人間だと思いこんでいるレプリカントです。彼は社会の法に反して彼女をまもることになります。
    ここでも外在的障害が恋愛の成就を難しくする一方で、情熱を維持・強化している面
    が見られます。

    <愛>の外在的障害

    障害のタイプ

    物語の例

    家/名誉

    シェイクスピア『ロミオとジュリエット』、W・ワイラー「ウェストサイド・ストーリー」、伊藤左千夫『野菊の墓』、コルネイユ『ル・シッド』

    別離/すれ違い

    J・ドゥミー「シェルブールの雨傘」、V・デシーカ「ひまわり」、M・ルロイ「哀愁」、H・コルピ「かくも長き不在」、菊田一夫「君の名は」

    「慕情」「ある愛の歌」、ヒッチコック「めまい」、J・キャメロン「タイタニック」

    犯罪者

    J・デゥヴィヴィエ「望郷」、J・M・ケイン『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』、カミュ『異邦人』、

    性:同性愛

    H・バベンコ「蜘蛛女のキス」、N・ジョーダン「クライング・ゲーム」、J・アイヴォリー「モーリス」、J・ドラノワ「悲しみの天使」

    類:非人間

    アンデルセン「人魚姫」、ゴーチエ『死霊の恋』、R・スコット「ブレード・ランナー」

     


    内在的障害

    義理と人情はすでに単なる外在的障害ではありません。義理は制度的ルールが内在化されたものですし、人情は内在性そのものともいえます。外在と内在との区分は常に明快なものではないことをまずお断りしておきましょう。

    外在的障害が消えるやいなや、物語の幕が閉じれば問題はありません。しかし近代的な恋愛物語ではその後も物語が続き、重要な事実が明らかになります。それは二人は決して融合することはなく、二つの意識として絶対的な距離により距てられているという事実です。古典的物語とちがって、媚薬の効果のもとで愛の化身になることはできないのです。愛に内在的な障害とはこの存在論的な距離そのものに他なりません。それは相手に対する不信や誤解、さらにはコンプレックスといった形をとります。しかし、外在的障害と同じで、愛をエネルギーとして支えるのがまさにこの障害なのです。ユマニストの箴言は愛のこうしたパラドックスを巧みにとらえています。

    「恋は燃える火と同じで、絶えずかきたてられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである」ラ・ロシュフコー

    「愛は疑いを嫌う。ところが、愛は疑いにより大きくなり、確信により消えるのだ。」ル・ボン

    融合への願望と意識の対峙という矛盾した現実、この存在論的矛盾のうちに危うく燃え続ける炎が<愛>なのでしょう。

    「完全な愛には(人間の内において相矛盾する)二つの徴がある。一つは恋人同士の間での融合(絶対的一体性)の必要性、すなわち、二重性の拒否である。もう一つは他者の人格・自由を重んじる気持ち、すなわち、二重性の尊重である。」ティボン

    このティボンの箴言の後半では、完全な愛を実現する上での倫理的規範が問われているのですが、この点だけは問題をはらみます。そもそも他者の意識がこちらの意識を離れ自由であることの認識はサルトルがいうように対他存在の宿命とも言うべきで、決して態度として選び取れるようなものではないはずです。二重性はたとえ相手を権力により奴隷化したとしても、否定しがたい存在論的所与のはずです。

    二重性は意識内部にもあります。狂気とは制御なき欲動のあらわれなのでしょうが、愛の狂気には自意識がつきまとうからです。ニーチェは『ツアラストラはこう言った』のなかで書いています。

    「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし、狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。」

    愛における自分と相手の二重性。自分内部での二重性。これは古典的恋愛物語にはない意識の運動です。古典的恋愛物語では<愛>という名の状況を生きる存在者(わたし・あなた)の二重性・他者性を拒否しました。古典的恋愛においては、他者との融合の夢は即自的に実現されるのです。

    「恋人よ、我らはかくこそ。我なくばおんみなく、おんみなくば我なし。」(マリー・ド・フランス) 

    また外的障害がある限り、登場人物たちは<愛>が何であるかを問わずにすみました。愛とは克服すべき障害の彼方にご褒美として確実に存在する何かだったのです。あるいは愛は『ル・シッド』におけるようにそれを選ばない限りで価値をもつ倫理的観念でした。しかも、それを選択しないという選択(行為)のみが与うる観念である以上、やはりその観念自体が問われる必要はなかったのです。

    他者との融合を夢見つつ、他者との緊張の中にその不可能性を感じるのは近代的人間の不幸に他なりません。この不幸を背負った人間がそれでも<愛>を語り得るとしたら、

    • それは他者そのものの代わりにその似姿(イメージ)との、不安感を糧とした独我論的ゲームによるか(「はじめは欲望により生まれた愛も、その後にはつらい不安によってしか持続しない」プルースト)、
    • あるいは他者との緊張を心理的に否定する、主客の区別以前の状態を模した(ある意味では日本的な精神構造「甘え」に則った)人間関係に依拠するしかありません。松山俊太郎によれば、日本的な愛とは「母性的感情の発露を原型とする彼我の情緒的合一」であり、「欲である場合は少ない」といいます。

    不倫物語

    「トリスタンとイズー」の物語で、トリスタンは伯父マルク王の元へ嫁ぐイズーをエスコートする役を負っています。イズーの母が調合した媚薬も元々は伯父とイズーのためのものでした。ところが道中、二人は誤ってこの媚薬を飲んでしまうのです。伯父の婚約者(後に妻)と愛し合うことは封建社会ではもちろんタブーです。トリスタンにとっては育ての親ですから、義理もからみ、媚薬の作用による強烈な情愛との間で揺れ動くことになります。イズーも人妻となった以上、トリスタンへの情熱は倫理に悖った感情に他なりません。義理と人情の板挟み(ジレンマ)は結局この世では解消できず、二人は死んでしまいます。二人の墓からスイカズラが伸びて絡み合ったとありますから、あの世でやっと結ばれたのでしょう「トリスタンとイズー」梗概

    義理と人情の板挟みといえば、歌舞伎の世話物を見逃すわけにはいきません。近松門左衛門の「曽根崎心中」もまた、ジレンマを物語の核としています。町人である主人公は遊女と恋仲なのですが、彼には家庭があり、親があります。彼にとっては義理(家)と人情(愛)が同価値で、どちらを選ぶこともできません。論理的に選択不可能の状態にある場合、歌舞伎の世界には究極の解決法(アウフヘーベン)があります。それが心中です。これは儒教と仏教の教えに同時に合致する見事な解決法でもあります。なぜなら、儒教では愛はこの世には場所をもたないのですが、一方、仏教の方はこの世で不可能な愛でもあの世ならば実現できるとするからです。「トリスタンとイズー」が影響を受けたといわれるキリスト教の異端、カタール派もこの点に関しては仏教に似た考え方をとっていたようです。これは恋愛物語に根強い考え方なのかもしれません。「ロミオとジュリエット」の結末も「トリスタンとイズー」の結末の一種のヴァリアントと考えてもよいのではないでしょうか。「若きウェルテルの悩み」の主人公もやはり自殺を選びます。
    →ラファイエット夫人の作品分析(

    独我論ゲーム

    相手を追うとき、相手はイメージ化されます。自ら作り上げたイメージを追うことになるわけです。「ベニスに死す」ではH・ボガード演ずる作曲家アッシェンバッハはベニスで出会ったポーランド貴族の美少年の後を追います。少年は自分がこの初老の男を惹きつけていることを知っており、わざとらしい流し目すら送ります。しかし、現実的な関係が築かれることはなく、アッシェンバッハもまたそれを求めてはいないのです。ポオの「群衆の人」で夜を徹して尾行した当の相手が悪の化身という抽象的な存在であった(となった)ように、アッシェンバッハが後を追う少年も美の化身として手に触れることもできない羽のように軽い存在です。

    相手が制御不可能な自立した、あるいは奔放な存在の場合、似たようなチェイス劇が今度は具体的な関係を交えながらも続くことになります。アベ・プレボーの『マノン・レスコー』やP・メリメの『カルメン』はそうした作品の典型と考えられています。モラビアの『軽蔑』は一種のコキュ・コンプレックスを描いた作品ですが、結婚して愛しあっていると思っていた妻の豹変を一人称の内的視点で描いた、サスペンスに富んだ小説です。夫婦でありながら、今や日光浴する露わな妻の肢体を草陰からこっそり盗み見することしか許されていない夫。妻の様子の変化が何を意味するのかがわからず、語り手である夫は何とか真実を知ろうとします。あるいはこちらの勝手な思いこみにすぎないのだろうか?妻との関係に本質的な変化はないのだろうか?現実の心変わりなのか、こちらの思い過ごしにすぎないのか、不幸な恋愛物語の主人公はまさに幻想物語のように解釈の非決定性を生きなければなりません。その矢先に妻の口からとうとう真実が告げられます。「私はあなたを軽蔑しています。」

    幼なさを残す新妻との関係を描いたエリア・カザンの「ベビー・ドール」もコキュ・コンプレックスを描いた作品です。ナボコフの名作『ロリータ』は下宿先の一人娘ロリータへの思慕からはじまります。ロリータのクラス名簿にLO-LI-TAという名が現れるやその音韻の官能性に恍惚となる場面
    にも見られるように、主人公ハンバート・ハンバートはロリータのイメージを追い、そのイメージに囚われています。ロリータの失踪によりそのイメージはさらに強化されますが、何年か後に突然ロリータから無心の手紙を受け取り、再会を果
    たすと彼女はすでに子持ちの幼妻となっていました。これでロリータのイメージから解放されたハンバートはしかしながら、失踪中に彼がイメージとして追っていたロリータを現実的に所有していた男(映画ではピーター・セラーズが演じる)が許せず、復讐します。

    お互いに愛しあっているにもかかわらず身を引く人というのがいます。「カサブランカ」M.Curtis
    (43) のハンフリー・ボガード、「旅愁」W. Dieterle(50) のJ・フォンテインは相手の夫婦・家族生活を守るために身を引きます。デュマ・フィスの『椿姫』では、ヒロインは恋人の父親のとなえる現実原則を前に自らの快楽原則を引っ込めます。A・ジードの「狭き門」のヒロインもまた霊的価値をまえに、地上的快楽を断念し、そのまま病死してしまいます。ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』も一種の姦通
    小説として始まりますが、姦通の唯一の障害である夫が死を迎えた後も恋人を受け入れません。こうした物語に共通
    するのは愛の消費・消尽の拒否です。愛が所詮燃え尽きるものであるという予感は『クレーブの奥方』以外では明示されませんが、愛が不可能となったと考えたときにその愛を捨てることによって、現実には不可能な愛をより高次のレベルで観念的に維持することには結果
    的には成功するわけです。負ける(捨てる)が勝ち。悲恋物語の情緒的メカニズムがここに見られます。

    求愛行為としての出会いのない物語もあります。恋する人が思いを打ち明けないというマゾヒスティックな物語群です。チャップリンの悲喜劇(例えば、「街の灯」)などに見られる、相手を思いやる主人公の純粋さは一部こうしたマゾヒズムに負っています。このカテゴリーの嚆矢はE・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」でしょう。

    美を解し、愛するがゆえに自分の顔にコンプレックスをいだくシラノは、友人の騎士のために彼の恋の成就に一役かってでます。しかし、友人の愛する女性とはシラノ自身も愛するロクサーヌその人だったのです。ロクサーヌに宛てた愛の告白、手紙、すべてはシラノの手になるものでした。ロクサーヌはそれらに心うたれますが、書いたのがシラノだとは知る由もありません。友人は戦死し、ロクサーヌは死者の想い出とともに生き続けます。時はながれ、いつものようにロクサーヌを慰めに向かう途中で、シラノは悪漢に襲われ致命傷をうけます。そんなこととも知らぬロクサーヌは昔に愛人からもらった手紙をシラノに読ませます。シラノはロクサーヌへの思いの丈を記したその手紙を切々と朗読し続けますが、ロクサーヌはシラノがそれを暗闇の中で諳んじて読んでいることに気がつきます。書いたのはシラノだったのです。

    負ける(捨てる)が勝ちという悲恋物語の情緒的メカニズムがここにも見られます。シラノの死と共に彼の情熱は永遠の輝きをもつことになるでしょう。シラノの態度が西洋の騎士道精神の表れとは俄には思われませんが、騎士道のもつサディズムの裏面として、一種審美化されたマゾヒズムの表現ではあるのかもしれません。これよりマゾヒズムが一層端的に表れているのが我が国の武士道ということになります。山本常朝は『葉隠』のなかで次のように書いています。

    「恋の極は忍恋と見立て候、遭ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死すること恋の本意なれ」

    忍恋(しのぶこい)とは愛情表現はおろか、コミュニケーションそのものの徹底した拒否です。相手との距離を最大限に保つという覚悟は欲望のマゾヒスティックな抑圧以外のなにものでもありません。しかし、抑圧を越えて、まさに抑圧ゆえに一層鮮烈にあらわれるものがあるはずです。それは相手のイメージです。最大限の抑圧により、最大限、イメージ化、結晶化されてしまった相手です。忍恋とは自家中毒的に肥大化するイメージとの戯れに他なりません。禁欲に貫かれたこの愛は相手に対する思いやりなどかけらもない自己愛と言ってもよいでしょう。「日の名残り」J.Ivory(93)[原作カズオ・イシグロ]はイギリスの階級社会を舞台とした現代の忍恋を描いていますが、A・ホプキンス演ずる執事は外界に対する未練を残しながらも、各駒の動きが決められたチェスのような自己完結した世界から決して抜け出すことができない存在です。家庭教師への感情はゲームのなかで彼に与えられた役割を越えるものですから、彼には行動できないのです。「日の名残り」は忍恋のマゾヒスティックな純粋さを巧みに描いた作品だと申せましょう。執事もまたサムライと同様に階級社会で課せられた役割の犠牲者なのです。原作では老執事が語り手ですが、自分の心理状況を克己的なほどに語らない省略法にこそ実は彼のマゾヒズムが間接的にあぶしだされます。

    課題:

    恋愛物語とはなにかを簡潔に説明しなさい。解答例

     


    反=恋愛物語

    愛は物語の中にあり、その中にしかない。

    もしも<愛>が語れないとき、人が語りうるのは正に<愛>の不在ということになります。以下では反=恋愛物語についてみてゆきましょう。

    存在しない<愛>の観念がそれではどこで生まれたのでしょうか。それはもちろん恋愛物語の中です。『ボヴァリー夫人』のヒロインは恋愛物語の熱心な読者であり、物語に描かれた世界を真実と取り違え、そのまま結婚します。

    「エンマは自分がそれでいいと思っている理論にしたがって、愛情を感じようとした。月明かりの庭で、暗誦しているかぎりの情熱的な詩句を朗唱し、物悲しい緩やかな調べの曲を溜息をつきながら夫に歌ってきかせた。しかし、そのあとでも、彼女は前と同じくらい冷静だったし、シャルルもいっこうに恋心をそそられたようでもないし、また感動した様子でもなかった。」フロベール『ボヴァリー夫人』

    夫のシャルルはもともと現実的な男で、現実という名のカンバスに幻想的なイメージをダブらせるようなロマンチストではありません。結晶作用とは所詮縁のない男なのです。そんな夫を相手にロマンチックな気分に浸ることはそもそも無理な話なのですが、エンマにしたところで聡明な女性ですから、思い描いていた小説的世界と現実との齟齬を直観せざるをえません。

    小説的世界と現実が本質的に(存在論的に)異なることを明らかにした哲学者がサルトルです。彼の小説作品にも次のような考察があります。

    「私はこう考えた。最も平凡な出来事が、ひとつの冒険となるには、それを<語り>はじめることが必要であり、それだけで充分である、と。これは人が騙されている事実である。人間はつねに物語の語り手であり、自分の作った物語と他人の作った物語とに取り囲まれて生活している。彼は日常のすべての経験を、これらの物語を通して見る。そして自分の生活を、他人に語るかのように、生活しようと努めるのだ。[・・]しかし、生活するか、人に語るかを選ばなければならない。たとえば、エルナと同棲してハンブルグにいたとき、私はこの女を信用していなかったし、また向こうでは私を怖れていたので、へんてこな生活をつづけていた。しかしその中にいた私は、そんなことは考えもしなかった。しかしある晩、サン・ポーリーの小さなキャフェで、彼女は席を立って化粧室へ行った。私はひとり残っていた。レコードが『青空』を演奏していた。そのとき私は、下船したときから過ぎていった日のことを、反省しだした。そして独語した。-三日目の晩、「青い洞窟」というダンスホールに入っていったとき、半分酔っぱらったいた背の高い女に気が付いた。いま『青空』を聞きながら私の待っているのがその女であり、いまに私の右側にもどってきて座り、私の頚に両腕をまきつけるだろう、と。そのとき、私は冒険を経験しているんだということを、はげしく感じた。しかしエルナがもどってきて私の横に座り、私の頚に腕をまきつけたとき、なぜであるか理由はよくわからなかったが、私はその女を嫌悪した。いまになって私にはわかる。それはそのとき、再び生活をはじめねばならなかったからであり、冒険の印象が消えてしまったからである。」サルトル『嘔吐』

    <愛>の物語とは所詮何かを待つ物語なのです。決定的な<何か>が待っているはずなのですが、その<何か>は決して現れません。決定的な<何か>とは目的であると同時に終焉でもあるからです。ヒッチコックのいうマクガフィンです。それを求め、崇めている間はそれがあたかも存在するかのようにすべてがとりおこなわれます。

    <愛>が存在するのは、例えば私が喫茶店で愛する人を待つときです。相手は時間に来ません。私は時計に目をやります。どうしたのだろう。不安がよぎります。時間はすでに数学的に刻むことをやめ、情緒的な強度を帯びつつあります。R・バルトは待つときの不安には三段階あると書いています。約束の場所、時刻に間違いはないか、と思い始める第一段階は推測の段階。これが第二段階では怒りに変わります。「ひどい奴だ」。第三段階では純粋な不安が生まれます。「相手があたかも死んだかのように、私は蒼白となる。」 待つ人は第三段階で不在の人の喪を生きるわけです。<愛>とは<待つ>ことそのものなのです。

    「私は恋をしているだろうか?然り、こうして待っているのだから。」『愛のディスクール断章』

    待つことにより、待つ対象は非現実化されます。待つ人は妄想にとりつかれたかのように、待つ対象を幻覚化してしまいます。私は待つ人を生身のまま思い描こうとするのですが、あらわれた映像・幻覚にはある意味がすでに刻印されています。その意味とはその対象自体の決定的な不在ということです。この決定的な不在こそ<愛>を存在させ、<待つ>という物語シークエンスの形で維持し続けるのです。『嘔吐』の主人公に到来した「冒険意識」というのもこの情緒的・想像的な時間意識です。そして、この感覚は待っていた対象が生身で姿を見せるやいなや瓦解してしまったわけです。

    内在的障害

    倫理(ラファイエット夫人「クレーヴの奥方」、コルネーユ「ル・シッド」
    、ジード「狭き門」)

    自己における愛情の不在(コンスタン「アドルフ」)

    愛=美=情熱の一般的不在[反ロマン主義](フロベール「ボヴァリー夫人」)

    外在的障害

    他者における愛情の不在(モリエール「女の学校」、ジード「田園交響楽」、モラヴィア「軽蔑」)

     

    前提そのものの問題化

    今日、<愛>はメトニミーによってしか語ることできません 。 <愛>は物語の意味(signifié)ではもはやなく、物語化のプロセスそのものであり、不可能な意味へ到達しようとする無益な情熱、一種の受難(passion)に他なりません。
    <愛>は欲望 desire(すなわち<~への>超越)の弁証法としてしか語られえないのです。いずれにしろ<愛=欲望>の主体は安定した<わたし>ではありません。それは人称を失った死に瀕する<なにか>にすぎません。

    「欲情するとは、世界の中に自己を投げ出し、ある女の肉体のかたわらで危険に瀕することだ、この女の肉体そのものの中で危険に瀕することなのだ。それは肉体をとおして肉体の上で、ひとつの意識にーヴァレリーの語るあの《神聖な不在》にー辿りつこうとのぞむことなのだ。[...]それは、本来みずから拒否する結合を求めているのではないか。本質的に欲情から逃れてゆくものである他者の自由、それを欲するものが欲情ではないか。要するに、人間存在の真正なる姿は《死ーへのー存在》であるということが真実ならば、真正な情熱は、いかなるものであれ、灰の味わいをもつはずである。死が愛のなかに現存するとしても、それはけっして愛の責任でもなく、なにかしれぬ
    ナルシシスムの責任でもない。それは死の責任だ。」サルトル「ドニ・ド・ルージュモン『愛と西欧』(書評)」『シチュアシオン
    I』所収

    欲望を<愛>のメトニミーとして描いた作品の例として、マルグリット・デュラスの『愛人』があります。

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