須賀敦子

「思いやり」という「ほどこし」や「おもらい」につながる封建時代的な人間関係を思わせる言葉に、私は、ふと、なじめぬものを感じてしまう。
「やさしい」ということが、自分の身がやせるまでに人のことを思う意味だと、ある辞書の註釈で読んだことがある。思いやりという言葉が、ほんとうに生きるためには、たぶん、わが身をやせさせても、やさしさに徹するところまで行かねばならないのだろう。
それにしても、なにかひとりよがりの匂いの抜けきれない「やさしさ」や「思いやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」のほうに、私はより魅力をおぼえるのだが。

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  1. shinichi Post author

    想像するということ

    by 須賀敦子

     「神曲」の、たしか煉獄編だったかの、ある註釈書を読んでいたら「ここでは、生前、想像力の足りなかったものが浄められている」というようなことが書かれていて、感激したことがある。それは怠惰の罪の一種だというのであった。
     ずっと以前、ある同僚とのつながりがうまく行かなくて途方にくれていたとき、私たち二人の共通の友人が「彼女は意地わるなのではないのよ。想像力が足りないのだ。それだけの話なのだから」となぐさめてくれた。この説明を踏み台にして、その人とのごつごつした関係は、すくなくとも私の側からは、すこし楽になった。ダンテへの註釈を読んでいて、私はそのころのことを思い出した。それと同時に、想像力の足りなかったのは、こちらも同じだったのではないかと思いあたって、ぎくりとした。

     人とのつながりで、私たちはよく勘をはたらかせて行動する。しかし、勘というのは直感であるから、人によって、もともと鋭かったり、すこし鈍かったりするようだ。間違って勘ちがいになることも珍しくない。勘というのは、本来は、自分の身を護るために、人間に具わった自然の能力ではないだろうか。だからそのままでは、主観的に終始しやすいのではないか。
     その生まれつきの勘を、系統だてて、というのか、もうすこし客観的に伸ばしていくのが想像力だと思う。

     想像力という概念が、持てるものから持たないものへ、強者から弱者へと、一方通行的になって、縮んでしまったときに、思いやりということばが出てくるように、私には思える。弱いものも、自分より強いものの心の、あるいは行動の構造を、想像力を駆使して理解につとめるべきだという、自由な発想を、私たちはとかく忘れがちではないだろうか。「思いやり」という「ほどこし」や「おもらい」につながる封建時代的な人間関係を思わせる言葉に、私は、ふと、なじめぬものを感じてしまう。

     「やさしい」ということが、自分の身がやせるまでに人のことを思う意味だと、ある辞書の註釈で読んだことがある。思いやりという言葉が、ほんとうに生きるためには、たぶん、わが身をやせさせても、やさしさに徹するところまで行かねばならないのだろう。
     それにしても、なにかひとりよがりの匂いの抜けきれない「やさしさ」や「思いやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」のほうに、私はより魅力をおぼえるのだが。

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