熊田千佳慕、熊田すぎ子

熊田   一番のもとは戦災で焼けたということなんです。これが僕にはとても福になったんです。
熊田夫人 五月二十九日の空襲は朝でしたから、物を防空壕へ非難させる暇がなかったんです。朝起きない人で、普通は早く起きてきても十時ですから、まだ寝ていたんです。
熊田   きれいさっぱり焼けてしまったので、師匠の山名文夫先生の所に行ったら、全部道具を集めてくださったのです。いつもなら素直にいただいてくるのに、何か抵抗があるんですね。「鉛筆一本で結構です」と言うと「えっ!」とびっくりされた。消しゴムも要らない。鉛筆一本と紙をいただいて帰ってきたんです。
そしたら一本の線を引くにも、普通の方は何本も引いて要らないところは消して一本の線を引く。それができないから、物を見るときによく見るんですね。見て、もう一つは見つめるんです。そして最後に、あっ、これだと見極める。見て、見つめて、見極める。このプロセスを神から授かったんですね。
それで、あっ、この線だなと思うときにスッと引く。こういうスケッチがそれから始まったんです。そこまでいかないといけない。そうすると頭に入りますね。そういう環境にならなかったら、今の絵はなかったわけですよ。

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2 Responses to 熊田千佳慕、熊田すぎ子

  1. shinichi says:

    座談会 生物画家 熊田千佳慕の世界 (1) (2) (3)

    熊田千佳慕
    熊田すぎ子(熊田千佳慕夫人)
    聞き手:篠崎孝子(有隣堂会長)

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    はじめに

    篠崎   熊田千佳慕(ちかぼ)先生は、明治四十四年七月に横浜の関内でお生まれになり、ことし九十歳の卒寿をお迎えになります。横浜小学校から神奈川県立工業、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業され、グラフィックデザイナーとして活躍されました。

    昭和二十四年に絵本画家として再出発され、花と虫をテーマにしたリアルで細密な絵は温かみと夢があり、フランスの「ファーブル友の会」会長から“プチ・ファーブル”と賞賛されております。昭和五十六年にボローニア国際絵本原画展に 『ファーブル昆虫記』が入選されて以来、数々の賞を受賞されております。

    有隣堂では、昭和五十六年に先生の個展を開催させていただき、大好評でしたが、この七月十三日(金)から七月三十日(月)まで、二回目の個展「熊田千佳慕の世界」を伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催させていただくことになりました。

    そこで本日は、奥様のすぎ子様にもご同席いただき、先生と絵についてお話をお聞かせいただくことにしました。

      幼稚園でクマンバチにさわってから虫の世界に

    篠崎   先生は横浜の住吉町のお生まれ・お育ちだそうですが住吉町は、当時はどんな街でしたか。

    熊田   住吉町は横浜公園のすぐ近くで、界隈には「八百政(やおまさ)」とか「千登勢(ちとせ)」とか大きな料亭がいくつかありました。お客様はほとんど東京から来ていました。

    僕のうちは、父が耳鼻科の医者をやってまして、家は洋風の建物でした。隣が「三留(みとめ)義塾」という有名な学校で、僕がのぞくと、いつもみんな遊んでるんです。だから僕もあそこへ入りたくてしようがなかった。夜は英語を教えてました。

    篠崎   お父様の源太郎先生は、もともとはどちらの方なのですか。

    熊田   出身は福島県二本松です。父は学校を卒業して宇都宮の病院に勤めていたのですが、祖父が病気になったため、明治三十一年に住吉町の病院を継ぎました。アメリカとドイツにも二年ぐらい留学してます。

    篠崎   最新の医学を学ばれたのですね。それで患者さんからは、ほとんどお金を取られなかったそうですね。

    熊田   そういうことが好きなんです。お金のない人たちが病院の前に行列をつくってました。僕はそういう父に随分影響されましてね。

     
      教室のすみっこで絵ばかり描いていた幼稚園時代

    篠崎   幼稚園は、関内の生糸検査所の所にあった横浜小学校附属幼稚園でしたね。

    熊田   そうです。僕は体が弱かったから、幼稚園には一か月おくれて入りました。行くと、うちに帰りたくて、ワンワン泣くんです(笑)。それでみんな困ってしまって、園長先生が「他のことは何もしなくていいから、好きな絵だけ描いてていいよ」と言ってくださったんです。それで教室の一番すみっこで、絵ばっかり描いていました。 だから、その先生に導かれたようなものです。

    もう一つは、幼稚園に大きなフジ棚があり、フジの花が咲くとクマンバチがたくさん飛んでくるんです。そのクマンバチの背中の黄色いところにさわりたくてしようがなかった。それでピョンピョン飛び上がっては、さわろうとしていた。今の先生だったら、すぐに「あぶないからだめ!」と言うところですが、園長先生はジーッと見ておられて、 僕が目的を達したら、「五郎ちゃん、よくやったね」とほめてくださった。ぼくの本名は五郎なんです。その、さわったときに、虫にも心みたいなものがあることがわかったんでしょうね。

    それから虫の世界にどんどん入っていきました。

     
      野球が大好きショートで打順は一番

    熊田   もう一つは、僕は野球が大好きだったんです。外国人が皮のグローブを持ってきてくれて、僕は小学校のときから皮のボールを使ってやっていたんです。だから僕が関東大地震のときに持って逃げたのはグローブだけです。
    篠崎   横浜球場では当時もいろいろ野球の試合をやっていたそうですね。

    熊田   やっていましたね。当時はホームがちょうど今と逆で、バッターは今のJRに向かって打っていました。アメリカの軍艦なんかが入港するとよく試合がありました。横浜の中にクラブチームがたくさんあったんです。

    篠崎   野球が相当お好きだったのですね。

    熊田   ええ、大好きで、野球で食べていかれるなら勉強なんかしなくてもいいやと、すぐ勉強にけりをつけた(笑)。それで一時は本当に野球で食べていこうかなと思ったことがありました。

    今、名古屋は中日ドラゴンズですが、その前身の金鯱(きんこ)軍というのがあり、中学を出たころ、そこへ籍を入れたんです。でも一週間目におやじに見つかってしまって。ポジションはショート、足は速かったんです。打順は一番です。

     
      住吉町の家にロシャパンを売りにきていた女の子

    熊田   ロシア人の親しい女の子もいらしたとか。

    熊田   ロシア人の女の子が「ロシャパン」を売りにきていたんです。

    篠崎   ロシアのパンなんですか。

    熊田   ジャムの入ったパンを揚げたものです。それを、「ロシャパン」と言うんです。「ロシア」じゃなくて、「ロシャ」なんです。

    旧居留地をずうっと売って最後にうちに来る。おやじがよく面倒を見て、その子がうちで一時間ばかり遊んでいくんです。よくロシアの絵本なんかを持ってきて見せてくれたりしたんです。あれも随分いい経験になりました。

    だから、そういう環境も僕にとっては大きな影響があったのでしょうね。

    篠崎   日本に亡命していた白系ロシアの人たちですね。

    熊田   震災前ですが、ロシア人が横浜にはいっぱいいました。男はラシャをしょって売りに来るんですよ。

     
      小学校六年の時関東大震災で横浜公園に逃げる

    篠崎   グローブだけ持って逃げられたという関東大震災はおいくつのときでした。

    熊田   小学校六年でした。学校でみんなに宿題を借りてうちに帰ってきたら、あの大地震でした。それで横浜公園に逃げたんです。水が腰くらいまで来ました。

    篠崎   横浜公園は水があったので、非常にたくさんの人が助かったそうです。

    熊田   夕方、少し落ちついたところで、「あしたから学校はどうなるの」と父に聞いたんですよ。それが一番頭にあったから。すると父は「学校どころじゃないよ」って。途端に僕は「うわ、ざまあみろっ」て喜んじゃって(笑)。周りは大変だというのに。生涯で、あんなに気持ちのよかったことはないですね。(笑)

    住吉町の家も焼けてしまって、生麦に移りました。鶴見は当時はまだ郡で、橘樹郡鶴見尋常高等小学校に転校しました。生麦の浜の子弟がたくさん来ている学校なんです。

    洋服を着ていたのは、僕とキリンビールの息子と二人だけなんです。それで僕はびっくりして、毎時間、下を向いて小さくなっていた。そしたら、あの生徒はよく勉強しているということになった。何も勉強してないんですよ。

    こういうものに随分救われましたね。横浜小学校はエリートで大変な学校でしたが、僕は勉強はやらなかった。父は勉強の「べ」の字も言わなかったんです。ただ、元気で遊んでいるのを見て、一番喜んでましたね。

    デザイナーとして土門拳らと仕事
    篠崎   それから神奈川県立工業学校の図案科、昭和四年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入られ、その後、デザイナーの道へ進まれたわけですね。

    熊田   美術学校を出ても、食べることができないんです。そういう学校ですから。あの時代は道楽息子ばっかりでしたね。僕は昭和九年に日本工房に入り、商業美術をやっていました。

    篠崎   日本工房は商業美術で日本のはしりだそうですね。

    熊田   鐘紡(現・カネボウ)の化粧品の広告のデザインをやったり、外国向けの写真アルバム『日本』もつくっていました。

    土門拳も、そこで一緒に仕事をした仲間なんです。あいつが嫁さんをもらうのに、僕がプロポーズのせりふを書いて、演技までやらせたりして。でも、土門は「五郎ちゃんだめだったよ」とそんなことばっかりで(笑)。 だからあいつとは一番親密だったですね。

    篠崎   写真アルバム『日本』は土門拳さんと一緒におつくりになったんですね。

    熊田   ええ。僕は二十歳ぐらいのとき、表現派だとか、構成派だとか、そういうのにすごくかぶれていたんです。そういうもとがあったのでフォト・モンタージュの形式で日本を全部紹介しました。

    みんなモンタージュですから、いろんな写真を土門に撮ってこさせて、それを僕が切り抜いて、自分で張って画面をつくる。お経みたいな経本折りになっていて、全部広げると七メートルほどになり、一つの壁画になります。それが両面なんです。昭和十一年頃です。

    篠崎   軍国主義華やかな頃ですね。

    熊田   それを、政府がヨーロッパ各地に全部ただでまいたんです。

    熊田夫人 うちにあったのは戦災で焼けてしまって、戦後、一緒に会社にいらした方が、「僕は中国語の説明のついたのを持ってますから、どうぞ」と言ってくださった。それを大事にしていたんですが、あちこちに持っていくので、ぼろぼろになってしまいました。国会図書館にはちゃんとしたのがあるそうです。

     
      戦時中モーニング姿で結婚式を

    篠崎   先生は、とてもおしゃれですが、戦時中も変わらなかったですか。

    熊田   結婚式を挙げたときは、ちょうど戦時中で、町はみんな戦闘帽をかぶって、カーキー色一色だった。でも、こんなことは一生に一度だと思いまして、モーニングで歩いていきました。

    篠崎   毎朝、警戒警報が鳴っていた頃ですよね。

    熊田   その前はパーマネントも派手にかけていました。

    篠崎   どこでパーマネントなんかかけられたんですか。

    熊田   横浜公園の前の柴垣という一番有名なお店で、女の人にまじって、すみっこでかけてもらいました。

    熊田夫人 パーマは昭和十六年頃からかけていたんじゃない? かけた日に召集令状が来たんですものね。

    熊田   すごく派手にかけてきたら、その晩に召集令状が来て、しゃくにさわって毛を剃ってしまいました。そうしたら軍隊で遺髪を取れといわれて、僕は取れない。それでわきの下でいいよと(笑)。初めは「こて」でパーマをかけていたんです。おやじがまたおしゃれで、「こて」でやっていた。

    篠崎   「こて」だとお風呂に入ると延びるでしょう。

    熊田   そうなんです。新聞紙にジュッとやって焦げるぐらいの熱さがちょうどいいんですね。前髪をやっているうちに、おでこにくっついて、やけどするんです。それで困っていたら、パーマをかけなさいよと言われましてね。

    篠崎   私はその頃、子供でしたが、“贅沢は敵”“パーマネントは止めましょう”などと言ってましたよ。対象はもちろん女性です。ですから男性は論外です。お父様のリベラリズムの血を受け継いでおられるんですね。

    熊田   本当に明治時代のリベラリストですね。

    篠崎   絵を描かれる方が、ご親族におられたんですか。

    熊田   おりません。一番上の兄・精華(せいか)が詩人です。詩人と絵かきと、二人がおやじのすねをかじっていました。

     
      電信隊に入隊三か月で召集解除

    熊田   召集令状がいつ来るかと、そればかり心配してましたが、三十過ぎたら、もう大丈夫だとほっとしていた。

    篠崎   それで派手にパーマをかけられたら……。

    熊田   その日に召集令状が来た。昭和十六年七月に入隊しました。

    篠崎   どこに入隊されたのですか。

    熊田   東部八十八部隊という電信隊で、相模原市にありました。僕は機械を乗せた馬を引っ張る役で、馬を扱うだけでも大変でした。それで馬の飼葉(かいば)桶を背負っているうちに倒れて、軍医さんの所に行った。

    篠崎   相当きついお仕事だったんですね。

    熊田   ちょっと芝居をしたんです(笑)。演劇が好きでやっていましたから。

    その軍医さんに「おまえは筆より重いものを持ったことがないだろう」と言われたから、「そうです」と言うと、「それじゃ解剖の絵を描いてくれないか」と。解剖の絵はうちでよく見ていたから、軍医さんの部屋に毎日行って、のんびりと内臓の絵を描ていました。

    一か月ぐらいしたら、軍医さんに「もうすぐ帰れるよ」と言われた。病気になって三十日たっても治らなければ召集解除になるんだそうです。ですから、軍隊にいたのは三か月です。

     
      新婚八日目に横浜大空襲で家が焼ける

    熊田   昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で、家は焼けてしまいました。結婚して八日目でした。

    篠崎   その頃はどこに住んでおられたのですか。

    熊田夫人 新子安です。日産のグラウンドが新子安駅の西側にあり、北側が浅野総合中学(現・浅野高校)で、うちの前の道が浅野の登校路になっていたんです。

    熊田   空襲で避難するときは、家の後ろの浅野総合中学に逃げることになっていたのですが、父は、すぐそばの昭和電工の社宅にすんでいた一番下の妹や孫が心配で、南側の妹のうちへ行ったら、もう誰もいなかった。そこへ昭和電工に女子挺身隊で来ていた娘さんがちょうど来た。結核で、父が診てあげてた人で、その人と一緒に避難した らしいんです。

    そのうちに周りが燃えてきて、鉛の電話線が溶けて父の首筋に落ちて火傷をした。防災ずきんは、その娘さんにあげてしまって、自分は鉄かぶとだけでいたんです。二人で線路のそばまで逃げて来て、新子安駅付近の千草という和菓子屋さんの前の防火用水の中に、二人が交代で入ったり出たりしていたんです。

    娘さんは防火用水の中に入ったままで亡くなり、父は防火用水の外で倒れているのを千草のご主人が見つけて、子安小学校の救護所にへ連れていき、親戚の古川病院に収容してくださった。

    熊田夫人 私たちはそんなことは知らないで生麦の鉄橋の下に避難していたんです。火がおさまって戻ってきたら家は全部焼けていて、「熊田先生のご隠居さんが亡くなられました」と。亡くなった方の防災ずきんに父の名前が書いてあったので、熊田さんということになったらしいんです。でも、父も一週間後の六月四日に 亡くなりました。

    子安の周辺は井戸のポンプがあった一軒だけが残り、あとは全部丸焼けでした。

    **

      子どものころ見た外国の絵本のような絵を

    篠崎   終戦直後はどうやってお暮らしになったんですか。

    熊田   鐘紡に所属していたので、そのデザインの仕事をしていました。そのときは給料生活ですから、一定のものが毎月入ってきました。

    篠崎   それで昭和二十四年に絵本作家として出発されるんですね。

    熊田   当時の絵本は真っ赤とか真っ青とか、しつこい絵ばかりで、こんな絵を小さい人たちに見せたら大変なことになると思い、ばかみたいにむら気を出しましてね。デザインの仕事をほっぽって、絵本の世界に入ることになったんです。

    それで白地のたくさんある絵を描いた。講談社などは全部描かないと怒られる。白地を残すともったいないというんです。僕は子どもの頃から外国の絵本をよく見ていて、白地のあるすてきな絵本がたくさんあったので、そういう絵を描いていたんです。

    篠崎   やはり外国の絵本に相当影響されたのですね。

    熊田   はい。だから、僕のデザインもみんな、外国の絵本みたいな、日本人くさくないんです。ロシア人の女の子から絵本を見せてもらったほかにも、うちの病院には外国人の患者さんがたくさん来ていたので、いろいろ外国の絵本をもらいました。アメリカ人とか華僑の人とか。

     
      『みつばちの国のアリス』で昭和二十五年に装幀賞を受賞

    篠崎   初めての絵本『みつばちの国のアリス』で昭和二十五年に装幀賞を受賞されますね。

    熊田   そこに行くまでが大変だったんです。戦後すぐの印刷は紙もインクもないし、機械も悪いので、僕の絵の細かい部分はとても表現できなかった。だから、僕の所に来る仕事がなくなってくるわけです。僕は、外に仕事をとりに行ったりできませんから、うちでジッと待っている。でも、 ただ待っていても、なかなか来ませんよね。本当にその時分は苦しかった。

    絵が一枚も売れなかったものですから、本当に大変な時代でした。その後、ようやく講談社の絵本などの仕事が入ってくるようになった。講談社の絵本の仕事をすれば一流だと言われるほど、格のある絵本だったんです。

    熊田夫人 最初は装幀とイラストで、昭和二十四年にゲーテ原作の『狐のたくらみ』(中央公論社)をやりました。これはモノクロでした。初めての絵本が『みつばちの国のアリス』(羽田書店)で、昭和二十五年に装幀賞を受賞しました。これはカラーで、日本で一番最初に絵本化したんです。

    熊田   僕は小さいときに、そういう絵本をたくさん見ていましたから、これは大変うれしかったですね。

    熊田夫人 でも、一冊でき上がるまでに長くかかりましてね。東京から絵をとりにみえる編集者もかわいそうでしたよ。当時は、東京から来ると出張扱いだったんです。

    熊田   ですから空手で帰れないわけです。それに僕の所は電話がなかったから。

    熊田夫人 だから、電報で催促なんです。電報ばっかりでした。それから赤電話が近所に入るようになった。それでうちに来てももらえないから、そのまま帰らなくちゃならない。編集者は下のほうの人が来ますので会社に帰れば叱られるわけですね。 それで、電話の番をしているおばちゃんが、「大丈夫よ。先生は気が向けば描きますから」と言ったと。「泣いてましたよ」て、よく言われました。

    熊田   僕の家の横に坂がありますが、「なみだ坂」と言うんですよ。

    篠崎   かわいそう。

     
      一、二年かけて楽しんで描くからハングリーな生活

    熊田夫人 講談社の絵本としては昭和二十八年に『ふしぎの国のアリス』、三十年に『オズの魔法つかい』、三十一年に『みつばちマーヤ』、三十二年には『ピノキオ』を出しました。その他、あかね書房や文陽堂、偕成社などの絵本も描きました。

    熊田   三か月ぐらいで描けばいいんでしょうが、二年もかかったらね。

    篠崎   描き出されるまでにお時間がかかるんですか。それとも気に入らないからですか?

    熊田   もう楽しんじゃうんです。こうだこうだって一人で楽しんじゃう。描き上げるのにみんな一年とか二年とかかかっていましたから、いつまでたってもハングリーな生活でしたね。

    そういうところで僕はファーブル先生に非常にあこがれたんです。

      『ファーブル昆虫記』の虫を生涯のテーマに

    篠崎   ファーブルのお仕事を始められたのはいつ頃からですか。

    熊田夫人 昭和四十一年に、『シートン動物記・ファーブル昆虫記』を講談社から出したのが最初です。

    熊田   六十歳のときです。

    篠崎   先生が描いてみたいと思われたのですか。

    熊田   そうです。その後、世界文化社の方が僕の絵をとても気に入ってくださって、「先生、二年差し上げますから、ファーブル昆虫記を描いてください」と言われた。

    熊田夫人 世界文化社から『ファーブル昆虫記』が出たのが、昭和四十六年です。

    熊田   きっちり二年かかりました。このあたりから『ファーブル昆虫記』の虫たちを生涯のテーマにしようと思いはじめたんです。

    それから昭和五十六年にコーキ出版から『ファーブル昆虫記』を出しました。これが、ちょうど七十歳のときです。

    篠崎   このときですね、有隣堂で先生の展覧会をやらせていただいたのは。

    熊田   僕の生まれて初めての展覧会だったんですよ。

    熊田夫人 それまで絵は、外には全然出しませんでしたので。

    熊田   それと、この中の作品がボローニア国際絵本原画展で入選して、一気にスポットが当たって……。ちょうどモグラが外に出たみたいに、もう何が何やらわからなかったですね。

     
      ファーブルに惹かれたのはまず貧乏なところ

    篠崎   先生は“日本のファーブル”と言われていますが先生がファーブルに魅せられたのはどういうところでしょうか。

    熊田   貧乏なところが一番惹かれた(笑)。そして虫を見る目が全然違いますね。虫を人間と同じような目で見ている。僕が虫と対している時の気持ちと同じだなと思いました。そういう点からも非常に好きでした。

    『ファーブル昆虫記』も、小さいときに一番上の兄貴から読んで聞かせてもらったりしていて、非常に頭にありました。それに小さい頃から虫好きだったので、大きくなったら、これを絵に描いてみたいなという気持ちがあったんです。

    ファーブルみたいな人はほかにはいないと思いますね。やっぱりファーブルが一番ですね。

    篠崎   ファーブルのお仕事は、これからもまだまだ続くわけですね。

    熊田   ええ。このごろは、パリの自然史博物館のミッシェル・ボラールさんが、日本ではなかなか見られない昆虫の標本を送ってくださるんです。「ひげなんか少しとれている標本で結構ですから、送っていただけませんか」と手紙を出したところ、これ以上きれいなものはないという標本を送ってくださった。

    僕は怖くて、触角がとれたら大変だと思って、「こんな立派なものを送っていただいたけど、怖くてさわれない」と手紙を出したら、「あなただからこそ立派なものを送りました。自由にお使いください」と言ってくださった。

    **

      「見て、見つめて、見極める」

    篠崎   先生の描き方はどういうところから生まれたのですか。

    熊田   一番のもとは戦災で焼けたということなんです。これが僕にはとても福になったんです。

    熊田夫人 五月二十九日の空襲は朝でしたから、物を防空壕へ非難させる暇がなかったんです。朝起きない人で、普通は早く起きてきても十時ですから、まだ寝ていたんです。

    熊田   きれいさっぱり焼けてしまったので、師匠の山名文夫先生の所に行ったら、全部道具を集めてくださったのです。いつもなら素直にいただいてくるのに、何か抵抗があるんですね。「鉛筆一本で結構です」と言うと「えっ!」とびっくりされた。消しゴムも要らない。鉛筆一本と紙をいただいて帰ってきたんです。

    そしたら一本の線を引くにも、普通の方は何本も引いて要らないところは消して一本の線を引く。それができないから、物を見るときによく見るんですね。見て、もう一つは見つめるんです。そして最後に、あっ、これだと見極める。見て、見つめて、見極める。このプロセスを神から授かったんですね。

    それで、あっ、この線だなと思うときにスッと引く。こういうスケッチがそれから始まったんです。そこまでいかないといけない。そうすると頭に入りますね。そういう環境にならなかったら、今の絵はなかったわけですよ。

     
      低い目線で描くのは軍事教練で腹這いになったときから

    篠崎   先生のお描きになる特に虫の絵は、低い目線で描かれていますが、これもこの頃からなんですか。

    熊田   それはもっと前になります。神奈川工業での軍事教練のときに、みんな腹這いになって、どんどん撃つんです。僕は撃つのがきらいなので、あごに手をやって見ていたら、草むらからコオロギが出てきたりする。これが虫の世界だなと思いました。

    それまでは、上から見ていた。あっ、これが虫の本当の世界だと思って、もう顔を地面にくっつけるようにして見ていた。静かになったなと思ったら、もうみんな向こうに行っていた。そのときにまた芝居が役に立ったのですが、片足を引きずりながら出ていったんです。

    教官が怒ろうとしたので、「実戦では、こういう負傷した兵隊もいるんじゃないですか」と言ったら、「そうか、よくやった」ってほめられました。

    そのときに初めて、虫の世界は、自分の目をそこまで下げないと見えないということがわかったんです。

    篠崎   それが、そういう視点で見るようになられた原点ですか。

    熊田   はい。

     
      道路に腹這いになって虫などを観察し家に帰って描く

    篠崎   先生は今でも道路などに腹這いになって観察されるそうですね。

    熊田   行き倒れだと、すぐ思われる。

    篠崎   お住まいの三ツ沢の周りですか。

    熊田   うちの周りでもやりますし、あと豊顕寺(ぶげんじ)のほうとか。

    今の人は、十メートルぐらいの所に来ると、立ち止まってこっちをうかがいますね。僕だったらサッと飛んで行って、「どうしました?」と言いますけど。それで何か観察しているなと分かるとそばに来ます。それを観察するのも面白いですね。(笑)

    篠崎   主に虫ですか。

    熊田   ええ。虫がたくさんおりますから。僕は現地では決してスケッチはしないんです。ただ、観察している。虫は四六時中動いていますから、一々描いていたら本当のものが描けないんです。

    皆さんはよくスケッチしていらっしゃるけど本当のものは描けないと思いますね。それより、一緒になって見て、頭に焼きつける。それでうちに帰ってきて、頭の中に入っているものを描いていくんです。

     
      描く前に座禅を組んで花と対話

    篠崎   花も外で観察なさって、自宅にもどられてから描かれるんですか。

    熊田   ええ。それから切って持ってきたり、持ってこられるものは、机に持ってきます。

    まず初めに座禅を組むんです。花なら花との対話です。これは本当に口はばったい言い方ですが、神との対話みたいな感じになるんですね。

    そういう雰囲気になって見ていくと、ここはこう描くんだよ、と教えてくれるようなことがよくあります。不思議ですが。

     
      細密な色の画法の始まりも窮乏生活から

    篠崎   色の付け方はどういうところから生まれたのでしょうか。

    熊田   大概の色は頭で覚えました。そのために何回も何回も見ました。だけど中間色のところは覚えられません。それで、弱ったなと思っていたところ、避難していたうちの縁の下に、空襲で焼け残ったコチコチの絵の具が固まって捨ててあるのを見つけたんです。 見たらフランスのル・フランの絵の具で、ちょっと水をつけたら美しい紫が出たんです。

    それでコチコチの絵の具をお皿にくっつけて溶いたのですが、量が少なくて、一筆で線を引くことはできないんです。そうだ、一つの面というのも細かい線が固まってできるんだ、と思って、それで筆先に少しつけて、鉛筆描きのようにして描いていったんです。そうやって色を 使いました。それが僕の画法の始まりなんです。

    篠崎   絵の具の量が少なかったために、細く細く、一本ずつ描かれたわけですか。まさに糸ですね。

    熊田   そうなんです。ちょうど日本刺繍と同じで、下の色が上に出てくるわけです。それを皆さんがご覧になると非常にやわらかで、立体的に見える。こういう描き方も、やっぱりそういう境遇じゃなかったら生まれなかったと思いますね。

    篠崎   先生が発見されたわけですね。

    熊田   発見というより神様が教えてくださったんです。それで、全部神様から教わった技法だから、こんなものを売ったら大変なことになるという気持ちになり、絵は一枚も手放さないんです。

    篠崎   先生の絵を欲しいという方は大勢いらしゃいますでしょう?

    熊田   一枚でも二枚でも、少し売ればもっと生活が楽になるのにと、よく友だちに言われたのですが、やはり売れませんね。

    篠崎   おうちできちんと保存なさるのは、大変でしょうね。

    熊田夫人 空気が遮られているようなうちでしたら、湿気や暖房で困るでしょうが、うちはすき間のあいている家で、年じゅう空気の出入りがありますから、保たれてきたんだろうと思うんです。今はもう入りきれなくなって、半分ぐらいは外部に預けてあります。

    篠崎   先生の作品は全部でどのくらいあるんですか。

    熊田   僕は一枚一枚に相当時間がかかるので、数は割と少ないんですが、八百点ぐらいはあるんじゃないかと思いますが。

     
      「千人の佳人から慕われる」意の千佳慕に

    篠崎   先生はどうして千佳慕さんというお名前にされたのですか。

    熊田   僕は五番目の子どもでしたので、五郎とつけられたんです。ほかの兄弟はみんな凝った名前なのに、僕だけ単純に五郎なんです。

    僕は小さい頃から熊田五郎という名前が嫌いだったんです。幼稚園や小学校でも、よく出席をとりますね。僕は、「熊田五郎」って呼ばれるのが、ほんとにいやでしようがなかったんです。

    それでもずっと熊田五郎で仕事をしていたんですが、四十歳前ぐらいの頃でしたか、あるとき、あるおじいさんが手紙をくださったんです。孫に絵本を買ってきて、見ていたら、この絵はすごくいいと思われた。ところが、その絵に書いてあった「ごろう」というサインを見て、 この名前はよくない、病気になって、すぐ死んでしまうと。だから私の言ったとおりの名前にすぐ変えなさいと書いてあったんです。

    熊田夫人 学研の幼稚園雑誌の『おともだち』に描いていた頃です。

    熊田   その人に「千佳慕」という名前にしなさいと言われたんです。三か月たつと財政が少し豊かになり、名声も出てくる。三年たてば、あなたの前途は洋々たるものだと言われました。しかし、名前を変えて三か月たっても何も変わらないんです(笑)。 三年たっても同じなんです。

    篠崎   何年目からよくなりました?

    熊田   何年たっても全然だめですね。(笑)

    篠崎   その方は面白いお名前を選ばれましたね。

    熊田夫人 「千人の佳人から慕われる」という意味だそうです。皆さんに名前を知っていただいたから、それだけは当たりましたけどね。それから体が丈夫になったことも。財政だけが豊かになりませんでしたけど。(笑)

    70歳のルネサンス−「私は虫であり、虫は私である」
    熊田   自分でも本当に不思議なんですが、七十歳になったときに展覧会を開いていただき、初めて、「私は虫であり、虫は私である」ということが夢の中で聞こえたんです。そうか、自然は自分のためにあって、僕は自然のためにあるんだなという気持ちになりました。 ですから七十歳は僕のルネサンスなんです。それまでは水面下のヘドロの所で、ずっと生活をしてきましたので。

    篠崎   水面下のときがおありだったから、七十歳で画期的なものが出てきたんでしょうね。

    熊田   詩人だった一番上の兄から「リルケが言った言葉に、七十、八十になって初めて一行の詩が書けるんだというのがある。五郎、決してあわてちゃいけないよ」と、よく言われていたんです。それで七十歳になったとき、兄はヘレン・トローベルというピンクのバラが好きだったんですが、「ヘレン・トローベルを描いてくれないか」と初めて兄が僕に言った。僕の絵を 認めてくれたんです。

     
      生涯の中で八十歳が一番輝いていた

    篠崎   七十歳ぐらいになると、もう一度若いときに返りたいとか、よく聞きますが、お年をだんだん積んでいかれることを、先生はどういうふうに考えておられますか。

    熊田   僕は単に新しいところに行かれるな、と思っているんです。七十になって、目が覚めたんだから、まだ大丈夫だろうと思いました。

    八十歳のときは、まだまだ何かあるなと思いました。そうしたらNHKのドキュメンタリー番組「プライム10−私は虫である」という大きな仕事が来ました。これをやり始めたら、もううれしくてうれしくて夢中になってやった。それで、あっ、これだけまだ力があるんだなと思いました。それから次々に新しい仕事が来たんです。

    だから、生涯の中で八十歳が一番輝いていました。いろんなことをしました。ところが、九十歳というのは、もう先が見えているんですよ。

    篠崎   だけど、また別なご心境が開けるのではないかなと思うんですが。

    熊田   そうも思ったりもするのですが……。二十年前に有隣堂で展覧会をやって、七十歳からいろいろ仕事が増えましたから、また今度、有隣堂で展覧会ができることは、本当に僕にとってうれしいことで、これをつかんだら、また少しは何かが出てくるかなと思っています。

    今はそういう心境ですが、去年はちょっと病気をしたりして、仕事ができなくなってしまっていたんです。

    篠崎   これからのお仕事はどんなことを考えていらっしゃいますか。

    熊田   先ほども言いましたように昆虫記の仕事が永久にあります。小学館から一枚でも多く描いてくれと言われているんです。今は、一年に三枚のペースなんです。

    篠崎   あとは何か新しいことはお考えですか。

    熊田   まだ別に考えておりません。描きたいものはたくさんあるのですが。それともう一つ。ファーブル先生の一人芝居をやりたいこと。

     
      展覧会では代表作五十数点を展示

    篠崎   今回、伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催させていただく「熊田千佳慕の世界」展では、『ファーブル昆虫記』をはじめ『ふしぎの国のアリス』『ライオンめがね』『みつばちマーヤの冒険』の原画や今年四月に小学館から出された『花を愛して』の原画、その他、先生が今までお描きになった虫や動物など、 代表的な作品を約五十数点展示させていただきます。それから、会期中に先生が読み聞かせもやってくださいます。

    熊田   七月二十二日です。初めてなんです。兄の詩を読まされたことが一度ありますけど。

    篠崎   二十日には先生のトークショーとサイン会も予定しております。

    熊田   伊勢佐木町のお店は僕が小さいときから行っているから、なつかしくてね。

    篠崎   きょうは本当にどうもありがとうございました。

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